コンピュータ資料館
このサイトは、写真とCGによるバーチャル資料館です。
展示室 コンピュータの歴史 ガイドツアー 資料室
ガイドツアー
 展示品の特徴や開発秘話などを紹介しています。
 ■昔の計算機

算盤(そろばん)
 発明された時期は不明ですが、室町時代に中国商人が商取引のために日本に伝えたといわれています。携帯するのに便利な、折りたたみ式の物や、丸めたりできる物もあります。
 十露盤(そろばん)とも表記されます。

計算尺
 17世紀、イギリスの数学者、ウィリアム・オートレッドが発明しました。固定尺、滑尺、カーソルという3つの部品で構成されています。
 カーソルという名称は現在のコンピュータでも使われており、その語源はラテン語の「走者(cursor)」です。
 計算尺は、用途別に目盛りの異なる製品が販売されていまいた。有名なメーカーは、ヘンミです。

タイガー計算機
 1924(大正13)年、大本鉄工所の大本虎次郎は”手回し計算機”を国産化し、虎印計算機として発売しました。その後、TIGER BRANDに改名しました。現在は、総称して「タイガー計算機」と呼ばれています。
 写真は、1924年製。

*大本鉄工所…現在、株式会社タイガー
 
 ■初期のコンピュータ

MARK I
 MARK I (マーク・ワン)は、ハーバード大学とIBMの協力により誕生したリレー式の計算機です。自動逐次制御計算機と呼ばれており、計算は完全に自動化されていました。
 命令は鑽孔(さんこう)テープに記憶し、データをリレーのON/OFF状態で記憶しました。このように、命令とデータを別々の記憶装置に分離している方式をハーバード・アーキテクチャといいます。
 MARK I は、イギリスの数学者バベッジが考案したアイデアを採用し、リレー(継電器)のほか、スイッチや回転軸、クラッチなどを組み合わせて作られていました。バベッジが考案したアイデアは、階差機関と呼ばれています。

*現在、PICマイコンがハーバード・アーキテクチャを採用しています。

ENIAC
 ENIAC(エニアック)の開発は、大砲の弾道計算を目的にアメリカ陸軍が発注しました。エニアックが完成する前に第二次世界大戦は終戦をむかえますが、1945年の試験運転期間に、水素爆弾の研究のための計算を行ないました。
 1946年2月14日にペンシルバニア大学で公開され、1955年10月2日まで使われました。
 大きさは、幅24m、高さ2.5m、奥行き0.9mで総重量は30トン。使われた真空管は約18,000本でした。配線を組み替えることで弾道計算以外にもさまざまな計算に対応できました。
 1950年、世界初の数値による天気予報に使われたのはエニアックでした。24時間先の天気を計算するのに24時間かかったそうです。

UNIVAC120 *1
 1954年、世界初の真空管の論理回路を用いた商用電子計算機です。サイズは高さ175センチ、幅220センチ、奥行き66センチ、重さ約2トン。

 1955年、野村證券株式会社が国内で初めて導入しました。

 *御先祖様のUNIVAC I は、アイゼンハワー大統領の当選を、わずか7パーセントという開票率で的中させたことで有名です。

ETL-MARK II
 1955年、電気試験所(現:産業技術総合研究所)が開発したリレー式電子計算機です。内部2進、1語40ビット、データ用の内部記憶容量200語、使用しているリレーの数は約22,000個でした。

 リレー(継電器)とは、電磁石によるスイッチで、電話交換機の部品として使われていたものです。スイッチのON/OFFで0と1のデジタル情報を表現しました。

FUJIC
 1956年3月、富士写真フィルム(株)の岡崎文次は、手回し計算機で行なっていたレンズ設計の計算を自動化しようと考え、7年かけてFUJICを完成させました。
 計算速度は、人手の約2,000倍でした。

    ・クロック周波数:30kHz
    ・真空管:1700本
    ・加算:0.1ミリ秒
    ・除算:2.1ミリ秒

System/360
 1964年にIBM社が発表したコンピュータです。開発費は50億ドル(1兆8千億円)、当時の日本の国家予算の半分に相当します。
 System/360という名前には、「360度、すべてのお客様のご要望にお応えします」という意味が込められています。小規模のSystem/360-30から大規模のSystem/360-75までの複数を同時に発表、OSには全ての機種で同じように作動する上位互換を持たせていまいた。互換性を持たせたことで、会社の成長に合わせてシステムを入れ替える時、ソフトウェア資産を継承することが可能になりました。
 System/360の特徴は以下の通りです。
    ・回路素子に集積回路を採用
    ・ソフトウェアの入れ替えにより、何役もこなせる
    ・ミニから超大型までをカバーする、コンピュータ・ファミリという考え方
    ・キャッシュメモリの採用
    ・磁気ディスク記憶装置を採用


