文化的景観とは「地域における人々の生活又は生業(なりわい)及び当該地域の風土により形成された景観地で我が国民の生活又は生業の理解のため欠くことのできないもの」と法律で規定しています。
 重要文化的景観は、都道府県又は市町村の申し出に基づき文部科学大臣が文化審議会に諮問し、文化的景観のうち特に重要なものを「重要文化的景観」として選定します。
 重要文化的景観に選定されると、地域内の変更を行う場合は、文化庁長官に届け出ることになっています。

文化庁 国指定文化財等データベース


平成30年11月17日現在、重要文化的景観は、全国で64か所指定されています。(文化審議会答申等含む)


景観名
都市名
県名
郡名
景観の特徴
近江八幡の水郷
おうみはちまんのすいごう

近江八幡市
おうみはちまんし

ここだよ★
滋賀県 平成18年1月26日選定重文景1
 近江八幡市の北東部に広がる「西の湖」という湖は、ヨシ原特有の湿地生態系を示している。西の湖の北岸に面する円山<まるやま>地区は、ヨシの産地として広く知られるようになった。円山地区では現在もヨシ加工による簾<すだれ>や葭簀<よしず>をはじめとする高級夏用建具の製造が行われており、製造業者の数は減少したものの「ヨシ地焼き」などの種々の作業は従来の手法を留めている。
 「近江八幡の水郷」は、西の湖やその周辺に展開するヨシ原などの自然環境が、ヨシ産業などの生業や内湖と共生する地域住民の生活と深く結びついて発展した文化的景観である。
(近江八幡市のHPより抜粋。一部加筆)


平成19年5月19日追加選定
 「近江八幡の水郷」に点在する農用地及び里山はかつて島であったもので、現在も田舟で移動した当時の面影を残す貴重な文化的景観である。既選定地である「西の湖」及び「円山の集落」「白王の集落」等を含め複合景観として一体的な保護を図る。
(文化庁のプレス発表資料より転載)


一関本寺の農村景観
いちのせきほんでらののうそんけいかん

一関市
いちのせきし

ここだよ★
岩手県 平成18年7月28日選定重文景2
 一関市本寺地区は、かつて「骨寺村」と呼ばれ、中尊寺経蔵別当領の荘園であったことが知られており、現在でも中世の農村景観を描いた絵図に記された自然や寺社などが、良好に保存されているとともに、伝統的な農村形態を色濃く残しながら、日々の営みが継続されている全国的に見ても稀な地域である。
(一関市のHP及び保存計画から抜粋)


平成27年1月26日追加選定
 中世平泉の中尊寺経蔵別当領<ちゅうそんじきょうぞうべつとうりょう>に関係する骨寺村荘園遺跡<ほねてらむらしょうえんいせき>の諸要素が良好に遺存するとともに、近世・近代を通じて継続的に営まれてきた稲作、近代に始まった炭焼きなどの農林業を通じて、緩やかに発展を遂<と>げた岩手県南地方の優秀な農村の文化的景観を示す区域である。今回は条件が整った範囲を追加選定する。
(文化庁の報道発表資料より転載。一部加筆)

アイヌの伝統と近代開拓による沙流川流域の文化的景観 
あいぬのでんとうときんだいかいたくによるさるがわりゅういきのぶんかてきけいかん

平取町
びらとりちょう

ここだよ★

北海道
沙流郡
平成19年7月26日選定重文景3
 沙流川流域とアイヌの人々との関係は深く、川原に生息するヤナギはイナウ(木弊)の制作に不可欠であり、広い沢筋に発達するハルニレの林床にはトレプ(オオウバユリ)やプクサ(ギョウジャニンニク),プクサキナ(ニリンソウ)といったアイヌの人々の生活にとって有用な植物が多数生育している。
 沙流川は、数年から数十年周期の大雨で大氾濫を起こし、これらの植物を洗い流してしまう。この現象は長期的にみればササ類の繁茂を防ぐことによってハルニレの林に新たな有用植物の再生を促し、川筋にアイヌの人々の安定的な生活圏を作り出すことに結びついた。また、沙流川中流域に形成された河岸段丘面には、近代開拓によってこの地域に移住した人々が営んだ牧野林が広がっている。
 牧野林は、エゾミヤコザサが冬期に馬の餌となるため、北海道で広く行われた林間放牧によって生まれた独特の森林利用の形態である。今日では、外国産種子の播種によって人工的な牧草地が増加し、まとまった特徴が認められる状態で維持管理が行われているものとしては、日高地方に残るものが最大規模である。
 以上のように、「アイヌの伝統と近代開拓による沙流川流域の文化的景観」は、アイヌ文化の諸要素を現在に至るまでとどめながら、開拓期以降の農林業に伴う土地利用がその上に展開することによって多文化の重層としての様相を示す極めて重要な文化的景観である。
(文化庁のプレス発表資料より転載)


平成28年3月1日追加選定
 沙流川流域の地域は、中近世のアイヌ文化期に起源を持ちながら、近代の開拓期には移住者による農林畜産業に基づく景観が呈された歴史を持ち、今日においても重層的な文化的景観が形成されている。条件が整ったことから、沙流川支流のアベツ川流域の、アイヌ民族の伝承・伝説・信仰の対象が多く残る森林地帯を追加選定する。
(文化庁のプレス発表資料より転載)

平成30年10月15日追加選定
 アイヌの伝統と近代開拓による沙流川流域の文化的景観の既選定区域に加えて、沙流川領域のアイヌ文化の伝承が地名として残り、明治以来、施業林<せぎょうりん>とされ、現在は国有林として管理されている部分(約23000ha)を追加選定する。
(文化庁の報道発表資料より転載。一部加筆)

遊子水荷浦の段畑
ゆすみずがうらのだんばた

宇和島市
うわじまし

ここだよ★

愛媛県 平成19年7月26日選定重文景4
 四国島の西端に当たる宇和島市遊子の水荷浦は、豊後水道に向かって延びる三浦半島の北岸から、さらに宇和海及び宇和島湾に向かって分岐する今一つ(もう一つ)の小さな岬の小集落である。
 岬の東南側の急傾斜面には、等高線に沿って小さな石を積み上げて形成された壮大な雛段状の畑地が展開し、水荷浦をはじめ宇和島市の周辺では「段畑」と呼ばれている。
 近世から近現代を通じて、雑穀、サツマイモ、クワなどの栽培により形成された「段畑」は、宇和海沿岸の風土とも調和して、沿岸におけるイワシ漁や湾内のハマチ養殖業とも深く関連しつつ、農耕を継続的に営むことにより緩やかな発展を遂げた特色のある文化的景観である。
 「段畑を守ろう会」や地域の自治会などが中心となって、ジャガイモ栽培を中心に都市農村交流事業が積極的に実施されており、今後の文化的景観の維持・活用についても期待される。
(文化庁のプレス発表資料より転載・一部加筆)


