Honda F1 第3期
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F1参戦までの道のり 第1期 第2期 第3期
2000年
 20世紀最後の年、まさに世紀末、ホンダはF1に復帰しました。
 Hondaは、フルワークスによるF1復帰を宣言していましたが、準備期間中にアクシデントがあり計画は思うように進みませんでした。そこで、British American Racing(B・A・R)と手を組みF1復帰を果たしました。
 F1に復帰したこの年、ホンダは11チーム中5位でシーズンを終えました。

BAR Honda / BAR002
2001年
 第5戦スペインGPでジャック・ビルヌーブが、ホンダF1復帰後初となる3位表彰台を獲得しました。第12戦ドイツGPでも3位表彰台を獲得しましたが、年間獲得ポイントは前年を下回り、コンストラクターズ・ランキングは6位でした。

BAR003

 ジョーダンは、無限ホンダエンジンに代わってワークス仕様のホンダエンジンを搭載しました。
 この年、イギリスF3でチャンピオンになった佐藤琢磨は、来季ジョーダンからF1デビューすることが決まっていました。
 冬季テストでは、佐藤琢磨がEJ11に乗り、多くの作業を行ないました。

Jordan Honda / EJ11
2002年
 昨年に続きB・A・Rは低迷しました。年間獲得ポイント数は、わずか7ポイントで終わりました。コンストラクターズ・ランキングでは8位まで転落しました。

BAR004

 佐藤琢磨がジョーダンからF1に参戦しました。ホンダの支援があったことは疑いようもありません。彼とホンダの関係は密接なのです。
 F1への近道は、イギリスに渡り、F3でチャンピオンになることだと、佐藤琢磨は考えていたそうです。そして、2001年イギリスF3でチャンピオンになり、ジョーダンとの契約が成立しました。史上7人目の日本人フルタイムF1ドライバーの誕生でした。
 日本グランプリ、佐藤琢磨は5位でゴールし初ポイントを獲得しました。

EJ12
2003年
 ジョーダンがHondaからコスワースにエンジンを変更したことで、佐藤琢磨はシートを失い、B・A・Rのサードドライバーとして1年間を過ごしました。
 最終戦の日本グランプリ、レギュラードライバーのジャック・ビルヌーブが欠場したため、佐藤琢磨がスポット参戦して6位でゴール。ポイントを獲得しました。

BAR005
2004年
 ジャック・ビルヌーブに替わり、佐藤琢磨がB・A・R HondaからF1に復帰しました。チームメイトは、ジェンソン・バトンです。
 ヨーロッパGP(ニュルブルクリンク)の予選では、佐藤琢磨が2番グリッドを獲得するなど、日本人がF1で優勝するという夢に近付きつつありました。そして、アメリカGPで3位表彰台を獲得しました。

BAR006(アメリカGP3位入賞車)
 ジェンソン・バトンは表彰台の常連ともいえる活躍をし、B・A・Rホンダは、コンストラクターズで2位を獲得する活躍を見せました。
 コンストラクターズで2位という好成績を残したのですから、決勝レースで優勝していてもおかしくないのですが、決勝での最高位は2位でした。優勝することなくシーズンを終えたのです。予選でポールポジションを獲得することもありませんでした。
 バトンのドライビング技術が無ければ、コンストラクターズ2位という成績を残すことは出来なかったのかもしれません。バトンは、2009年にワールドチャンピオンになる有能なドライバーだったのです。
 F1で優勝するには、スピードだけでなくノウハウも必要だと言われています。B・A・R Hondaに足りないものは、優勝を勝ち取るためのノウハウでした。
 第17戦の日本グランプリ(鈴鹿サーキット)では、台風の接近により予選が翌日に延期され、予選と決勝が同じ日に開催されるという珍事がありました。ホンダにとってはグランプリ参戦100戦目の記念すべきレースでしたが。
 日本グランプリの予選は琢磨が4位、バトンが5位という結果でした。この結果を受けて、琢磨のマシンは燃料を少なめに搭載し、バトンに援護をさせる作戦でした。しかし、燃料を多く積んだバトンのマシンはスタート直後に琢磨をパス。その後、再度順位が入れ替わるも、バトンは離されることなく決勝レースを進めました。結果は、バトンが3位、琢磨が4位という成績でした。
 決勝レースの戦略は、琢磨が3回ピットストップ、バトンは2回ピットストップでした。チームオーダーは禁止されていたので、バトンの完璧なレース運びが導いた表彰台だったのです。
 この年、フェラーリが圧倒的に強く、ミハエルシューマッハは5連覇を達成しました。
2005年