*上位互換とは、機能や性能で上位に位置する製品が、同じ機種の下位の製品の仕様や 機能も保有している状態のこと。この様な状態を「互換性がある」といいます。例えば、PlayStation2はPlayStationの上位互換機です。
 
 ■マイクロプロセッサ誕生後のコンピュータ

BUSICOM 141-PF *1
 1971年、ビジコン社のプリンター付きの電子式卓上計算機です。141-PFには以下の特徴がありました。

 ・処理装置にインテル社のi4004を使用
 ・ROMによって新しい機能を追加することが可能


Alto computer
 1973年、ゼロックス社のパロ・アルト・リサーチセンターで試作されたコンピュータです。グラフィカル・ユーザ・インターフェイスを実現し、ウィンドウ・システムを備え、ディスクドライブとマウスも標準装備されていました。
 搭載されたOS(Smalltalk)はオブジェクト指向の概念を取り入れていました。ネットワーク環境は、イーサネットの原型となるものが考案され利用されました。

 1979年、Altoに触れたアップル・コンピュータ社のスティーブ・ジョブズは、アルト研究所の職員に向かって次のように語ったと伝えられています。
 「なぜ君たちは、この技術を商品化しないんだ。これは宝の山じゃないか」
 この時の訪問でジョブズは、”これこそ、コンピュータの未来だ”と感じ取ったそうです。

 世界初のパソコンが登場する1年前、ゼロックス社の研究所では、これほどのシステムが作られていました。しかし、市販されることはなく、”研究所レベルの傑作”で終わったことでも有名です。

 
『Alto computer 開発時に導き出されたユーザー・インターフェイスの8原則』
 1:机の環境を比喩的に電子化する
 2:コマンドをキーボード入力するのではなく、画面上で見て選択する
 3:画面上に見えている形がそのまま印刷される(What You See Is What You Get)…WYSIWYG
 4:コマンドは汎用性を持たせて、数は少なくする
 5:違う場面でも同じ仕事をするには、同じ操作でよい
 6:できるだけ簡単な操作で、コンピューターが動く
 7:ある仕事から別の仕事に移るときに、別の仕事だと宣言する必要はない
 8:ユーザーが自分の好みでシステムを変更できる


Altair 8800
 1974年、MITS社が一般消費者向けに販売した商品です。CPUにインテル社のi8080を採用し、『世界初のパーソナル・コンピュータ』と言われています。メモリーは256バイトでしたが、増設が可能でした。
 MITS社は、Altair 8800(アルテア8800)をミニコンピュータと称していましたが、ディスプレイやキーボードは付属しておらず、操作盤のLEDが表示装置、スイッチが入力装置の役割を果たしていました。

CRAY-1
 1975年に完成した世界初の商用スーパー・コンピュータです。人の背丈ほどの高さでした。
 CRAY-1(クレイ・ワン)の処理速度は140メガFLOPSです。家庭用ゲーム機『PlayStation 3』の1,500分の1以下の処理能力でした。CRAY-1の処理速度が遅いのではなく、PlayStation 3が化け物なのですが。

 1980年1月、センチュリー・リサーチ・センターが、日本で初めてCRAY-1を導入しました。購入価格は、18億9千万円でした。
 CRAY-1は、人が腰を掛けるのに都合のよい形をしており、世界一高価な椅子と言われていました。

apple I
 スティーブ・ウォズニアックが開発したパソコンです。このパソコンを販売するために、親友のスティーブ・ジョブズと共に、アップルコンピュータ社を設立しました。販売価格は$666.66、製造台数は200台程でした。
 AppleTは、マイコン愛好家のために販売されました。一応、完成品だったのですが、購入者に一定のレベルを求めていたため、筐体さえなく、キーボードも使う側が用意するというマニア向けの仕様となっていました。

 2013年、apple I はドイツで開催されたオークションにおいて67万1000ドル(約6840万円)で落札されています。

TK-80 *1
 1976年、日本電気(NEC)が発売した日本初のマイコン・トレーニング・キットです。翌年、TK-80を拡張するTK-80BSが発売されました。TK-80BSにはキーボードとBASICが付属されており、人気が出ました。こうして、TK-80は発売後2年間で66,000台にのぼる売り上げを記録しました。

