本田宗一郎

THE POWER OF DREAMS
 偉人は、みんな個性派ぞろい。その中でも明治生まれの本田宗一郎の個性は強烈です。
 明治という時代は、明治維新という言葉があるように、”外国に追いつけ、追い越せ”の時代でした。人々の向上心は、現代とは比べ物にならないほど豊かだったのです。勤勉とは、明治時代の人々に与えられる言葉なのかもしれません。学歴は必要ないが、学問は必要だ。こんな声が聞こえてきそうです。
 第2次世界大戦の終結後、日本ではGHQによって財閥解体が行なわれました。その結果、年寄りが去り、若き経営者が才能を開花させました。
 私は、今の日本の礎を築いたのは明治生まれの経営者だと考えています。本田宗一郎は、明治生まれの経営者の一人です。
 本文には本田宗一郎の言葉をちりばめましたが、年代は必ずしも一致しておりません。彼の足跡と言動から、本田宗一郎という人物像をつかんでいただければ幸いです。
 
 1906年(明治39年)、本田宗一郎は誕生しました。
 幼少のころ、近所にやってきた自動車を、我を忘れて追いかけたそうです。路面に落ちたオイルの臭いをかぎながら、いつか自分で自動車を作ってやろうと思い立った。こんな話が残されています。
 浜松で航空ショーがあることを知り、学校をサボって見に行ったことがあったそうです。入場料10銭のところ、2銭しか持ち合わせがなく、会場の外の木によじ登って飛行機を見たそうです。
 
 1922年(大正11年)、本田宗一郎15歳の時、自動車修理会社の”アート商会”に丁稚奉公に行きました。現代風の表現で言えば、就職したということです。宗一郎は、進学よりも就職の道を選んだのです。
 丁稚奉公は、戦前まで日本に存在した制度です。衣食住を保障する代わりに、ほとんど無償で仕事をさせる制度です。商売の基本をみっちりと教え込まれました。今日食べるものにも困る生活を送っていた子供にとっては助け船のような制度でした。優秀な奉公人は出世し、自立することも可能でした。
 本田宗一郎の場合、自ら志願して自動車修理屋に丁稚に行ったそうです。はじめは子守りなどの雑用しかさせてもらえず、何度も実家に帰ろうと思ったそうです。昔は、誰もが雑用係りから始めたのです。宗一郎も例外ではありませんでした。

 戦後、丁稚奉公の制度はGHQにより廃止されました。
 
 1924年、カーチス号(アート商会)の製作に参加します。
 翌年、第6回日本自動車レースに”カーチス号”で出場しました。結果は、優勝です。アート商会で働き始めてから、わずか3年での快挙でした。
 カーチス号の名称の由来は、カーチス航空機のエンジンを搭載していたからだとか。

カーチス号
 1928年(昭和3年)10月、本田宗一郎はアート商会から”のれん分け”の形で独立しました。アート商会浜松支店の従業員は、宗一郎を含めて二人きりでした。
 大晦日、勘定を締めきってみると80円が残り、宗一郎は満足したといいます。当時、本田宗一郎は一生のうちに1,000円儲けようと考えていたそうです。80円は大金だったのです。
 
 1934年、本田宗一郎は新会社(現東海精機株式会社)を設立し、ピストンリングの製造を始めました。自動車修理を続けていたら、独立した弟子たちと競合してしまいます。このことがイヤで新会社を設立したそうです。
 
 1936年、多摩川第1回自動車競技大会が開催され、本田宗一郎は”浜松号”で出場しました。
 本田宗一郎は、このレースで転倒し、九死に一生を得ています。一歩間違っていたら命を落としていたかもしれない。それほどの大転倒でした。私の記憶が確かであれば、車から放り出され、宙を舞っています。
 
 1937年、本田宗一郎は、ピストン・リングの製造に行き詰まり、浜松高等工業機械科(現静岡大学)の聴講生となります。学生服を着て登校したことで知られています。授業を聞く以上、社会人でも学生に変わりはないということだったのでしょう。
 田代先生は、宗一郎がつくったピストン・リングを見て「シリコンが足りませんね」と即答したそうです。この時、知識というものの重要性を感じ取り聴講生になったのです。9ヶ月後、ピストン・リングの製造に成功します。ピストン・リングの製造に関係がない授業には出席せず、試験も受けませんでした。
 校長から呼び出され、「お前には卒業の免状はやれん」と言われたとき、次のように応じたそうです。
 「免状なんていりません。そんなものをもらうより映画の入場券のほうがまだましです」
 学問を直接仕事に役立てたい。そう願う本田宗一郎にとっては、卒業証書など必要なかったのです。