遠野荒川高原牧場土淵山口集落
とおのあらかわこうげんぼくじょうつちぶちやまぐちしゅうらく

遠野市
とおのし

ここだよ★
岩手県 平成20年3月28日選定重文景5
 柳田國男<やなぎたくにお>の『遠野物語』には、遠野に生きる人々の生活・生業<なりわい>の実態を示し、特に自然・信仰・風習に関連する独特の文化的景観が描かれている。遠野市の北東部に位置する荒川高原牧場は、『遠野物語』の原点を成す。
 「馬」・「馬産」に関する代表的な景観地で、早池峰山<はやちねさん>周辺の準平原に広がる牧草地を利用しつつ、地域の基幹産業として継続的に営まれてきた独特の放牧に関する土地利用の在り方を示している。特に近世及び近現代を通じて、採草のみならず、夏季に山へ家畜を放し、冬季に里の畜舎で育成する「夏山冬里方式」の放牧が採用されてきた点に特徴がある。
 荒川高原では、中世に採草地としての利用が始まり、近世に南部藩が馬産を奨励したことによって発展を遂げた。特に江戸時代後半には、大型の軍馬生産から輸送運搬に適した小型馬の生産へと転換した。また、荒川高原では、近世以来、馬産と並行して農耕牛の飼育も行われていた。
 昭和41年(1966)に千刈畑<せんかりばた>牧場・千刈<せんがり>牧場・荒川牧場が統合して、荒川高原牧場が成立した。
「遠野」の文化的景観全体の保護に向けた第一段階として、重要文化的景観に選定して保護を図ろうとするもの。
(文化庁のプレス発表資料より転載。一部加筆)

平成21年2月12日追加選定
 『遠野物語』の原点を成す「馬産」の景観地として選定した荒川高原牧場に深く関係し、夏季に牧場での放牧を行う際の起点となったのみならず、馬産の守護神として重要な役割を担ってきた荒川駒形神社の境内・参道とその関連施設を追加選定する。
(文化庁のプレス発表資料より転載)


平成25年3月27日追加選定
 柳田國男の『遠野物語』の舞台となった「遠野」の居住の在り方を表す景観地の代表的な事例。三陸沿岸部に通じる街道沿いに発達した居住地で、物語の題材となる説話を柳田國男に語り伝えた佐々木喜善<ささききぜん>の生家、居住地周辺の霊地などの説話の舞台となった場所が、良好な環境のもとに継承されている。
 今回、既選定の荒川高原牧場に追加して選定するとともに、名称を変更する。
(文化庁のプレス発表資料より転載。一部加筆)


高島市海津・西浜・知内の水辺景観 
たかしましかいづ・にしはま・ちないのみずべけいかん

高島市
たかしまし

ここだよ★
滋賀県 平成20年3月28日選定重文景6
 「高島市海津・西浜・知内の水辺景観」の特徴は、琵琶湖をはじめとする河川・内湖、扇端部の湧水を水源とする小河川、さらに増水時に冠水する水田等によって形成される多様な水界である。これらはそれぞれ、地域固有の豊かな生態系を示し、特に魚類は多様である。その多様性に併せて発達した伝統漁法に、河川を簀<さく>で遮断し、遡上する魚を漁獲部分に誘導するヤナ漁や、カラスの羽を着けたサオで湖岸に寄るアユを驚かせながら網に追い込むオイサデ漁等がある。漁法以外にも、洗濯のための「橋板」や「イケ」と呼ばれる水場や共同井戸など、多様な水文化が残る。
 本地区が歴史的に本格的な発展を遂げるのは、日本海から琵琶湖を経て京都に向かう湖上交通網が整備された15世紀以降のことである。特に江戸時代においては、宿場・港町として多くの人や荷物が行き交い、内湖を活用した荷物の積み出しや受け取りが行われた。旅人を相手とする商売が栄えるなど、港湾都市としての様相を呈していたと考えられる。特に海津は、陸路と航路の結節点に当たり、地域の生産品である淡水魚や石灰を含む多くの物資を、京都・大阪に運ぶ上で重要な場所となった。以上から「高島市海津・西浜・知内の水辺景観」は、古来より北陸道や琵琶湖の湖上交通を背景として、輸送や商業活動それに携わる人々の流通・往来が生み出した重要な文化的景観である。
(文化庁のプレス発表資料より転載。一部加筆)


小鹿田焼の里 
おんたやきのさと

日田市
ひたし

ここだよ★
大分県 平成20年3月28日選定重文景7
 日田市の最北部、大分県と福岡県との県境に位置する小鹿皿山・池ノ鶴地区は、北に英彦山<ひこさん>を控え、耶馬日田英彦山国定公園の南西部を占める地域である。日田市北部を南流する小野川の源流の一つである大浦川及び五色谷川が形成した狭隘<きょうあい>な谷地において両地域は形成され、水・土・木といった地域資源を巧みに利用した生活・生業<なりわい>が営まれてきた。
 皿山地区では、当地で採取される陶土を利用した小鹿田焼の生産が行われる。「唐臼」と呼ばれる陶土を粉砕する施設は河川の水力及びアカマツなどの木材を活用したものであり、窯焼きの燃料には周辺で産出される杉材が用いられる。
 池ノ鶴地区では、急峻な斜面地に当地に分布するプロピライト(変朽安山岩)を利用した石積みの棚田が形成され、「除け」と呼ばれる独特の水利システムによって営農が継続されているほか、シイタケ生産や杉材を活用した薪炭材<しんたんざい>生産が行われる。
 「小鹿田焼の里」は、英彦山系を源とする大浦川及び五色谷川によって形成された狭隘な谷間で営まれ、水・土・木等の資源を活かした窯業<ようぎょう>や農業といった生業が、当地における生活の在り方を示す重要な文化的景観である。
(文化庁のプレス発表資料より転載。一部加筆)


平成22年2月22日追加選定
 水・木・土といった地域資源を独特の方法で利用し窯業<ようぎょう>及び農業を営むことによって形成された文化的景観。既選定の集落区域を流れる水系の上流部に当たる。焼畑や林業の場となってきた山林区域を追加選定する。
(文化庁の報道発表資料より転載。一部加筆)