 TK-80の開発理由は『技術者の育成』ですが、これは表向きの理由です。真実は、「チップを作り過ぎたため、チップを売るためにTK-80が産まれた」という理由だそうです。開発理由はどうあれ、このマシンによってマイコンブームが始まりました。

 その後、”コンピュータのできる人”と言えば、ワンボードマイコンを自作できる人のことを指すようになりました。

apple II
 1977年、アップルコンピュータ社がアップルII を発売しました。本体には、キーボードや周辺機器インターフェイスが収められ、一体物として作られていました。基板むき出しのパソコンとは違い、とても美しい姿でした。価格は、1,298ドルだったそうです。当時のレートで40万円くらいだと思います。1979年発売の軽自動車、スズキのアルトが47万円ですから、apple II の価格は、ホームコンピュータとして妥当な価格だったのかもしれません。

 アップルコンピュータ社は、アップルII をホームコンピュータという言葉で売り込みました。この言葉は、大学や研究機関が独占してきたコンピュータが、家庭でも使えるようになったことを印象付けます。

 アップルII は、280ドット×192ドットのグラフィック表示が可能で、テレビゲーム愛好家からも支持を得て爆発的売り上げを記録しました。
 パーソナルソフトウェア社からVisiCalc(ビジカルク)という表計算ソフトが発売されると、アップルIIはさらに売り上げを伸ばしました。当時、表計算ソフトが使えたのはアップルII だけだったのです。

 アップルII の筺体には、カラフルなリンゴのマークがプリントされていました。それを見た日本の技術者(MZ-80Kの開発者)は、後日、「自由奔放で活発なベンチャーの息吹を感じた」と語っています。

BASIC MASTER MB-6880
 1978年、日立製作所がベーシックマスターというマイクロコンピュータを発売しました。日立は、パソコンという表現は使わず、同機をマイクロコンピュータと表現していました。
 ベーシックマスターという名前の通り、プログラム言語のBASICが搭載されていました。家庭用テレビがディスプレイとして使えたので、プログラムを組むことが可能だったのです。
 キーボードには『後退』や『復改』、『英記号』といた文字が刻まれているキーがあります。それぞれ、バックスペース・キー、エンター・キー、シフト・キーのことです。

MZ-80K
 1978年、シャープ社が発売した、日本初のオールインワン・パソコンです。外部記憶装置にカセットテープを採用しました。専用のデータレコーダーを搭載していたため、データ保存の信頼性が高く、他のパソコンとの差別化になっていました。

 当時、オールインワン型のマイクロ・コンピュータは、オフィス・コンピュータと呼ばれていました。普通車の新車が買えるほどの価格だったので、企業が事務処理のために購入する程度の需要でした。
 しかし、MZ-80Kの価格は198,000円。なんとか、個人が購入できる価格でした。
 MZ-80Kの安さの理由は、組み立てキットだったからです。開発したのが部品部門だったので、情報部門に気を使い、半完成品として発売したのだそうです。
 製造番号1は九州方面、製造番号2は北海道ハドソンに出荷されたらしいです。

 MZ-80Kは、今風に表現すると「自作パソコン」と言えるかもしれません。今でも、回路図からパソコンを自作している人はいませんから…。


 キーボードの右側には、アップルII のリンゴマークを意識して、”帆船アルゴ”が印刷されています。アルゴは、「パソコンはSHARPだ・・」と主張しています。

 写真は、ペーパークラフトです。

PC-1210
 1980年、シャープ社が開発したコンピュータです。価格は、29,800円でした。重量は165gです。非常に小さなコンピュータですが、周辺機器を接続するためのインターフェイスも装備されていました。
 PC-1210の別名はピタゴラスといい、数学者の名前が付けられていました。付属品のプログラム・ライブラリーには、たくさんのプログラムが掲載されていました。プログラムが組めなくても、掲載されているプログラムを入力すれば電卓以上の便利さで使うことができたのです。
 以下は、プログラムライブラリーの内容です。
数学関係 14本 統計関係 22本 測量関係 25本 建築関係 10本 電気関係 6本
土木関係 11本 機械関係 14本 事務関係 18本 その他 5本 ゲーム 11本


Xerox Star
 1981年、ゼロックス社が発売したワークステーションです。翌年、日本語版のJ-Starが発売されました。
 Starは、サーバーやプリンターをセットにしたOA(office automation)機器として販売していたため、システム全体を構築するには非常に大きな予算が必要でした。そのため購入する企業は少なく、商業的には失敗したと伝えられています。
 Starの正式な型名は、『8010 Star Information System』です。同社のAltoコンピュータの成果を基に開発されました。