 のちに、ピストン・リングの製作に行き詰った時ほど学校の勉強をさぼったことを悔いたことはない、と語っています。

黒い部品がピストンリング
 1945年、第2次世界大戦が終結しました。
 終戦直後、本田宗一郎は”人間休業”を家族に宣言して一年間仕事をしませんでした。9年前に創業した東海精機重工業の株を全てトヨタに譲ったそうです。
 休業中、製塩機やアイスキャンディー製造機を開発していたという噂があります。「火のないところに煙は立たぬ」といいます。宗一郎の性格を考えると、何か試みていたことは間違いないでしょう。技術者魂は健在だったのです。
 ”能ある鷹はツメをかくす”という言葉がありますが、宗一郎はこの言葉が嫌いだったらしく次の言葉を残しています。

 「若者は、そんなことにとらわれてはならない。まず失敗を恐れず、そして大いにツメを磨いて、その能力をどんどん表わすことだ」

 
 1946年10月、本田宗一郎は静岡県浜松市山下町に本田技術研究所を開設しました。後に山下工場と呼ばれるようになります。この研究所で内燃機関や各種工作機械の製造、それらの研究に従事しました。
 さかのぼること1ヶ月前、本田宗一郎は旧陸軍の”六号無線機発電用エンジン”と出会います。このエンジンを見た瞬間、「このエンジンを自転車に取り付けたら、どんなに役に立ち、どんなに喜ばれるだろう」と感じたそうです。戦後の交通事情は戦前よりも低下しており、人々は自転車に山のような荷物を積んで運んでいたのです。
 自転車用補助エンジンは、独特なエンジン音から、”バタバタ”という愛称で呼ばれていました。排気量は50ccで、1馬力の出力を得ました。
 自転車用補助エンジンはヒット商品になり、終戦で陸軍が消滅していたことから、六号無線機発電用エンジンも手に入れることが困難になっていきました。そこで、自転車用補助エンジンの品不足を解消するために、ホンダ独自のエンジン開発が始まりました。
 翌年、初めてHondaの名が付いた自転車用補助エンジン”A型”の生産を開始しました。ヒット商品になったそうです。
 

自転車用補助エンジン
 1948年9月24日、本田技研工業株式会社を設立。本田技術研究所が株式会社となり社名も変更されました。看板の掛け替えもなく、創立祝いもなく、普段通りに仕事が行なわれました。
 
 
 1949年、藤澤武夫を専務として迎えます。
 本田宗一郎は、経営が苦手でした。集金に行くと客に逃げられ、代金の回収ができず、頭を抱えていたそうです。そんな時、竹島弘さんの紹介で、材木店を経営していた藤澤武夫と出会います。藤澤は交渉術にたけていました。資金繰りの天才と呼ばれ、ホンダの財政を支えました。
 藤澤が入社した後、技術関係は宗一郎が仕切り、経営は藤澤が仕切ったといいます。二人三脚といわれるゆえんです。最初の一年間は暇さえあれば理想を語り合い、コンビを組んでから社長を辞めるまで社長印にさわりもしなかったそうです。
 この年、ホンダ初の本格的モーターサイクル、ドリームD型を発表しました。自転車用補助エンジンのホンダA型から始まり、4世代目のD型には補助エンジンの面影はなく、自転車でもありませんでした。
 ドリームという名称が付いたいきさつを本田宗一郎は次のように述べています。
 「忘れちゃったよ。今に世界のホンダになる、って、おれが夢みたいなことばかり言ってたから、だれかがドリームって言い出したんだろ」
 

