Honda F1 参戦までの道のり
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F1参戦までの道のり 第1期 第2期 第3期
1906年
 明治39年、本田宗一郎は誕生しました。この人がいなければ、日本がF1に参戦することは無かったかもしれない。それほどの重要人物です。
 本田宗一郎は幼少のころ、近所にやってきた幌付自動車を、我を忘れて追いかけたそうです。路面に落ちたオイルの臭いをかぎながら、いつか自分で自動車を作ってやろうと思い立った。こんな話が残されています。
1922年
 大正11年、本田宗一郎15歳の時、自動車修理会社の「アート商会」に丁稚奉公に行きました。現代風の表現で言えば、就職したということです。
 この年、日本で初めての自動車レース「第1回日本自動車レース」が東京・洲崎で行なわれました。
1924年
 本田宗一郎、アート商会で「カーチス号」の製作に参加。

カーチス号
1925年
 本田宗一郎は、第6回日本自動車レースにカーチス号で出場し優勝しました。アート商会で働き始めてから、わずか3年での快挙でした。
1928年
 昭和3年、本田宗一郎はアート商会から「のれん分け」の形で独立しました。
1936年
 多摩川第1回自動車競技大会が開催され、本田宗一郎は、「浜松号」で出場しました。
1945年
 第2次世界大戦が終結。
1946年
 本田宗一郎は、戦後で物資が不足している時だからこそ、少ない燃料で走る移動手段が必要だと考えていました。
 人々の主な移動手段は自転車だったので、自転車に取り付けるエンジンが開発されました。この自転車用補助エンジンは、独特なエンジン音から、「バタバタ」という愛称で呼ばれていました。排気量は50ccで、1馬力の出力を得ました。

1946年、自転車用補助エンジン(実用新案)
1948年
 本田技研工業株式会社を設立
1949年
 ホンダ初の本格的モーターサイクルであるドリームD型を発表しました。

ドリームD型
1950年
 F1グランプリが開催されました。シーズンを通して、アルファロメオが速さを見せつけました。
1954年
 3月15日、本田宗一郎はマン島TTレースの出場を宣言しました。
1956年
 Hondaが浅間火山レースに出場。Hondaのバイクだけが独自開発によるもので、他のバイクは外国のコピーだったそうです。
1958年
 8月、耐久性・低燃費・扱いやすさを備えたスーパーカブC100型の販売を開始しました。

スーパーカブC100型
1959年
 マン島TTレースの125ccクラスに、Honda RC142が5台出場し、谷口尚己(たにぐちなおみ)が6位入賞をはたしました。
1961年
 当時のホンダは2輪のオートバイメーカーであり、四輪競技のF1に出場するには、本物のF1マシンを購入して研究するしかないと考えたそうです。そこで、クーパーT53を購入し、F1参戦の準備を始めました。
 この時、ホンダには四輪レースの経験がありませんでした。しかし、二輪レースでは着実に成果を上げていました。ホッケンハイムで行なわれた東ドイツGPで、高橋国光(Honda RC162)が日本人初のグランプリ制覇を果たしました。まだ21歳でした。
 マン島TTレースでは、Hondaが125ccクラスと250ccクラスで優勝しました。2RC143は、125ccクラスで1位〜5位を独占するという快挙を成し遂げました。

クーパーT53

2RC143
1962年
 9月20日、鈴鹿サーキットが完成しました。
1963年
 2年前に購入した、クーパーT53を参考にして製造されたF1の試作車がRA270です。参考にはしたものの、まったくの別物に仕上がっています。ボディカラーは金色でした。
 F1マシンは、航空機の技術を取り入れて開発されています。戦後、職を失った航空機の技術者が、「(新進気鋭のベンチャー企業)ホンダなら、いつか飛行機が作れそうだ」と考えホンダに就職していたそうです。
 日本の航空機の技術力は優れており、GHQ(連合国総司令部)によって開発が凍結されました。つまり、アメリカが恐れるほどの技術力だったのです。元日本軍の航空機エンジンの専門家であった中村良夫がF1チームの監督に選ばれたのも偶然ではないと思われます。
 RA270という型番は、目標の270馬力を意味しているという説があります。一方で、RAに続く2が4輪の型番で、7がホンダで7番目に作られた4輪車、0は零号機(試作機)という説が存在するようです。
 ちなみに、2輪の型番はRC142など、1が使われていました。

 5月3日、「第1回日本グランプリ自動車レース」が鈴鹿サーキットで開催されました。排気量によって分けられ、11のレースが行なわれたそうです。主催者と参加者が共にレースの素人だったことで、クレームと喧嘩が絶えず、主催者は頭を抱えたと伝えられています。
 この年、ホンダは日本初のDOHCエンジンを搭載したT360とS500で四輪車市場に参入しました。

 上記のように、ホンダは四輪自動車メーカーとしての第一歩を踏み出した年に、F1マシンの試作車を作っていたのです。翌年、F1出場宣言を発し、F1に参戦します。

RA270 (Racing Automobile 270)

T360

S500