PC-9801
 1982年、日本電気が発売したパソコンです。
 PC-98シリーズは、市場占有率50%以上という圧倒的なシェアを獲得したことがあります。この数値は、多くの企業や学校が導入した結果です。IBM PC以外のパソコンが主導権を握った国は、日本だけだといわれています。
 初代PC-9801は、16ビットの演算が可能な中央処理装置を採用しました。主記憶装置は128Kバイト、日本語表示に不可欠な640×400ドットの解像度を実現していました。フロッピー・ディスク装置、ディスプレイ、漢字ROMなどが別売りであるにもかかわらず、価格は298,000円という高価なものでした。


X1(エックス・ワン)
 1982年、シャープ社のテレビ事業部が開発したパソコンです。標準でカセットデータレコーダーを搭載していました。BASICやアプリケーションソフトもカセットテープで提供されました。
 電源投入後は、IPLが起動し、ソフトウェアを主記憶装置にロードするという仕組みが採用されていました。この仕組みをクリーン設計といい、同社の電子機器事業部のMZシリーズと同じ設計です。この仕組みを実現するために、シャープ社のパソコンには外部記憶装置が標準搭載されていたのです。

ぴゅう太
 1982年、トミー工業が発売した玩具パソコンです。玩具でありながら、16ビットの演算が可能なCPUを搭載していたことで話題になりました。ROMカートリッジを交換すると、いろいろなゲームがプレイできました。
 当時、パソコンは家電量販店ではなく、専門店か通信販売で買うものでした。ですから、一般の人からは遠い存在でした。しかし、ぴゅう太は玩具という扱いですから、おもちゃ屋さんで売られていました。テレビに接続して、デモンストレーションを行なっていたおもちゃ屋さんもありました。「一般の人にとって、もっとも身近なパソコンがぴゅう太だった」と言っても過言ではありません。しかし、ぴゅう太は機能的には玩具であり、パソコンとしての地位を確立することはありませんでした。
 ぴゅう太以降、各社から玩具パソコン(楽がき、MSXなど)が発売されましたが、どれも子供の玩具として終わりました。

PB-100 *1
 1982年、カシオ計算機が発売したポケットコンピュータです。価格は14,800円、周辺機器の接続や、メモリーの増設も可能でした。家電ではないので、文房具店やホームセンターで購入することができました。
 PB-100の記憶容量はステップという単位で表現されていましたが、ここでは分かりやすくバイトを使用します。標準搭載のメモリーは1Kバイト(実際に使えるのは544バイト)でしたが、プログラムを組むことが可能でした。『ポケコンジャーナル』、『マイコンBASICマガジン』といった雑誌にゲームプログラムが掲載されていました。

PC-1255
 詳しい発売日は不明ですが、1982年とする説が一般的です。定価は、35,800円でした。
 画面は、1行表示でしたが、ビットマップディスプレイを採用していました。ビットマップディスプレイの特徴をいかして、シューティングゲームが雑誌に投稿されていました。そのゲームはマシン語で投稿されていました。
 PC-12XXシリーズのマシン語に関する書籍も刊行されており、ポケット・コンピュータでマシン語を覚えた人も多いのではないでしょうか。

BOMBER
 工学社が刊行していたパソコン雑誌「PiO」に投稿されたBOMBERというシューティングゲームです。横スクロールのゼビウスとでも表現すればゲームの内容が伝わるでしょうか。
 当時は、たった1行の表示装置に広大な空間を感じながらゲームを楽しみました。

 以下に、仕様書に記載されているデータを紹介します。

計算桁数 10桁(仮数部)+2桁(指数部)
プログラム言語 BASIC
CPU CMOS 8ビットCPU
システムROM 24Kバイト
RAM プログラム・データエリア用として9,630バイト
電池使用時間 約300時間
消費電力 0.03W
外形寸法 幅135mm×奥行70mm×厚さ9.5mm
重量 115g(電池含む)

楽がき(らくがき)
 1983年、カシオ計算機(株)から発売された玩具パソコンです。キャッチコピーは、「パソコンゲーム楽がき」です。価格は、29,800円でした。
 楽がき(PV-2000)は、簡単な操作で絵が描けるように作られていました。描いた絵とスプライトを合成させて、自作ゲームが作れるようになっていました。ゲームを作るには、プログラム言語のBASICを理解する必要がありましたが。
 楽がきのキーボードは、ソフトタッチキーボードでした。おそらく、業界初の試みです。