蕨野の棚田 
わらびののたなだ

唐津市
からつし

ここだよ★
佐賀県  平成20年7月28日選定重文景
 「蕨野の棚田」は、唐津市相知町内に所在し、蕨野区と池区の二つから成る。棚田は、八幡岳の馬蹄形状をした北向きの急傾斜地に約36haにわたってひろがっている。棚田の石積みは野面積み<のづらづみ>を基本とし、平均の高さ3~5m、高いものでは8.5mに及ぶ。池区には棚田の水源となる2つのため池(明治18年、昭和12年)がある。
 棚田の築造には二つの特徴がある。一つは「石垣棟梁」と呼ばれる専門の石工とこれを手伝う村人が、「手間講」と呼ばれる協同の石築作業を行い、石積みの維持管理を支えてきたという点である。もう一つの特徴は、棚田に水を配分する水利システムとその構造である。棚田の築造は、少なくとも江戸後期にまで遡ると考えられるが、現存するものの大半は明治~昭和20年代までに形成されたものである。
 「蕨野の棚田」は、棚田とその周辺の森林及び水利システムが、固有の石積技術や地域の協同作業に基づいて維持されるとともに、それらの有機的な関係が、一体の土地利用として発展した重要な文化的景観である。
(文化庁の報道発表資料より転載。一部加筆)


通潤用水と白糸台地の棚田景観 
つうじゅんようすいとしらいとだいちのたなだけいかん

山都町
やまとちょう

ここだよ★
熊本県
上益城郡
平成20年7月28日選定重文景9
 山都町は、九州のほぼ中央部に位置し、世界最大級のカルデラ地形を呈する阿蘇南外輪山のほぼ全域を占める。町域の南側は天然性の広葉樹林が発達した九州山地が広がり、緑川が東西に貫流している。緑川以北の地質は阿蘇火砕流堆積物で、外輪山山頂を水源とする小河川の浸食が開析谷と火砕流台地を形成している。山都町中心部の浜町の南方に位置する白糸台地もこの一つであり、四方を河川が囲繞<いじょう>しているため、古くから河川を利用した流通・往来の中心地として栄えてきた。その一方で峡谷が深く農業用水に困窮<こんきゅう>する地形条件から、近世後期において通潤橋<つうじゅんきょう>を伴う大規模な基盤整備事業を実施することとなった。通潤用水の建設と棚田の築造は、近世後期に実施された地域主導の開発事業の中で、技術的難易度、規模などの観点から我が国における最大級のものである。
 「通潤用水と白糸台地の棚田景観」は、通潤用水とこれに伴って築造された棚田が、地域の農耕活動によって現在に至るまで維持されてきた重要な文化的景観である。
(文化庁の報道発表資料より転載。一部加筆)

平成21年7月23日追加選定
 選定後の調査により、通潤用水と同時期に整備された緑川舟運<しゅううん>や諸街道における陸運によって形成された流通・往来上の価値が明らかになったため、追加選定された。

平成22年2月22日追加選定
 通潤用水という農業基盤事業に伴って開発された棚田が、地域の農耕活動を通じて現在も維持される重要な文化的景観。台地内に展開する水田を追加選定する。
(文化庁の報道発表資料より転載。一部改変)


宇治の文化的景観
うじのぶんかてきけいかん

宇治市
うじし

ここだよ★
京都府 平成21年2月12日選定重文景10
 宇治川に代表される自然景観を骨格としながら、重層的に発展した市街地とその周辺に点在する茶園によって構成される茶業に関する独特の文化的景観である。
 宇治は京都市の南に接し、古くから渡河点として、また奈良と京都を結ぶ街道の結節点として重要な重要な機能を果たしてきた。特に宇治川左岸に発展した市街地は、格子状を基本とする構成と平等院の旧園路に沿って展開する密集した住居形態を特徴とする。発掘調査等によって確認される当時の地割は、平安時代に藤原氏が別行(別荘のこと)を配置するために行った古代末の計画性と街区の様相を留め、これらが現在の街路配置に影響を与えることによって、宇治における歴史的な中心市街地の景観に反映さけるていると考えられる。
 また、宇治は安土・桃山時代から近世を通じた茶文化の発展において特に中心的役割を果たした。近世には、茶師屋敷や茶園など、宇治茶に関連する様々な要素が建造され、明治期には茶師の系譜を引く茶商をはじめ、卸や小売の店舗とともに手工業的な製茶工場が建ち並んだ。これらの建物のうち数棟は、現在でも宇治市内に残る。
(文化庁の報道発表資料より転載。一部加筆)


四万十川流域の文化的景観・源流域の山村
しまんとがわりゅういきのぶんかてきけいかん・げんりゅういきのさんそん
 
津野町
つのちょう

ここだよ★

高知県
高岡郡
平成21年2月12日選定重文景11
 四万十川の自然条件に適応しつつ、川に面し、家屋や畑地、里山等が一帯となって発展した四万十川源流域における居住の在り方を示す文化的景観である。
 津野町は四万十川の源流域にあり、不入山<いらずやま>を含む地域である。源流には豊かな自然が残り、「四万十源流の森」として保全されている。津野町には平野部が少なく、河岸から上部まで山林が続く傾斜地に張り付くように居住地や耕作地が展開している。一部の農地では、圃場整備が実施された今でも、700m級の山々を背景として広がる小さい石垣ら支えられた小規模な畑を数多く認めることができる。こうした畑では、かつて、イモ、ムギ、アワ、マメなどが作られていたが、現在は茶畑が中心である。水の確保を目的として、比較的広い平地に整備されたサイフォン式水路は、現在も地域の生業を支えている。
(文化庁の報道発表資料より転載。一部加筆)


平成24年1月24日追加選定
 四万十川流域の山頂付近に展開する茶畑と、急斜面地に形成される集落や土留めの石積みなどによって構成される文化的景観である。
 今回、追加調査によって価値が明らかとなった箇所を追加選定する。
(文化庁の報道発表資料より転載。一部加筆)

四万十川流域の文化的景観・上流域の山村と棚田
しまんとがわりゅういきのぶんかてきけいかん・じょうりゅういきのさんそんとたなだ

檮原町
ゆすはらちょう

ここだよ★

高知県
高岡郡
平成21年2月12日選定重文景12
 四万十川流域の厳しい自然条件の下で営まれた林業と小規模な棚田の耕作によって形成された文化的景観である。檮原町は、四万十川最大の支流、檮原川(流域面積451、幹川流路68㎞)の源流に位置している。町域のおよそ90%が、スギ、ヒノキの人工林とともに檮原川沿いに生育するコナラ、クリなどの大規模な落葉広葉樹によって占められている。檮原町の豊かな森林は、藩政時代から檮原町の財産であり、人々は常にこれらを管理し、火入れや採草を行うとともに、樹木を伐採して薪の採取や製炭を行ってきた。特に昭和30年代には、国内の木材需要に応えるために拡大造林が行われ、檮原町は大林業地帯となった。昭和50年代には、多くの山村が構造不況に基づいて次々に林業活動を手控える中で、檮原町は常に林業に積極的な姿勢を示し、1990年代以降においても、地域内連携の組織化や国際的な森林認証制度による高付加価値化を積極的に図ることによって、一貫して林業による地域づくりを進めている。檮原町は極めて平地が少なく、町内に小規模な棚田が点在する。中でも神在居<かんざいこ>の棚田(2.3ha)は勾配が厳しく、源流域の乏しい水を合理的に利用しつつ耕作を続け、棚田オーナー制度を積極的に取り入れている。
(文化庁の報道発表資料より転載。一部加筆)


