Honda F1 第2期 |
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1983年 第2期F1参戦、ホンダが最初のパートナーに選んだのはスピリットでした。 スピリットとの関係は、82年のヨーロッパF2への参戦から始まりました。F2に参戦し、ノウハウを集めてからF1に復帰するという計画だったそうです。 201Cに搭載されたターボは、ドイツのKKK製を経て、IHI(石川島播磨重工)製のものが使われました。もともと、ターボは航空機に採用されていた技術です。 スピリットとは一年限りで契約を打ち切り、次年からはウイリアムズと手を組むことになりました。
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1984年 この年から、Hondaはウイリアムズにエンジンを供給しました。第2期ホンダF1と聞くと、マクラーレン/ホンダを連想してしまいますが、ウイリアムズ/ホンダも速かったんです。 アメリカGPでケケ・ロズベルグが優勝し、ホンダに17年ぶりの勝利をもたらしまた。しかし、フジテレビのF1中継はまだ無く、ウイリアムズ/ホンダの活躍を知る人は少なかったと思われます。
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1985年 ウイリアムズにナイジェル・マンセルが移籍してきました。マンセルは、7年後にワールドタイトルを獲得する有能な選手です。また、Canon(キャノン)が大口スポンサーとして参加し、マシンカラーが変わりました。 マンセルが乗るFW10のカーナンバーは5番でした。これから数年間、5番というカーナンバーはマンセルの指定席となり、レッドファイブという愛称で親しまれました。
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1986年 FW11は、ウイリアムズ・ホンダにコンストラクターズタイトルをもたらした記念すべきマシンです。ドライバーズタイトルは最終戦まで争われましたが、手にすることはできませんでした。 この年搭載された1,500ccのターボエンジン(Honda RA166E)は1500馬力という途方もないパワーを発揮しました。エンジンの公式出力は1,050馬力以上となっていますが、予選の時は特殊な燃料を使って1,500馬力を生み出していました。 出力1,500馬力というのは、エンジンへの負担が大きく、1レースを走りきることができません。ですから、公式発表では1,050馬力以上という数値が用いられているようです。エンジンは何度でも載せ換えて良かった時代ですから、予選用エンジン、決勝用エンジンなんていう贅沢な使い方ができました。「エンジンは使い捨てだった」と言っても過言ではありませんでした。 ホンダによる無線を使用したテレメトリーシステムが導入されたのは、このマシンからでした。テレメトリーシステムは他のチームにも広がり、1レースで収集される情報量は、2000年代にはハードディスク1台分にも膨れ上がったそうです。
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1987年 ウイリアムズは、前年に続きコンストラクターズタイトルを獲得し、ネルソン・ピケがドライバーズタイトルを獲得しました。Hondaは、念願のダブルタイトルを獲得したのです。 Hondaはエンジンサプライヤーとしてダブルタイトルを獲得しましたが、ウイリアムズとの契約をこの年限りで終了しました。ウイリアムズ内部では、マンセル派とピケ派の対立が大きくなっており、このようなチーム内の不和が契約終了をあと押ししたといわれています。
中嶋悟がロータスからF1に参戦しました。Hondaの支援によって中嶋の参戦が決まりました。 ロータスにはアイルトン・セナが在籍しており、セナとホンダの関係はこのマシンから始まりました。2年前、セナはウイリアムズのFW10にあっさりと抜かれた経験があり、その時からホンダエンジンを熱望していたそうです。
・鈴鹿サーキットでのF1初開催(11月1日決勝)。 ・フジテレビのF1中継開始。(放映権の獲得には、中嶋悟の参戦が大きく影響していたといいます) この年は、日本にF1ブームを巻き起こすきっかけとなりました。 *日本で初めてF1が開催されたのは1976年、富士スピードウェイでした。この時、星野一義がスポット参戦しました。結果はリタイアでしたが、3位を走行する活躍をみせました。 |