 ・CPU…Z80A相当品(3.579MHz)
 ・RAM…4Kバイト
 ・ROM…16Kバイト
 ・キーボード…英数ASCII カナ50音配列68キー
 ・W297×D211×H46(mm)

PC-100
 1983年、NEC(日本電気)が発売したパソコンです。日本版Altoコンピュータを目指して開発され、グラフィカル・ユーザー・インターフェイスに対応していました。
 同じ年、アップルコンピュータ社からは、Lisaというパソコンが発売されました。Lisaもグラフィカルユーザインターフェイスで操作します。
 PC-100とLisaは、どちらも商業的に失敗しています。グラフィカルユーザーインターフェイスという操作方法を実現するためには、高性能なパソコンが必要でした。高性能なパソコンは値段も高く、それゆえに消費者からは敬遠されたのでしょう。

Macintosh
 マッキントッシュに余計なものは付いていませんでした。それは、使いやすいパソコンを目指して開発された結果でした。
 本体に装備された拡張用インターフェイスは、たったの2つ。1つはモデム用、もう1つはプリンターを接続するためのものでした。一般ユーザーが使うコンピュータには、これ以上の機能(ハードウェア)は不要であるという設計思想です。
 キーボードにはテンキーが無く、マウスのクリックボタンは1つだけでした。マッキントッシュの設計はシンプルを極めていたのです。とはいっても、上位機種ではインターフェイスの数が増えていましたが。

 スティーブ・ジョブズの名言「Insanely great!」は、「メチャクチャすごい!」という意味です。この言葉は、マッキントッシュの開発目標だったことでも知られています。
 機能を求めすぎた結果、「動作が遅く、これでは子供のおもちゃだ」という批判もありましたが…。

 開発者のスティーブ・ジョブズは、製品の完成について次のように述べています。「完成とは、加えるものが無くなった状態ではなく、削るものが無くなった状態である」

 1984年発売

MZ-1500
 1984年、シャープ社から発売されたパソコンです。クイックディスクという磁気ディスク装置を内蔵していました。
 クイックディスクは、フロッピーディスクとは違い、ランダムアクセスができませんでした。記憶容量は、両面で128Kバイトでした。3.5インチのフロッピーディスクに劣る記憶容量でしたが、安価に搭載できるという利点がありました。MZ-1500の本体価格は89,800円、ディスプレイ付きは161,800円でした。

 当時、パソコン用の外部記憶装置といえば、カセットテープでした。カセットテープに記録したデータは信頼性が低く、読み書きにも多くの時間が必要でした。高価なフロッピーディスクを使っていたのは一部の裕福なユーザーのみでした。
 MZ-1500は、低価格でありながらディスク装置を搭載したパソコンとして注目されたのです。

FM-77AV
 1985年10月発売。
 FM-77AV(エフエム・セブンセブン・エーブイ)は、8ビットパソコンで初めて4,096色同時発色を実現したパソコンです。宣伝文句は、「総、天、然、ショック。」でした。総天然色の色をショックにしたことで、衝撃の大きさを表現していました。
 現在のパソコンは、16,777,216色の同時発色が可能です。この色数と比べたらFM-77AVの色数は貧弱としか言えない表現力ですが、FM-77AVの「ショック」という表現に偽りはありませんでした。当時のパソコンの同時発色は、8色が主流でした。つまり、FM-77AVの表現力は一般的なパソコンの512倍もあったことになるのです。

X68000
 X68000の宣伝文句は、「パーソナル・ワークステーション」です。1987年3月、シャープ社のテレビ事業部から発売されました。処理装置は、日立HD68HC000 (モトローラ社のMC68000互換)です。価格は、369,000円(ディスプレイ別売り)でした。
 初代X68000には、ゲームセンターで人気だった『グラディウス』を同梱し、移植度の高さを見せつけ、基本性能の高さをアピールしました。完全移植と言えるほどの完成度でした。

 X68000には独自色の強いBASIC( X-BASIC )が標準で添付されていました。文法はBASICというよりC言語に近いものがありました。
 OSは、Human68K(ヒューマン・ロクハチ・ケー)といい、採用したファイル・フォーマットはMS-DOSとの間に互換性がありました。
 1989年には SX-Window というウィンドウ・システムを発表し、他社との差別化を計りました。

NeXT cube *1
 1988年、NeXT Computer社が開発しました。価格は6,500ドル(当時の為替レートで1ドル=130円)。「スーパー・パーソナル・ワークステーション」という宣伝文句で販売されました。
 NeXTは、あまり売れませんでした。しかし、オブジェクト指向型のOSと開発環境は、全てのソフトウェアの手本とされました。インターネットの基本的な技術であるWWWやhttpの開発が、このコンピュータで行なわれました。