四万十川流域の文化的景観・上流域の農山村と流通・往来
しまんとがわりゅういきのぶんかてきけいかん・じょうりゅういきののうさんそんとりゅうつう・おうらい

中土佐町
なかとさちょう

ここだよ★

高知県
高岡郡
平成21年2月12日選定重文景13
 四万十川上流域の狭い土地に農地を開墾し、新田開発を行うとともに、木材の輸送を通じて形成された文化的景観である。
 中土佐町は、四万十川上流域に接し、中でも標高300mに所在する大野見地区においては、地区を二分して貫く四万十川本流に数々の支流が流れ込んで美しい渓谷を形成し、川の流れに沿って水田が発展するとともに、農林業の複合経営に生活の活路を求めてきた。大野見地区の97%に広がる森林は、杣<そま>や木挽き<こびき>によって切り開かれ、川を利用して下流へと運ばれた。これらは中土佐でいったん陸揚げされた後、陸路を久礼<くれ>まで運ばれ、久礼の港から近畿圏などに輸送された。また、大野見地区の最も大きな特徴は、四万十川本流に13ヶ所見られる堰のうち、6ヶ所が集中しているという点である。藩政期より努力して繰り返された小規模であるがきめ細かい開墾と新田開発は、度重なる灌漑工事<かんがいこうじ>の結果であり、これにともなって構築された堰が地区内に遺存<いそん>している。
(文化庁の報道発表資料より転載。一部加筆)


平成23年2月7日追加選定
 四万十川上流域の狭い土地に農地を開墾し、新田開発を行うとともに、木材の輸送を通じて形成された文化的景観である。今回は,四万十川支流である萩中川、下ル川に展開する林業地と山村を追加選定する。
(文化庁の報道発表資料より転載)


四万十川流域の文化的景観・中流域の農山村と流通・往来 
しまんとがわりゅういきのぶんかてきけいかん・ちゅうりゅういきののうさんそんとりゅうつう・おうらい

四万十町
しまんとちょう

ここだよ★

高知県
高岡郡
平成21年2月12日選定重文景14
 四万十川中流域が示す豊かな自然環境と、農林業によって形成された多様な土地利用、流通、往来の営みによって生み出された市街地によって形成される文化的景観である。
 四万十町は四万十川中流域に位置し、急峻<きゅうしゅん>な山に囲まれた上流域と比較して多様な土地利用の様態を示している。本地区は、その特性から大きく、大正奥四万十地域、四万十川中流区域、高南台地区域の3つに区分るかことができる。同じ四万十川中流域にありながら、3地区は自然・社会的条件の違いに基づく特徴を示し、それぞれが相俟<あいま>って、豊かな文化的景観を形成している。
 大正奥四万十区域の人々は主に林業に従事し、山地を切り開いて棚田や段々畑を営んできた。四万十町は、明治から昭和にかけて近代林業の拠点として成長したため、木材の搬出を担った筏師<いかだし>が暮らすなど、独特の様相が見られた。特に四万十川中流区域に所在する小野地区には、四万十川流域の林産品を一手に扱う商人達が行商し、ミツマタやワラビ粉とともに、コウゾを原料とした仙花紙<せんかし>と呼ばれる和紙を扱った。この和紙は、四万十川に晒<さら>して作られ、戦前までは 帳簿用紙・戸籍用紙・土地台帳用紙等として大量の需要があった。
高南台地区域には大規模な田園地帯が広がるが、この区域は仁井田米<にいだまい>に代表される県内有数の穀物地帯である。農地が生み出す富みは四国霊場37番札所の門前町である窪川<くぼかわ>の発展を促<うなが>し、商業を基盤とする都市的な営みを四万十川中流に生み出した。
(文化庁の報道発表資料より転載。一部加筆)


平成23年9月21日追加選定
 四万十川中流域が示す豊かな自然環境と農林業によって形成される多様な土地利用が生み出す文化的景観である。四万十川流域を代表する仁井田米の生産地である市生原<いちうばら>地区を追加選定する。
(文化庁の報道発表資料より転載。一部加筆)

四万十川流域の文化的景観・下流域の生業と流通・往来 
しまんとがわりゅういきのぶんかてきけいかん・かりゅういきのせいぎょうとりゅうつう・おうらい

四万十市
しまんとし

ここだよ★
高知県 平成21年2月12日選定重文景15
 四万十川下流域が示す豊かな自然環境と、農林業によって形成される多様な土地利用、流通・往来の営みによって生み出された市街地によって形成される文化的景観である。
 四万十市は四万十川下流域に位置し、黒尊川<くろそんがわ>区域、四万十川下流区域、四万十川河口区域から構成される。四万十川第一支流である黒尊川源流は広大な森林資源を有し、一部の原生林が保護されるとともに体験型学習の場として活用されている。また四万十川下流区域は、豊富な水量と広い川幅や河原を持ち、火振漁<ひぶりりょう>など淡水漁業が営まれている貴重な場となっている。黒尊川と四万十川の合流部に展開する口屋内<くちやない>地区は、物資輸送において上流部と河口部を結ぶ中継地として栄えたところであり、材木の輸送や宿泊に使用された建造物が集落内に遺存し、当時の面影を留めている。
 四万十川河口区域は、四万十川本流部のうち、四万十市入田<にゅうた>から河口までの約13.5㎞とその河畔林<かはんりん>及び下田<しもだ>を含む区域である。このうち、河口から約9㎞上流までが汽水域で、この水域の広さが豊かな生物相を育<はぐく>むとともに、川魚や藻類の生産を含む生業の場としての価値を高めている。河口部に位置する下田地区は、中世期から四万十川を介した積み出し港として発展し、町の成り立ちを示す街区やかつての豪商が暮らした建物の一部が残り、独特の景観を作り出している。
(文化庁の報道発表資料より転載。一部加筆)