BAR007
 タバコ広告の規制に対応し、B・A・Rの大口スポンサーであるブリティッシュ・アメリカン・タバコ社の製品、LUCKY STRIKE(ラッキー・ストライク)のロゴが消され、『DON'T WORK』、『LOOK RIGHT』、『LOOK LEFT』のロゴが貼られるグランプリがありました。
 DON'T WORKはフロントウイングに、LOOK RIGHT と LOOK LEFTはカウルに貼られました。
 前年、好成績を残しながら、一度も優勝できなかったB・A・Rホンダ。はたして、2005年のレースでは、優勝することが出来るのでしょうか。
 ホンダはレギュレーションの変更により、2005年の開幕戦では、ダウンフォースが20%程度低下するだろうと設定していました。この設定が、ライバルチームよりも低すぎ、開幕戦から苦戦を強いられることになったと分析されています。開幕戦の結果は、バトン11位、琢磨14位でした。ライバルチームは、開幕戦までにほぼダウンフォースを取り戻していたのです。
 第3戦サンマリノGPではバトン3位、琢磨5位と復活を予感させる走りを見せました。しかし、レース後の車検の結果、燃料タンクの構造に違反が見られるとして、”レース失格”という処分が下されました。加えて、第4戦、第5戦の出場停止という処分まで下されました。
 シーズン後半戦、バトンは入賞を続けましたが、琢磨は不調でした。マシントラブル、給油トラブル、予選タイム末梢など、幸運の女神に見放された琢磨は、たった1ポイントでシーズンを終えました。
 10月4日、ホンダは日本GPに向けての記者会見中、B・A・Rの株式を年内に100%取得し、2006年からオール・ホンダで参戦することを明らかにしました。勝利への執念を表明したのです。
2006年
 前年、ホンダがB・A・Rの株式を取得したことでマシンの型番がRA106に改められました。
 国際自動車連盟は、2006年のエンジン排気量を3,000ccから2,400ccに規定変更しました。スピード低下を狙った規定変更でしたが、裏目に出ました。
 エンジンがコンパクトになったぶん、マシンの空気力学面での自由度が大きくなり、多くのチームがダウンフォースを増やしてしまいました。エンジンの出力もチームの努力で大幅に改善されてしまいました。
 F1では、規定変更に甘えたチームは勝てません。各チームともそのことを熟知していたのです。開発費の高騰が、各チームの運営を苦しめていたことは否定できない事実なのですが。
 ホンダは、ハンガリーGPで優勝します。第3期F1参戦で初めての優勝でした。表彰式では君が代が流れ、感激したことを覚えています。
 ハンガリーGPの優勝でホンダの復活が期待されましたが、ホンダが抱える慢性的なダウンフォース不足は解決されることなくシーズンを終えました。38年ぶりに誕生したオール・ホンダでしたが、この年も苦戦を強いられたのです。

RA106(ハンガリーGP優勝車)