*NeXT Computer社は、アップルコンピュータ社を離れた、S.ジョブズが創業した会社です。

FM-TOWNS
 CD-ROMを標準搭載したマルチメディア・パソコンです。マルチメディアという言葉が広がり始めていたころのマシンです。富士通は、このマシンを『ハイパーメディア・パソコン』と称していました。メディアとは、情報を伝える媒体のことです。
 8ビットCPUが全盛だった時代、CPUが処理する情報といえば数値や文字、静止画が主でした。16ビットCPUが登場すると音声情報が加わりました。32ビットCPUが登場すると動画まで扱えるようになりました。
 新聞というメディアは文字や画像を扱います。ラジオというメディアは音声を扱います。テレビというメディアは動画を扱います。
 多様なメディアの情報をデジタル化して一元管理する。これが、マルチメディアです。デジタル化された各メディアの情報は非常に大きく、大容量の記憶装置が必要でした。そこで選ばれたのがCD-ROMだったのです。
 FM-TOWNSの登場により、CD-ROMは、マルチメディアを扱うために不可欠な物として認知されました。この頃までには、ゲームソフトも1枚のフロッピーディスクには収まらず、数枚組で発売されることは当たり前になっていました。利用者は、フロッピーディスクに扱いにくさを感じるようになっていたのです。CD-ROMは、このような不満も解消しました。

PC/AT互換機
 Windows95が発売されると、日本のメーカーは独自路線のパソコン開発から撤退し、PC/AT互換機の開発に移行しました。PC/ATとは、IBM社のパソコンの規格です。
 IBM PC/ATは、1985年に販売が開始されました。現在のWindows搭載パソコンは、PC/ATの上位機種です。
 Windows95が登場したあとも独自のアーキテクチャでパソコンを開発しているのは、私の知る限りアップル社だけです。自作パソコンと称されるものでさえ、実はPC/AT互換機だったりします。つまり、”自作パソコン”とは、自分で設計したパソコンという意味ではなく、自分で組み立てたPC/AT互換機のことなのです。

*初代IBM-PCの特徴は、部品を外部から調達して開発した点です。つまり、分解すれば回路図が描けてしまいます。こうして、IBMパソコンの安価な互換機が誕生し、現在に至っています。

iPad
 iPadは、アップル社が開発したタブレット型のパソコンです。2010年に発売されました。

 1972年、アラン・ケイがDynaBook(ダイナブック)構想を打ち出しました。DynaBookとは、『片手で持てて、単独で使える対話型グラフィック・コンピュータ』のことです。ネットワークへの接続も想定されていました。
 2010年、アップル社がiPadを発売し、世界的な大反響となりました。iPadは、DynaBook構想を実現した製品だったのです。

 iPadの開発者であるS.ジョブズ氏は、「偉大な芸術家は盗む」と公言しており、アイデアを盗むことに対して恥じることはなかったそうです。
 
 ■半導体

トランジスタ
 1947年、アメリカのベル研究所でその原理が発見された3本足の半導体素子です。
 ベル研究所最大の科学的偉業であるトランジスタは、電話産業での需要は少なく、他の業界でも需要は少ないだろうと社内では評価されました。その結果、トランジスタの特許使用権は2万5000ドル(当時900万円)という破格の安さで売られました。
 余談ですが、日本で最初にトランジスタの特許使用権を得たのはソニーです。その後、ソニーは高周波トランジスタの開発に成功し、トランジスタラジオが誕生しました。

集積回路
 多数のトランジスタや抵抗などをもつ電子回路を小さな基板(シリコン・ウエハ)の中に収めたものが集積回路です。
 1959年、集積回路の開発が成功すると集積率はどんどん向上し、3年で4倍というペースで大容量化が進みました。このペースは『ムーアの法則』として知られています。

 1970年代にはLSI(Large Scale Integration)と呼ばれる集積回路が登場し、主記憶装置や電卓の部品として大量に生産されました。
 集積技術はさらに向上し、中央処理装置と主記憶装置、周辺機器接続端子などを1つのチップに収めた集積回路(ワンチップ・マイコン)まで現れています。