金沢の文化的景観 城下町の伝統と文化
かなざわのぶんかてきけいかん じょうかまちのでんとうとぶんか

金沢市
かなざわし

ここだよ★

石川県 平成22年2月22日選定重文景16
 現在の金沢市街地は「金沢御堂<かなざわみどう>」の門前に形成された寺内町<じないまち>を始まりとし、その形成された近世城下町を基盤とする。城下町は、寛文・延宝期(1661~1681)にほぼ完成し、その形態は「寛文7年金沢図」「延宝金沢図」において確認することができる。絵図が示す街路網は細街路に至るまで現状にほぼ一致し、城下町の町割や用水は現在の金沢市街地の街路及び街区の構造を決定している。また、藩政期の金沢においては、三代藩主前田利常、五代綱紀によって漆工<しっこう>、金工、陶芸などの制作が奨励され、御細工所を設けて生産品の芸術的な技術水準が高められたが、これらの多くは維新後に旧武家層によって商業化され、現在も金沢の主要な生業<なりわい>となっている。
 このように、「金沢の文化的景観 城下町の伝統と文化」は、我が国における城下町発展の各段階を投影した都市構造を現在まで継承し、街路網や用水路等の諸要素が現在の都市景観に反映されるとともに、城下町が醸成した伝統と文化に基づく伝統工芸等の店舗が独特の界隈<かいわい>を生み出す貴重な文化的景観である。
(文化庁の報道発表資料より転載。一部加筆)


姨捨の棚田
おばすてのたなだ

千曲市
ちくまし

ここだよ
長野県 平成22年2月22日選定重文景17
 古くから月見の名所や棄老説話<きろうせつわ>で著名な姨捨山北麓の標高460~550mの傾斜地には、千曲川<ちくまがわ>から善光寺平<ぜんこうじだいら>に至る広大な盆地に臨んで約1500枚の水田から成る棚田が展開している。近世初頭に畑作と稲作が混在する農耕が定着し始め、利水が進展することにより稲作が主体となり、16世紀半ばから近  現代にかけて日本を代表する棚田の文化的景観を形成した。
 姨捨の棚田の基本構造は、土石流が形成した斜面上に展開する棚田とその水源である更級川<さらしながわ>上流の大池が有機的に結びついている点にある。近世初頭における営農は斜面上の小湧水群を利用して出発したが、大池から更級川を経て各用水へと給水する灌漑<かんがい>手法が導入され、土坡<どは=土で固めた堤>の畦畔<けいはん=あぜ道>を超えて導入する導水する「田越<たごし>」と呼ぶ灌漑方法や、水田の下層に敷設<ふせつ>された「ガニセ」と呼ぶ暗渠<あんきょ>による排水方法が採用されることにより、棚田は斜面全体へと広がっていった。
 このように、「姨捨の棚田」は、水源となる大池から更級川へと繋<つな>がる水系を軸として、用水や田越の給水手法が網の目のように張り巡らされ、16世紀半ばから近現代に至るまで継続的に営まれてきた農業の土地利用の在り方を示す独特の文化的景観であり、我が国民の生活又は生業<なりわい>を理解する上で欠くことのできないものである。
(文化庁の報道発表資料より転載。一部加筆)


樫原の棚田及び農村景観
かしはらのたなだおよびのうそんけいかん

上勝町
かみかつちょう

ここだよ
徳島県
勝浦郡
平成22年2月22日選定重文景18
 四国の勝浦川上流部は急峻<きゅうしゅん>な地形の合間に棚田と農家が散在する地域で、その中の樫原地区には、深い山林に覆<おお>われた里山を背景として、樫原谷川<かしはらだにがわ>へと連続する標高500~700mの急傾斜面上に3つの棚田と居住地が展開する。閉じられた山間の地すべり地形を示す窪地状<くぼちじょう>の地形に、一群の棚田と農家がまとまって展開する農耕と居住の在り方はこの地域の典型的・代表的な土地利用形態を示し、良好な文化的景観を形成している。
 樫原の棚田を中心とする土地利用形態の最大の特質は、文化10年(1813)11月の紀年銘のある『勝浦郡樫原村分間絵図』<かつうらぐんかしはらむらぶんけんえず>に描かれた水田の位置・形態、家屋・道・堂宇・小祠<しょうし>の位置などとの詳細な照合が可能なことである。精度高く描かれた詳細な内容と現況との比較により、200年以上もの間、土地利用形態がほとんど変化していないことがわかる。
 棚田への水利系統は、樫原谷川から等高線に沿って引かれた14本の用水により精巧<せいこう>に張り巡らされている。樫原の棚田は、全体の面積が大きいのに対し、水田1枚当たりの平均面積が180㎡と小さく、平均勾配は約4分の1と急勾配であり、立地する標高も町内の他事例に比較して最も高いなど、この地域における棚田の中でも特質が見られる。
(文化庁の報道発表資料より転載。一部加筆)


平成25年10月17日追加選定
 近世から近現代に、四国の山間地で継続的に営まれてきた棚田・農家から成る典型的な土地利用の在り方を表す良好な文化的景観であり、19世紀初頭の分間図との照合が可能な文化的景観の希少な事例。既選定の区域に隣接する居住地・棚田の全域・樹林地を追加選定し、名称を変更する。
(文化庁の報道発表資料より転載。一部加筆)

平戸島の文化的景観
ひらどしまのぶんかてきけいかん

平戸市
ひらどし

ここだよ
長崎県 平成22年2月22日選定重文景19
 平戸島の小河川沿いの谷部には、安満岳<やすまんだけ>を中心として防風石垣や石塀を備える春日<かすが>、獅子<しし>、根獅子<ねしこ>、宝亀<ほうき>、田崎<たさき>・神鳥<かんどり>・迎紐差<むかえひもさし>の集落や棚田が展開している。これらの集落の多くは、16世紀半ばから17世紀初頭にかけて書かれたイエズス会宣教師の書簡において、教会や慈悲の組についての記述とともにその名を確認することができる。また、現在も伝統的家屋の中に戦国から江戸時代初期のキリシタン信仰に起源を持つ納戸神<なんどがみ>を祀<まつ>るなど“かくれキリシタン”としての営みを続け、安満岳や中江ノ島のような聖地とともに、殉教地<じゅんきょうち>を伴う独特の様相を現在に留めている。棚田群は、大きなものでは海岸から標高約200mの地点まで連続して築造され、山間部に点在する若干の耕作放棄地を除けば、全体としてよく耕作されている。地元の礫岩<れきがん>を用いた石積みの中には、生月<いきつき>の技術者集団の手によるものも認められる。
 このように、「平戸島の文化的景観」は、“かくれキリシタン”の伝統を引き継ぎつつ、島嶼<とうしょ>の制約された条件の下で継続的に行われた開墾及び生産活動によって形成された棚田群や人々の居住地によって構成される独特の文化的景観である。
(文化庁の報道発表資料より転載。一部加筆)


