Honda F1 第1期
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F1参戦までの道のり 第1期 第2期 第3期
1964年
 この年、本田宗一郎がF1出場宣言を出します。第6戦ドイツGP、シーズン途中からの参戦でした。ドイツは、第2次世界大戦の同盟国でもあり、歓迎されていたようだと伝えられています。
 当初、ホンダはロータスにエンジンを供給する形での参戦を目指していました。しかし、この年の2月にキャンセルの連絡が入りました。普通なら参戦を断念するところですが、ホンダはRA271を完成させ、コンストラクターとして参戦しました。
 RA271は、3戦に出場し、全てリタイアという厳しい成績でした。

RA271
(排気量1,500cc、220馬力)
 車体には日の丸が描かれていますが、黄金の国ジパングを代表して金色の車体で参戦する予定だったそうです。
 当時のF1の規則では、マシンはナショナル・カラーで出走することになっていました。金色は、南アフリカ共和国がナショナル・カラーとして登録しており、使用できないことが判明します。日本のナショナル・カラーを問い合わせたところ、登録されていないという回答が帰ってきました。
 その後、国際自動車連盟はアイボリーホワイトに赤のアクセントを日本のナショナルカラーとして認可し、RA271に日の丸が描かれたのです。
1965年
 この年の最終戦、メキシコGPでHondaが優勝し、日本車がF1で初優勝を遂げました。
 メキシコGPのサーキットは標高2,300メートルを超える高地にあり、空気が薄いという特徴があります。そこに勝機がありました。
 監督の中村良夫は、元航空機エンジンの専門家でしたが、戦争で職を失いホンダに入社しました。飛行機は空気の薄い所を飛んでいます。飛行機のエンジンは、空気の薄い環境で高い出力を得る必要があるのです。中村には、そのノウハウがありました。
 中村は、キャブレターのセッティングに時間を掛けました。キャブレターとは、燃料と空気を混ぜて霧状にする装置です。
 「キャブレターのセッティングが決まればレースに勝てる」という自信があったそうです。
 3番グリッドからスタートしたRA272は、65周、335Kmのコースを2時間8分32秒で駆け抜け、優勝しました。1周目からトップに立ち、ほとんど独走状態だったそうです。平均時速は約156Km/h、ドライバーは、リッチー・ギンサーでした。
 中村良夫は、「来た、見た、勝った」という言葉を本社に打電し勝利を伝えました。この言葉は、シーザーがローマの友人に送った戦勝報告を引用したものでした。

RA272

(13,000rpmで240馬力)
1966年
 エンジンの排気量が1500ccから3000ccにルール変更され、エンジン・車体とも重くなりました。その結果、運動性能が低下しました。加速、減速、コーナリングなどに問題がでたのです。
 ホンダは、問題解決のためのアイデアが浮かばず、優勝することなくシーズンを終えました。

RA273
1967年
 ドライバー、ジョン・サーティースの加入はHondaにとって明るい材料でした。2輪と4輪の王者経験を持つただ一人のサーティースは、Hondaのためにスポンサーを探し、エンジニアたちにもグランプリとは何か、勝てる車を作るにはどうすべきかを教えてくれました。
 Hondaは、前年使用したRA273を継続して実戦投入しました。成績は振るわず、シーズン中に新車を開発するという賭けに出ました。
 ジョン・サーティースの仲介でローラ・カーズと手を組み、インディ・カー用のマシンを改造して、RA300は作られました。
 わずか6週間で作られたRA300がイタリアGPのモンツァに持ち込まれまれ、予選で9番手を獲得しました。
 決勝レース、最終ラップの最終コーナーの立ち上がり、ジョン・サーティースはシフトアップによるタイムロスを恐れ、オバーレブ(エンジンの回転限界を超えること)覚悟でアクセルを踏み続けたそうです。
 そして、0.2秒という僅差で優勝しました。Hondaの2勝目でした。

RA300
 RA27シリーズはホンダ独自の技術で作られた車両であるのに対し、RA30シリーズはローラ・カーズの力を借りた車両です。つまり、RA300という型式は3,000ccという意味ではないのです。
1968年
 RA301は、大幅な軽量化に成功し、リアウイングは第7戦イギリスGPから装着されました。ドライバーのサーティースは、ようやく勝てるマシンが手に入りそうだと喜んだそうです。その後、空冷式エンジンのRA302が投入されると、「空冷式エンジンでは勝てない」と肩を落としたと伝えられています。
 7月、フランスGPでRA301とRA302の2台が出走しました。RA301は2位でゴールしましたが、RA302には悲劇が起きてしまいました。レース開始間もなくクルマは炎上し、ドライバーのシュレッサーが帰らぬ人となってしまったのです。
 急遽投入されたRA302の事故を受けて、「F1というレベルのレースに出場するには、完全な準備が必要なんだ」とホンダの技術者は思ったそうです。
 事故の後、RA302は鈴鹿サーキットでテストを行ないイタリアGPの予選に姿を現すなどしましたが、決勝レースを走ることはありませんでした。マシンの熟成は進まなかったようです。

RA301

RA302
 このころ、世界的に大気汚染が大きな問題になっていました。自動車が出す排気ガスも原因の一つでした。
 Hondaは、低公害型エンジンの開発を優先するため、F1活動を休止することを表明しました。
 第1期Honda F1最後の年は、優勝することなく幕を閉じました。