 写真はシャープ社のLH21256-10です。

i4004
 1971年、インテル社が開発したマイクロプロセッサです。マイクロコンピュータとも呼ばれます。
 i4004はビジコン社との共同開発で、ビジコン社の嶋正利さんが開発に携わっています。
 当時、回路図は手書きで、それを基板に焼き付けました。製品が出来上がるまでの数ヶ月間、自分が描いた回路図に問題は無かったのか、嶋正利さんは不安になったといいます。
 幅約3mm×長さ約4mmのチップに2,300個のMOS型トランジスターを搭載しました。クロック周波数は、108KHzでした。
 i4004は、単体では機能しないことから、i4001〜i4003とセットで販売されました。このセットをMCS-4(Micro Computer Set-4)といいます。
MCS-4
4001 ROM
4002 RAM
4003 シフトレジスタ
4004 マイクロプロセッサー
CPUの世代分類
・第一世代…真空管
・第二世代…トランジスタ
・第三世代…集積回路(IC、LSI)
・第四世代…集積回路(VLSI)
・第五世代…人工知能搭載(開発は研究レベルで終了した)
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 ■ネットワーク

初期のARPANET
 ARPANET(アーパネット)の開発目標は、中央の制御ポイントを持たず、ネットワークの一部が遮断されても障害を起こさないネットワークを作ることでした。核戦争にも耐えられるネットワークとして開発されたという説があるのですが、現在では否定されています。
 1969年9月、アーパネットで最初に送られたメッセージは、「Are you receiving this?(このメッセージを受信していますか?)」というものでした。当時のアーパネットを構成する4つのネットワーク端末すべてで正常に受信されました。
 研究者たちは即座に、電子メールネット会議という、ネットワークの未来を思い描きました。その後、アーパネットはアメリカ軍の手を離れ、インターネットへと発展して行きました。
 ちなみに、ARPANETの公開実験が行なわれたのは、1969年11月21日です。この日は、『インターネット記念日』です。


 同軸ケーブルを使ったバス型のイーサネットの例です。バス型というのは、一本のケーブルを中心に、複数の端末が分岐して接続されている形態のことです。
 青い線は同軸ケーブル。赤い四角は終端抵抗(ターミネータ)を表しています。
 イーサネット型のLANは、最も普及しているLANの規格です。各端末が自由にデータを送ることができます。各端末は、LANの電圧を監視しており、LANが使われていないことを確認してからデータを送信します。
 一本の線で送受信を行うので、同時にデータを送信するとデータ同士が衝突を起こします。糸電話を思い浮かべてもらえれば衝突の原理は簡単に理解できると思います。
 データの衝突が起きた場合、衝突を起こした各端末には別々の待機時間が割り当てられます。割り当てられた待機時間待ってから、再度データを送ることによって衝突という問題を解決しています。この解決方法を「CSMA/CD」方式といいます。
 
 ■その他

鑽孔(さんこう)テープ *1
 コンピュータ誕生初期の記憶媒体です。パンチテープとも呼ばれています。簡単に言えば、鑽孔テープとは、紙テープのことです。

 コンピュータの誕生初期は、専用の機械で紙テープに穴をあけ、プログラムやデータを保存しました。それを読み込みながら実行していたのです。ループ処理(繰り返し処理)を実行するには、処理の回数分だけ紙テープが長くなります。また、条件分岐ができないコンピュータもありました。
 紙テープを使った方法には問題点がたくさんありました。その解決のため、数学者のフォン・ノイマンがプログラム内蔵方式(stored program system)を提唱しました。この方式は、主記憶装置にプログラムとデータを読み込んでから実行する仕組みです。

 紙テープという原始的な記憶媒体にも長所があります。磁気テープや磁気ディスクは、磁性体の劣化で読み取れなくなってしまいますが、紙テープは長期間に渡ってデータの保持が可能です。テープが切れても、穴の位置がずれないように貼り直せば、読み取ることができます。

水銀遅延管(水銀遅延線とも)
 初期のコンピュータに使われていた記憶装置です。その名の通り、管の中には水銀が満たされていました。

パラメトロン
 1954年、東京大学院生の後藤英一が発明した固体素子。トランジスタに比べ演算速度が遅く消費電力が大きいという欠点がありました。しかし、高い信頼性、長寿命、低コストという利点がありました。
 その後、演算速度を重視する点からトランジスタの研究が進められ、結果的に安価になり、パラメトロンは姿を消すことになりました。
 パラメトロンは、富士通信機製造のファコム201などに使われていました。

ADB
 ADB(Apple Desktop Bus)は、アップルコンピュータ社が開発した、周辺機器を接続するための規格です。データはシリアル信号で送られ、周辺機器に電力を供給(バスパワー)できるように作られていました。
 ADBは、アップルコンピュータ社が独占して使用していたわけではなく、他社のパソコンやゲーム機にも採用されました。