平成22年8月5日追加選定
 かくれキリシタンの伝統を引き継ぎつつ、島嶼<とうしょ>の制約された条件の下で継続的に行われた開墾及び生産活動によって形成された棚田群や防風壁を伴う居住地によって構成される独特の文化的景観。今回は、これらの集落のうち、重要文化的景観の価値を維持するために必要不可欠な飯良町<いいらちょう>の全域及び主師町<しゅうしちょう>の一部を追加選定する。
(文化庁の報道発表資料より転載。一部改変)


高島市針江・霜降の水辺景観
たかしましはりえ・しもふりのみずべけいかん

高島市
たかしまし

ここだよ
滋賀県 平成22年8月5日選定重文景20
 高島市新旭町針江・霜降は、安曇川<あどがわ>下流域に拡がる扇状地の扇央部に位置する集落で、周囲には豊富な湧水を活用した水田が展開している。集落内では湧水に端を発する大小の水路が縦横<じゅうおう>に流れ、針江大川<はりえおおかわ>を経て琵琶湖に注ぐ。針江大川流域・水路・水田及び湿地・河口域の内湖<ないこ>及びヨシ帯・琵琶湖が一つの水系として連続しており、豊かな生態系が育まれている。集落の起源は少なくとも中世に遡る。当時、比叡山延暦寺の荘園<しょうえん>として既に広大な田地<でんち>が開かれており、近世期には湿地を埋めて耕地化したことが記録されている。集落では湧水を活用したカバタと呼ばれる独特の洗い場を多くの家庭が有しており、その水は集落内の水路を経て水田・河川・琵琶湖岸へと繋<つな>がることから、水の使用については住民間で暗黙の規制が共有されてきた。また、湧水は重要な生活上の資源として神聖視されており、湧水点では石造物等が祀<まつ>られ地域住民によって維持・管理されている。近年はこうした水環境を「生水<しょうず>」と称し、地域の水環境を保全する取組が進められている。
 このように、安曇川の湧水を利用した独特の生活が営まれると同時に、集落・河川・水田・ヨシ帯等が一体的な水環境を形成する重要な文化的景観である。
(文化庁の報道発表資料より転載。一部加筆)


田染荘小崎の農村景観
たしぶのしょうおさきののうそんけいかん

豊後高田市
ぶんごたかだし

ここだよ

大分県 平成22年8月5日選定重文景21
 大分県国東<くにさき>半島の西部に位置し、中世に遡る宇佐八幡宮の荘園<しょうえん>に起源を持つ農耕・居住に関する良好な文化的景観。古代には、半島の中心に位置する両子山<ふたごさん>から四方に延びる谷筋に沿って、六郷<ろくごう>と呼ばれる6つの郷村<ごうそん>が形成され、そのうち半島の西部に当たる田染郷<たしぶごう>には11世紀前半に田染荘<たしぶのしょう>の村落及び農地が開発された。その後、田染荘は宇佐八幡宮の「本御荘<ほんみしょう>十八箇所」と呼ばれる荘園のひとつとして重視され、田染氏を名乗る神官の子孫が代々支配するようになった。
 田染荘を構成する村落・農地のうち、小崎<おさき>地区の小崎川中流域左岸の台地上に当たり、史料・絵図に残る村落名・荘官<しょうかん>屋敷名と現地に遺存する地名・地割・水路等との照合により、14世紀前半から15世紀における耕地・村落の基本形態が現在の土地使用形態にほぼ継承されていることが知られる。現在は、水田オーナー制度の下に、住民による文化的景観の保存活用事業が進みつつあり、農地としての土地利用形態の維持にも期待が持てる。
 このように、中世の荘園に起源を持ち、近世から近代かけて緩やかに進化を遂<と>げた国東地方の農耕・住居の基盤的な土地利用形態を示す文化的景観である。
(文化庁の報道発表資料より転載。一部加筆)


平成28年10月3日追加選定
 中世の宇佐宮の荘園に起源をもち、国東半島の中山間地域の地形を生かして継続的に営まれてきた生活は生業<なりわい>による農村景観である。今回は集水域にあたる西方の山林を追加選定する。
(文化庁の報道発表資料より転載。一部加筆)

久礼の港と漁師町の景観 
くれのみなととりょうしまちのけいかん

中土佐町
なかとさちょう

ここだよ
高知県
高岡郡
平成23年2月7日選定重文景22
 高知県高岡郡中土佐町に所在する久礼の港は、中世より近代にかけて、領域各地で生産された物資を関西方面へと搬出する主要な港の一つとして、また、他地域より物資や情報を吸収する重要な拠点の一つとして発達した。特に近世初頭には、家臣団居住地や城館を取り込み、港湾機能に重点を置く小規模な都市プランが形成され、現在の景観はこの構造に基づいて形成されたものである。久礼に残る建物には、激しい台風に見舞われる独特の風土と共生した記憶を示すものが多く、水切り瓦や土佐漆喰は,夏の暑さや高い湿度、あるいは暴風にさらされた暮らしの名残である。明治期には久礼、上ノ加江、矢井賀の三つの漁業組合が設立され、戦後には木材関連事業に変わって鰹漁が久礼の中心的な産業へと発展した。漁師町には家屋が密集し、庶民的な地区の中では玄関脇の流しで魚をさばく人々の暮らしを見ることができる。
 このように、「久礼の港と漁師町の文化的景観」は、中近世に繁栄した港を核として形成された市街地が、鰹漁とともに発展した漁師町や漁港と相まって形成される独特の文化的景観である。
(文化庁の報道発表資料より転載)


小値賀諸島の文化的景観 
おぢかしょとうのぶんかてきけいかん

小値賀町
おぢかちょう

ここだよ

長崎県
北松浦郡
平成23年2月7日選定重文景23
 小値賀島は大小17の島嶼群<とうしょぐん>から成る小値賀町の主島で、火山活動で形成された島々は複雑な地形とともに、各種の亜熱帯性植物や野生生物が根付く独特の風土を持っている。
 笛吹の地名初見は明徳元年(1390)だが、この地域は遣唐使船の通過地点として古代にはすでに流通・往来における重要な拠点であったと考えられ、室町時代には日明貿易に基づく中世の港津として栄えた。島民は、古くより島嶼間を往来して農業や放牧を営む独特の生活様式を維持してきた。江戸時代になると,平戸藩の下で異教徒や異国船の監視を目的とする、押役所<おさえやくしょ>や遠見番所が設置された。笛吹の集落は、農村地帯の笛吹在と漁業者・各種職人・商業者等が混在する笛吹浦の2地区に大きく分かれて形成され、壱岐より移住した小田家が鯨組経営や、小値賀諸島外での新田開発、上方との海産物取引等の事業展開を行うことによって経済的に成長した。島嶼間を往来する生活は、参詣や生産の営みとして現在まで継承されている。
 このように「小値賀諸島の文化的景観」は、多様な地形的特長を活用する島嶼間の流通・往来や近隣地域・諸国との流通・往来に基づいて発展した、港や居住地等によって形成される独特の文化的景観である。
(文化庁の報道発表資料より転載。一部加筆)