 前年、元F1ドライバーの鈴木亜久里がF1参戦を表明しました。参戦表明から開幕までの準備期間は128日でした。
 Super AGURI のチーム記号は手裏剣をイメージしています。マシンカラーは日本代表を意識して赤と白を基調とした色彩でペイントされていました。
 SA05は、アロウズというチームのA23というマシンが基になっています。A23を2006年のレギュレーションに合致させ開幕に間に合わせました。
 SA05のシーズン中の開発はなされず、SA06の開発が集中的に進められていました。
 SA06は、第12戦ドイツGPから実戦投入され、最終戦ブラジルGPでは、佐藤琢磨が10位でチェッカーフラッグを受けました。最終戦の決勝レースではフェラーリと同じようなラップタイムを刻み、来季型マシンの活躍が期待されました。

Super Aguri / SA05
SA06
2007年

RA107
 RA107のカラーリングは、アースカラー(地球色)といいます。マシンにアースカラーを施すことで、ホンダが環境問題に取り組む企業であることをアピールしました。
 開幕戦、兄弟チームのスーパーアグリのほうが好成績を残すなど、課題が山積みのスタートとなりました。シーズン中の最高位は8位であり、RA107に競争力が無いことは明白でした。


SA07
 開幕戦の予選ではQ3まで進出し、10番グリッドを獲得しました。第4戦スペイングランプリで8位入賞を果たし、チームに初のポイントをもたらしました。第6戦カナダGPでは、前年王者のフェルナンド・アロンソを残り3周で追い越し、6位入賞を果たしました。
 6位入賞で勢いづいたように見えましたが、慢性的な資金難から開発は思うように進まず、目立った成績は残せませんでした。
2008年
 チーム監督のロス・ブラウンの指示で、RA108のシーズン中の開発を中止し、次年型のRA109の開発に注力しました。RA108は競争力が低く、開発を続けることは無駄であるとの判断に加え、2009年はレギュレーションが大きく変わる年であり、RA109の開発を急ぐことでチャンスをつかもうと考えたのです。
 シーズン終了後、来季の契約が決まっていたジェンソン・バトンは、HONDA Racing Thanks Day(11月23日)の会場で抱負を述べました。
 ところが11日後の12月4日、ホンダは記者会見を開き、F1からの撤退を発表しました。大手投資銀行グループのリーマン・ブラザーズが経営破たん(9月15日)したことにより、世界経済は加速度的に悪化していたのです。
 RA109とHonda Racing F1チームは、ロス・ブラウンに破格の安さ(噂では1ポンド、当時147円)で売却されたそうです。スタッフをそのまま雇用し、F1活動を続けるというのが売却の条件でした。F1はランニングコストだけで200億円を必要とするスポーツであり、売却しなければそれだけの経費が発生するということです。
 ロス・ブラウンに売却されたこのチームはBROWN GPと改名し、メルセデスエンジンを得て2009年のF1に参戦しました。そして、ドライーバーとコンストラクターの両タイトルを獲得してしまいます。チームを売却したホンダの心境は複雑でした。
 第1期、第2期は休止という言葉でF1から去りましたが、第3期は撤退という言葉が使われました。
 「撤退とは、もう参戦しないという意味か」とのマスコミの質問に対して、「完全に白紙です」という答えが返ってきました。
 F1界のボス、バーニー・エクレストンは、「日本企業は、好景気になるとF1にやってきて、不景気になると去っていく。だから、景気が良くなれば戻ってくると確信している」というコメントを残しています。私は、的を射た意見であると思っています。

HONDA Racing Thanks Day で抱負を語るバトン選手

RA108

 第4戦スペインGPのあと、スーパアグリF1チームの代表を務める鈴木亜久里は、青山のホンダ本社ビルで記者会見を開きました。その会場で告げられたのは、スーパー・アグリのF1撤退でした。撤退の理由は、マグマ・グループ(MAGMA GROUP)との契約が成立しなかったことだと、記者会見の席上で伝えられました。資金難による撤退でした。
 F1は莫大な費用を必要とするスポーツであり、ホンダがスーパーアグリを支え続けることは不可能でした。参戦前から、資金的な独立がスーパーアグリへのエンジン供給の条件だったのです。

SA08