 ADBは、USBの前身となる技術です。ADBは、数珠つなぎに3台までしか接続できませんでしたが、USBでは127台までツリー状に接続できるように拡張されています。

 写真は、Macintosh performa 588のものです。本体とキーボード、キーボードとマウスを以下の図のように接続しました。


ミニ・フロッピー・ディスク
 5.25インチのフロッピー・ディスクのこと。シュガート社によって開発されました。1978年にアップル・コンピュータ社のAppleUに5.25インチのフロッピー・ディスク装置が採用されると、5.25インチのフロッピー・ディスクは広く普及するようになりました。
 フロッピー・ディスクは、「柔らかい円盤だから、フロッピー・ディスクという」と説明されることが多いのですが、フロッピー・ディスクの欠点に、高速で回転させると記録面が波打ってしまうというものがあります。
 記録面が波打ってしまうと、磁気ヘッドとの間にすき間ができてデータの転送ができなくなります。
 個人的な意見ですが、フロッピー・ディスクは、「ばたつきやすい円盤」と説明したほうが良いのではないかと思っています。floppyには、「柔軟な」の他に、「ばたつきやすい」という意味があるからです。


*1960年代後半〜1970年代初頭、IBMによって8インチのフロッピー・ディスクが開発されました。IBMはフロッピーディスクの特許を取得する際、他国で同じような特許があると訴訟に発展する可能性があったため対応に追われたといいます。日本では、ドクター中松(中松義郎)氏が同じような特許を持っていました。

マイクロ・フロッピー・ディスク
 マイクロ・フロッピー・ディスクとは、3〜3.5インチのフロッピー・ディスクを指します。3.5インチのフロッピー・ディスクを開発したのは、日本のソニーです。
 当時の経営陣は、「1990年代はコンピュータが分からない企業は生き残れない」という危機感を持っていました。そうした中で始まったのが小型のフロッピー・ディスク装置を搭載した英文ワード・プロセッサの開発です。
 小型のフロッピー・ディスクを開発する方向性は、
  @3インチくらいの大きさで扱いやすい
  A記憶容量が大きい
  B記録面を保護するためにプラスチック・ケースを採用
 などでした。
 プラスチック・ケースは、成形技術ギリギリの薄さを追求して、約3mmの薄さになりました。しかし、フロッピー・ディクス装置に挿入すると歪んでしまったそうです。そこで、最初から凸レンズのように中央が膨らんだ状態のケースにすることで問題を解決しました。
 シャッターは、薄さを追求するあまり手動式の商品が完成してしまいました。その後、洗濯バサミのバネのような機構を考えだして、どうにか3.4mmの薄さに収めました。最初に販売されたフロッピー・ディスクのシャッターは自動開閉式ではなかったそうです。
 磁気シートは、データを書き込むトラック数を従来の他社製品の倍にすることで、当初の目標であった高記録密度(1メガ・バイト)を達成しました。直径約8.6cmの中に、幅の狭い円形トラックを70本以上詰め込んだのです。
 この磁気シートは、記録・読み取り時に、ケースの中で高速回転します。ヘッドは狭いトラックを正確に追わなければなりません。そのため、磁気シートの中央部に金属製ハブを付け、しっかり固定できるようにしました。
 こうして、3.5インチ・マイクロ・フロッピー・ディスクは完成したのです。

クイック・ディスク
 MZ-1500、ファミリーコンピューターのディスクシステムに採用されたディスク型の記憶媒体です。ディスクのサイズは2.8インチ、記憶容量は片面64Kバイト(両面で128Kバイト)です。約8秒で64Kバイトのデータを読み込むことが可能でした。裏面を利用するには、一旦ディスクを取り出してから裏返し、再挿入することが必要でした。
 クイック・ディスクはフロッピー・ディスクよりも安価に導入できることで注目されましたが、使い勝手は良くありませんでした。その後、フロッピー・ディスクの低価格化が進んだことで、クイック・ディスクは市場から消えて行きました。

光磁気ディスク
 光磁気(ひかり・じき)ディスクは、SDカードやUSBメモリーが開発される以前の大容量記憶装置です。一般的にはMO(エム・オー)と呼ばれていました。
 写真のMOの記憶量量は640Mバイトですが、1Gバイトを超える物もありました。

 *機動警察パトレイバーというアニメに登場する土木作業用ロボットの起動ディスクがMOでした。
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*右の英文は、資料を基にして再現した、日本初のウェブサイトです。メールアドレスは、意図的に”*”にしています。

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*1 近代科学博物館の所蔵品です。