平成23年9月21日追加選定
 多様な地形的特徴を示す島嶼<とうしょ>間の移動や近隣諸国との流通・往来に基づいて発展した港や居住地等によって形成される文化的景観である。島嶼の生活や生業<なりわい>を支えた磯場、牧野、薪炭林<しんたんりん>等を追加選定する。
(文化庁の報道発表資料より転載。一部加筆)

天草市崎津・今富の文化的景観
あまくさしさきつ・いまどみのぶんかてきけいかん

天草市
あまくさし

ここだよ
熊本県 平成23年2月7日選定重文景24
 天草下島の南西部、羊角湾<ようかくわん>の北岸に位置する﨑津では、中世には外国船が出入りする港として、近世から近代にかけては貿易や石炭搬出など流通・往来の拠点として、天然の良港を活かした港湾都市が形成された。現在、﨑津はタイ・スズキ・イワシなど多様な魚種を水揚げする漁村集落として機能している。﨑津浦の西側に展開する下町・中町・船津では、狭隘<きょうあい>な湾内のわずかな平坦地に家屋が密集し、浦へ出るために「トウヤ」と呼ばれる小路が数軒毎に形成されている。海上には、竹やシュロを利用した「カケ」と呼ばれる構造物が設けられており、漁船の碇泊<ていはく>や魚干しなど、生活・生業上の施設として利用されている。また、﨑津浦の東側に展開する向江では畑作・稲作が行われており、林産品や漁期の労働力を﨑津へ供給するほか、﨑津諏訪神社の例祭では他の3区と協働している。
 このように、﨑津浦を囲んで一体的に展開する「天草市﨑津の漁村景観」は、貿易や石炭搬出など流通・往来の拠点として、また豊かな漁業資源が集積する漁港としての機能を有する集落が、「カケ」や「トウヤ」などの特徴的な生活・生業上の施設を伴いつつ成立することによって形成された、独特の文化的景観である。
(文化庁の報道発表資料より転載。一部加筆)


平成24年9月19日追加選定
 東シナ海に開いた羊角湾北岸に展開する歴史的に流通・往来の拠点でありカケ・トウヤなど海岸部の狭隘地<きょうあいち>に独特の土地利用の在り方を示す崎津の漁村景観と、近世以降の干拓で農地を広げながら山すそで集落を営んできた今富の農村景観による文化的景観である。
 今回、追加調査によって価値が明らかとなった今富集落を追加選定し、名称変更を行う。

(文化庁の報道発表資料より転載。一部加筆)

利根川・渡良瀬川合流域の水場景観
とねがわ・わたらせがわごうりゅういきのみずべけいかん

板倉町
いたくらまち

ここだよ
群馬県
邑楽郡
平成23年9月21日選定重文景25
 群馬県の最東端に位置する板倉町には、利根川と渡良瀬川との合流点に形成された低湿地(水場<みずば>)が展開している。そのため当地は古くから洪水多発地帯であり、豊かな土壌・生態系が育まれる一方、生活を営むために様々な工夫が行われてきた。当地における人々の居住は縄文時代から確認されるが、広大な沖積低地における集落形成や開墾は、中世末期から近世にかけて実施された築堤や河川の瀬替えによって実現した。近代には大規模な治水事業が行われ、現在に通じる水利システムが完成された。こうした治水事業によって開墾された低地では、主に水田耕作が行われている。水田の中には、河川や沼に面した湿地に溝を掘り、その掘削土を客土(揚げ土)し掘り上げ田を造成した、川田<かわた>と呼ばれる農地も営まれている。また、自然堤防上等に形成されている居住地では、屋敷地の一画に土盛りをし、その上に水塚<みつか>と呼ばれる避難用建物が築造されている。屋敷地の北西にはエノキ・ムクノキなど自然堤防の環境に適応した郷土種や、水防にも有効なタケ類が植栽されており、防風屋敷林として機能している。
 このように、利根川・渡良瀬川合流域の水場景観は、大河川の合流域で形成された低地における、水と共生する生活・生業上の様々な工夫によって育まれた、価値の高い文化的景観である。

(文化庁の報道発表資料より転載。一部加筆)

佐渡西三川の砂金山由来の農山村景観
さどにしみかわのさきんざんゆらいののうさんそんけいかん

佐渡市
さどし

ここだよ

新潟県 平成23年9月21日選定重文景26
 佐渡島の南西部、真野湾に注ぐ西三川川流域一帯には金銀鉱床が展開しており、古くから砂金採掘が行われた結果、現在は斜面の掘削による平坦面・被植に乏しい裸地や地崩れ地形・独立丘陵など特異な地形が形成されている。砂金採掘の記録は平安時代に遡<さかのぼ>るが、産金量が増大した中世末期には砂金採掘の中心地であった西三川川中流域の山間地に集落が形成され、近世も徳川幕府の財政を支えた佐渡金銀山の一つとして西三川砂金山は栄えた。江戸時代中期以降は次第に産金量が減尐し、明治5年(1872)に西三川砂金山は閉山となった。閉山後は砂金採掘跡や堤跡の田畑への転換、砂金流し用水路の農業用水路への転用といった農地開発が行われ、明治末期には現在の農山村へと産業構造の転換がほぼ完成するに至った。こうした田畑や水路は現在も機能しており、近世の鉱山跡地や鉱山技術を応用した農地開発にかかる土地利用の変遷を確認することができる。集落内では長年の砂金採掘によって生じたガラ石を用いて、家屋の敷地境界線や道路法面に石垣が築かれており、屋敷の配置構成も近世の砂金採掘時代の形態を継承していることが絵図によって示されている。
 このように、佐渡西三川の砂金山由来の農山村景観は、古代から近代まで行われた砂金採掘によって形成された独特の地形・技術を、閉山後も巧みに土地利用に活かし農山村へと産業構造の転換を成功させた地域の歴史的変遷を示す、価値の高い文化的景観である。

(文化庁の報道発表資料より転載。一部加筆)