ドリームD型
 1952年11月、本田宗一郎はアメリカ工業界の視察と工作機械購入のためアメリカに行きました。そして、アメリカ自動車メーカーの大量生産工場を訪れ、現場のラインシステムから作業環境まで注意深く観察しました。
 国内で第一流の二輪メーカーになったホンダでしたが、社長の本田宗一郎は満足していませんでした。宗一郎の目標は、自社製品の品質を世界的水準以上に高めることでした。いくら輸入規制を掛けても、日本の製品ではアメリカやヨーロッパの製品には勝てないと感じていたそうです。
 当時のホンダは、生産工場というより組立工場でした。全部品の80%以上を外注していたそうです。戦前の古い工作機械で作られた部品を買っているようでは、世界品質の製品は作れない。それなら、最新の工作機械を手に入れようということになったのです。
 購入した工作機械は総額4億5千万円に達しました。この時、ホンダの資本金は600万円であり、分不相応の大決断だったと伝えられています。性能・外観・価格、全ての品質において世界一を目指すためには、無理をしてでも、高い性能の工作機械を手に入れる必要があったのです。

 「当時の技術屋はエンジンというものは壊れるものだという観念をみんな持っていた。ところが、大きなエンジンが4つもついているのに、1つも故障せずにアメリカ本土まで飛んでいってくれたわけでしょう。まさに、奇跡という感覚しか持てなくてね。日本はエライ国と戦争したもんだ、とつくづく思い知らされましたよ」
 
 1954年3月15日、本田宗一郎はマン島TTレースの出場を宣言しました。通産省や業界内からは、「身の程知らず」だと物笑いの種にされたといいます。
 宣言には、「全世界の覇者となる前には、まず企業の安定、精密なる設備、優秀なる設計を要する事は勿論で、此の点を主眼として…」と記されています。本田宗一郎が何を目指していたのかを知ることができます。
 さらに読み進めると、「同じ敗戦国でありながらドイツのあの隆々たる産業の復興の姿を見るにつけ、吾が本田技研は此の難事業を是非共完遂しなければならない。」とあります。
 宣言の後、宗一郎は初めてTTレースを視察しました。参加マシンはホンダの3倍以上の出力を有していました。これはえらいことを宣言してしまった、と自分でも呆れたそうです。
 「本当に出るのですか」と社員に聞かれ、次のように答えたそうです。
 「今、みんなが苦労している時だろう。そういう時こそ夢が欲しいじゃないか。明日咲かせる花は、今、種を蒔いておかなきゃいけないんだ」
 日本政府が経済白書に”もはや戦後ではない”と記述したのは、TTレース出場宣言の2年後でした。敗戦の傷が癒えない中での出場宣言だったのです。
 
 1956年、ホンダが浅間火山レースに出場。ホンダのバイクだけが独自開発によるもので、他のバイクは外国のコピーだったそうです。

 「日本は、明治から今まで、ずーっと後進国だったんですね。先進国の仲間入りをして、向こうと同じ水準になった。これからは自分のオリジナルなものをつくることが世界をリードするってことなんだ。つまり、世界一じゃなけりゃ、日本一じゃないんだね」
 
 1958年8月、耐久性・低燃費・扱いやすさを備えたスーパーカブC100型が誕生しました。開発着手から1年8ヶ月後のことでした。
 2年前、本田宗一郎と専務の藤澤武夫は、バイクの本場ヨーロッパで視察を行ない、一つの結論に達しました。
 結論を形にするために、手を使わずに変速できる自動遠心クラッチ、静粛性に優れた50cc空冷エンジンなどが開発されました。泥跳ねテストは、本田宗一郎が自らバイクに乗り実施したと伝えられています。
 スーパカブC100型は、その後も改良が重ねられ世界中で愛用されています。
 

スーパーカブ C100型

RC142

耕運機 F150
 1959年、マン島TTレースの125ccクラスに、Honda RC142が5台出場し、谷口尚己(たにぐちなおみ)が6位入賞をはたしました。

 このころ、農作業に牛馬が活躍していました。機械化で 農家の労働を少しでも軽減させたいという思いから”耕うん機 F150”は誕生しました。
 低重心、手元集中操作で扱いやすさを追求しました。
 このころホンダはオートバイ量産工場の建設地を探していました。建設地は鈴鹿市に決定したのですが、本田宗一郎はその理由を次のように述べています。
 「オートバイ量産工場の建設を鈴鹿市に決めたのは、渋茶一杯しか出なかったからなんだ。お茶菓子も出なかったね。ある自治体では、過剰な接待があって工場用地の話は後回しにされちゃったんだ。副社長と二人であきれましたね」
 