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1988年 ドライバーのアイルトン・セナは、マクラーレンへの移籍の条件としてHondaエンジンを要求したそうです。こうして、Hondaとマクラーレンの接点が生まれました。 昨年からターボ車に対する規制が強化されました。安全性の確保が目的の規制でしたが、日本国内ではHonda潰しという表現で非難されていました。事実、Hondaは、ターボエンジンで勝ちすぎていました。 しかし、ターボ技術で優位に立っているHondaの優勢は崩れませんでした。技術開発に怠りはなく、ターボエンジンに対する規制は、ホンダとって有利に働いたといいます。その結果、マクラーレン・ホンダは、16戦15勝という記録を樹立しました。 第12戦イタリアGP、プロストはエンジントラブルでリタイア。50周目、トップを快走していたセナに不運が襲いました。周回遅れのマシンにシケインで接触し、サスペンションにダメージを負ってしまいました。セナもリタイアし、16戦16勝の夢は、12戦目に終止符を打ちました。 セナをリタイアに追い込んでしまったドライバーは、マンセル(ウイリアムズ)の代役として出走したシュレッサーでした。シュレッサーの伯父は、ホンダのRA302を駆り、原因不明のトラブルで事故死したドライバーでした。今回の件は『シュレッサー家の呪い』とも噂されましたが、単なるレースアクシデントであったことは明白です。 この年、自然吸気エンジンとターボエンジンが覇権を争う時代に終止符が打たれ、ターボエンジンは姿を消しました。
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1989年 マクラーレンのドライバー、セナとプロスト。二人のドライバーの関係は限界に近づいていました。 第15戦日本GPでは、シケインで両者が接触するというアクシデントに見舞われます。チームメイト同士の接触でした。プロストはシートから降りてリタイアを選択しました。セナはマーシャルの手を借りてコースに戻り、走り続けました。 レース後、セナは失格となり、プロストの王座が決定しました。
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1990年 マクラーレンに残留したセナと、フェラーリに移籍したプロストは、タイトル争いを繰り広げていました。 日本グランプリのスタート直後、第1コーナーで接触した両者は、マシンを止めリタイアしました。この瞬間、セナの王座が決定しました。 この衝突に関して、セナが前年の仕返しをしたのではないかという噂が存在します。それほど、意図的に見える接触だったのです。音速の貴公子といわれたアイルトン・セナにも人間臭い一面があり、不名誉な噂が立ってしまったのです。 このレースで鈴木亜久里は3位でゴールし、日本人初の表彰台を獲得しました。
マシン底部と路面の間に空気を流すと、ベルヌーイの定理に従ってダウンフォースが発生します。流れる空気の量が増えると、ダウンフォースも増えるのです。空気を効率よく引き抜くために、独特な形状のバットマン・ディフューザーも試されました。 しかし、このような工夫をマシンに施しても、満足できるだけのダウンフォースは得られませんでした。 そこで、ウイングを立ててダウンフォースを稼ぐという手段に出ました。このやり方は、空気抵抗が増え、加速や最高速度が抑えられてしまうという欠点を持っています。どのチームのマシンよりも前後のウイングを立ててダウンフォースを稼いでいたため、「地上最速のマールボロ看板」と言われてしまいました。 Hondaエンジンはレース毎にパワーを上げていったのですが、ウイングを立てて空気抵抗を増やされてしまうので、ホンダは不満を抱くようになります。それでも、マクラーレンはコンストラクターズタイトル3連覇を達成しました。 |
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1991年 開幕4連勝を飾りました。その後、ウイリアムズの猛追を受け、タイトル争いが厳しくなります。 マクラーレンとHondaはマシンの改良を続け、セナが3度目のワールドチャンピオンを獲得しました。 エンジンは、可変吸気システムを採用し、V10エンジンより5.5Kgの計量化に成功しました。馬力も55馬力向上したと伝えられています。ちなみに、この年のエンジンはV12(12気筒)です。 マクラーレンは、コンストラクターズタイトルとドライバーズタイトルの両方を獲得しました。しかし、Hondaはマクラーレンのマシンに満足していなかったと伝えられています。ライバルチームとの性能差は確実に縮まっていたのです。 MP4/6には週刊少年ジャンプのロゴが貼られています。小さなロゴですが、露出度が高い場所でもあり、年間1億円程度のスポンサー料が発生していたと記憶しています。このころ、日本は空前のF1ブームだったのです。
この年限りで、中嶋悟がF1を引退しました。ティレル 020は、中嶋悟の最後の愛機です。
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1992年 この年、ルノーエンジンを搭載したウイリアムズのFW14Bを駆るナイジェル・マンセルは、開幕5連勝という記録を打ち立てました。 マンセルの6連勝を食い止めたのは、セナがドライブしたMP4/7でした。開幕6戦目にして初優勝ということは、苦境に立たされていたということです。 第13戦イタリアGP、ホンダはこの年限りでのF1活動休止を発表します。日本では2年前にバブル経済が崩壊しており、景気回復の兆しは見えませんでした。莫大な経費を必要とするF1活動を続けるのは困難な状況だったのです。
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