 1961年、ホンダはクーパーT53を購入し、F1参戦の準備を始めました。
 当時、ホンダは二輪のオートバイメーカーであり、四輪競技のF1に出場するには、本物のF1マシンを購入して研究するしかないと考えたそうです。
 ホッケンハイムで行なわれた東ドイツGPでは、高橋国光(Honda RC162)が日本人初のグランプリ制覇を果たしました。まだ21歳でした。
 マン島TTレースでは、ホンダが125ccクラスと250ccクラスで優勝。2RC143は、125ccクラスで1位〜5位を独占するという快挙を成し遂げました。

 「”世界を制す”ということをやらない限り、それは成功とは言えない」

T53

2RC143
 1962年9月20日、鈴鹿サーキットが完成しました。この日、本田宗一郎は終始上機嫌で、これから先の夢を語っていたそうです。
 原案では、鈴鹿サーキットは平坦な場所に建設される予定でした。この案を聞いた本田宗一郎は、「田んぼをつぶしてはいかん、米は大事にしろ」と指示を出しました。そこで、建設予定地の近くにあった雑木林を造成することになりました。建設費用を抑えるため、自然の起伏を活用してコースを設計したそうです。

 通産省が特定産業振興臨時措置法案を打ち出しました。内容は、産業の統合です。今まで自動車を作ったことがない会社は、これからも作ってはならない。こんな内容でした。
 本田宗一郎は、通産省に乗り込み、机を叩いて猛烈に抗議しました。作りたければ既存メーカーの傘下に入れと言われ、次のように言い返しました。
 「おれにはやる権利がある。既存のメーカーだけで自動車をつくって、われわれがやってはいけない法律をつくるとは何事だ。そんなに統合させたかったら、通産省が株主になって、株主総会でものを言え」
 

鈴鹿サーキット
 1963年、ホンダは四輪市場に参入しました。2車種の販売を開始しました。軽トラックのT360、小型スポーツカーのS500です。
 5月3日には、「第1回日本グランプリ自動車レース」が鈴鹿サーキットで開催されました。排気量によって分けられ、11のレースが行なわれたそうです。主催者と参加者が共にレースの素人だったことで、クレームと喧嘩が絶えず、主催者は頭を抱えたと伝えられています。
  この年、F1マシンの試作車RA270が完成しました。記念写真に写っている本田宗一郎は複雑な表情をしています。他社のモノマネに興味はない。早くホンダのF1マシンを作れ。私には、そんな表情に見えました。
 RAとは、Racing Automobileのこと。つまり、レース用自動車という意味です。
 RA270は、廃棄処分され車体は残っていないそうです。
 
*前年6月5日、建設中の鈴鹿サーキットで「第11回全国ホンダ会」が開催され、T360とS360が開発中の車両として発表されました。
 第11回ホンダ会で発表された2台のうちS360は販売されず、排気量をアップしたS500が販売されました。

 

T360

S500

RA270 (Racing Automobile 270)

発電機 E40

船外機 GB30
 1964年、ホンダ初の携帯型発電機E40型は、ソニーのマイクロテレビ用に開発されました。発電機には”SONY”のロゴが付いています。
 ソニーは、トランジスタラジオやウォークマンで有名な会社です。室内の娯楽を屋外に持ち出す。そんな生活スタイルを提案していました。
 
 船外機 GB30は、"水上を走るもの水を汚すべからず"の信念のもとに開発されました。使う人のことを考えて、工具なしでエンジンの脱着ができるように作られています。
 

RA271
 この年、ホンダはF1出場宣言を出し、第6戦ドイツGPから参戦しました。使用したマシンはRA271です。3戦に出場し、すべてリタイアという成績でシーズンを終えました。中村監督の目標は入賞や完走ではなく、出場することだったそうです。
 RA271が完成した時、犬小屋のような形の車体だったといいます。犬小屋のようなHONDA初のF1マシンを見た本田宗一郎は、ものすごい剣幕で怒り出し、記念撮影のために呼んでおいた写真屋が帰ってしまったという逸話が残されています。
 本田宗一郎が「下の方を切っちゃえ」という指示を出し、この形状になったそうです。
 1967年、ホンダはN360を発表しました。N360シリーズは、3年間で50万台を売り上げる大ヒットを記録しました。

 「それからそれとアイデアが湧く。アイデアが湧いたたびに使い良くなっているから、お客さんも付いてくる」
 

N360
 1973年12月12日、ホンダは低公害エンジンを搭載したシビックCVCCの販売を開始しました。世界で初めてマスキー法をクリアした車両です。
 7年前、ホンダは大気汚染対策研究室を設立して、低公害エンジンの開発を始めました。1970年には、アメリカで大気浄化法改正法(マスキー法)が制定され、1975年までに排気ガスの有毒成分を10%以下に削減することが義務付けられてしまいました。
 マスキー法をクリアすることは不可能であるとして、アメリカの大手自動車メーカーは反発しました。
 ホンダは試行錯誤の結果、CVCCエンジンの開発に成功します。
 CVCCエンジンを搭載した車両はアメリカに渡り、アメリカ環境保護庁の排気ガス試験に合格しました。1972年12月8日、世界で初めてマスキー法の1975年規制をクリアしたエンジンが誕生したのです。
 CVCCエンジンの開発にあたっては、宗一郎と若手技術者との間に意見の隔たりがありました。宗一郎は、アメリカの大手自動車メーカに追いつくチャンスだと唱えましたが、若手技術者から反論されました。この件について、次のように話しています。
 「いつの間にか、長い経営者生活から企業サイドに立って物を言っていた。若い連中は、公害に対しては社会的責任において解決しようとしている。そのズレを突かれた時は、私は嬉しかったね。若い人に教えられるね」

 シビックCVCCの販売開始に合わせるかのように、本田宗一郎は社長の座を退き、副社長の藤澤武夫と共に取締役最高顧問に就任しました。1973年10月29日、創立25周年を祝う式典の日の出来事でした。

CIVIC-CVCC

 「おれは藤澤武夫あっての社長だ。副社長がやめるなら、おれも一緒。辞めるよ」
 「社長になった時に、真先に考えたことの一つに、引き際の潔さをホンダの美風として残したいということがあった」
 
 1985年、ホンダ青山本社ビルが完成しました。このビルの設計にも本田宗一郎は口をはさんでいます。「地震の際、窓が割れて下の通行人に危険が及ばないように」と注文を付けました。その結果、幅1.5mのバルコニーに囲まれた設計になっています。2011年3月11日に起きた東日本大震災のあと、この設計思想が注目されました。
 本社ビルは交差点の角地に建っています。そのため、交差点側の角に丸みを持たせ、歩行者のために視界を確保するといった配慮もなされています。

 「製品というものは正直なものだ。製品にメーカーの思想も、そのまま表現されている。製品は絶対に嘘はいわない。いい訳もしない」
 
 1986年、本田技研は人型ロボットと小型ジェット機の開発を始めました。
 人型ロボットはASIMO(アシモ)という名前で2000年に発表され、小型ジェットはHondaJet(ホンダジェット)という名称で2003年に発表されました。

 「僕がこの歳になっても、今の若い人たちがね、やってることが分かるようだとしたら、うちの若い連中はボンクラですよ。僕の分からんことをやっとるから、私は嬉しくて希望に燃えているわけです」

E0
 1991年8月5日、本田宗一郎死去(84歳)。宗一郎は、社名に自分の名前を使ったことを終生後悔していたそうです。
 「本田技研は株式会社でありながら、本田という名前を付けたために、個人企業のように思われるのは良くないね。ソニーの井深さんのほうが利口だった」

 この年の5月、軽自動車のビート(BEAT)を販売しました。ミッドシップでオープンカー(コンバーチブル)、つまり軽自動車でありながらスポーツカーという設計は、バブル経済で景気が良かった時代だからそこ生まれた発想だと思います。日経平均株価は、1989年12月にピークを迎え、38,915円の最高値を付けました。ビートの開発時期は、この頃と重なるのです。

 ビートは、本田宗一郎が見送った最後の四輪車となりました。

 「社葬は行なわないように。自動車を作っている会社だから、社葬のために交通渋滞になってはいけない」
 

BEAT
見果てぬ「夢」

ASIMO (2000年発表)

HondaJet (2003年初飛行に成功)
 
 本田宗一郎は、鍛冶屋の家に生まれ、槌音を子守唄に育ちました。近所の精米所の発動機に心を奪われ時には、何度も祖父の肩車で通ったそうです。このような幼児期の体験が、宗一郎少年の生涯の道を開くきっかけになったといいます。