奥飛鳥の文化的景観
おくあすかのぶんかてきけいかん

明日香村
あすかむら

ここだよ
奈良県
高市郡
平成23年9月21日選定重文景27
 明日香村の中央部を貫流し大和川<やまとがわ>へ注ぐ飛鳥川の源流域では、スギ・ヒノキが卓越する深い植林地の中に集落・農地が営まれている。奥飛鳥地域の記録は皇極天皇元年(642)に遡<さかのぼ>ることができ、中世末期には入谷<にゅうだに>・栢<かや>の森・稲渕<いなぶち>・畑<はた>の四大字<よんおおあざ>が飛鳥川上流域のムラとして成立したとされる。地域ではハギやヤマブキなどいわゆる万葉植物の植生も卓越しており、豊かな生態系が育まれている。飛鳥川沿いに展開する河岸段丘面<かがんだんきゅうめん>上や山裾<やますそ>、山の緩斜面<かんしゃめん>上には,小規模な集落が展開する。いずれも斜面地に平場を造成するために、飛鳥川の川石や山を切り開いた際に出土した石材を用いた石積みを伴う。集落の中には、急傾斜の茅葺き屋根と緩傾斜の瓦葺き屋根を有した落棟<おちむね>とを組み合わせた大和棟の民家が点在しており、石積みと併せて独特の集落景観を形成している。地域では主に農業が営まれており、特に稲渕では地域でも有数の広さを誇る棚田が形成されている。棚田には15世紀に遡るとされる井手<いで>(田の用水として、水の流れをせき止めてためてある所)によって水が供給されており、最長3.8㎞を誇る大井手をはじめ数十本の井手が耕作者によって管理されている。地域では集落から飛鳥川に降りる階段を設えたアライバが現在も機能しており、また盆迎え・盆送りが飛鳥川を通じて行われるなど、飛鳥川と強く結びついた生活が営まれている。
 このように、奥飛鳥の文化的景観は、飛鳥川上流域において展開される、地形に即して営まれてきた居住の在り方と、農業を中心とした生業の在り方とを示す価値の高い文化的景観である。

(文化庁の報道発表資料より転載。一部加筆)

佐世保市黒島の文化的景観
させぼしくろしまのぶんかてきけいかん

佐世保市
させぼし

ここだよ
長崎県 平成23年9月21日選定重文景28
 九十九島のうち最大の島である黒島は、海岸部の標高50m付近までは急な断崖となっている一方、標高約100m以上はなだらかな地形となっており、畑地や集落が点在する。暖流の対馬海流の影響を受けた海洋性気候であるため亜熱帯植物も多く自生している。江戸時代の黒島は、平戸藩に属する西氏の所領であり、藩の牧<まき>が置かれていた。18世紀に開拓を目的とする移住が平戸藩の主導で行われ、特に牧廃止後は跡地開拓のためさらに移住が推進された。また、黒島北方に浮かぶ伊島<いしま>・幸ノ小島<こうのこしま>は古くから黒島の属島とされ、薪炭<しんたん>採集のほか、伊島では牛の放牧、幸ノ小島は藻場<もば>として周辺で肥料用の海藻が採取された。黒島は夏季・冬季ともに季節風の影響を強く受ける地域で、特に台風来襲時には猛烈な南風に襲われる。そのため居住地はできるだけ風の影響が少ない場所が選ばれ、同時に屋敷及び隣接する畑地等の南側を中心に防風林が発達することとなった。防風林にはスダジイなど自然林を活用したものと、アコウなど意図的に植栽されたものが確認される。特に島南部の蕨<わらび>集落では、亜熱帯系の植物であるアコウが防風林として海側に植えられており、島に豊富な閃緑岩<せんりょくがん>の石で築かれた石垣の上にアコウの大樹の根が張る、特徴的な景観が展開している。このように,佐世保市黒島の文化的景観は、近世期の牧に起源を持つ畑地やアコウ防風林と石積みによる居住地、属島における生産活動など、独特の土地利用によって形成される価値の高い文化的景観である。
(文化庁の報道発表資料より転載。一部加筆)

五島市久賀島の文化的景観
ごとうしひさかじまのぶんかてきけいかん

五島市
ごとうし

ここだよ
長崎県 平成23年9月21日選定重文景29
 五島列島中南部に位置する久賀島では、島の外縁部を形成する標高2~300m級の山々から中央部の久賀湾に流入する河川が下流域に緩やかな傾斜の沖積地を形成しており、五島列島では珍しい棚田が営まれている。一方、島の外周は急峻<きゅうしゅん>な山々がそのまま海に沈み込む地形となっており、特に海流や季節風の影響を受けやすい島の西側には、急峻な海食崖<かいしょくがい>が発達している。久賀湾に面した緩傾斜地には棚田耕作を生業<なりわい>とする比較的規模の大きい集落が形成される一方、急傾斜地が卓越する外海側には小規模な集落が形成され、段々畑での耕作や漁業が営まれてきた。また、外海に面し季節風が当たる地域を中心にヤブツバキの自生地が卓越している。現在も島内に2箇所のヤブツバキ原始林が展開するほか、集落から離れた自生地とは別に居住地近傍や耕作地の周辺にヤブツバキが植栽され、古くから利用されてきた。特にヤブツバキの実を搾<しぼ>ったツバキ油生産は盛んで、整髪用・美容食用・燃料用など様々な利用が行われてきた。
 このように、五島市久賀島の文化的景観は、地形条件に応じて形成された集落及びその生活・生業の在り方、また島内に2箇所のヤブツバキ原始林をはじめ、外海側に発達するヤブツバキ林・集落近傍に植栽されたツバキ樹とその利用によって特徴付けられる、価値の高い文化的景観である。
(文化庁の報道発表資料より転載。一部加筆)


新上五島町北魚目の文化的景観
しんかみごとうちょうきたうおめのぶんかてきけいかん

新上五島町
しんかみごとうちょう

ここだよ
長崎県
松浦郡
平成24年1月24日選定重文景30
 五島列島最北部に位置する中通島<なかどおりじま>では、沿岸部の浸食地形に立地し漁業を主な生業<なりわい>とする集住形態の集落と、地滑り地形による比較的緩やかな斜面地に立地し主に農業を営む散村形態の集落といった対照的な集落形態が形成されている。
 越前や紀州から移住してきたとされる漁民は、加徳<かとく>と呼ばれる世襲制の漁業権を有し特権的に漁を行ってきた。現在は津和崎<つわざき>・小瀬良<こぜら>・立串<たてくし>の3集落において、定置網による沿岸漁業を中心に多様な魚種を捕獲している。
 一方、農業集落は、江戸時代後期に農地開拓・食糧増産のため主に大村藩より農民が移住したことに起源を持つ。開拓を効率的に行うため、イエワカレと呼ばれる独特の相続慣行により、居住地や農地を広げてきた。現在も主に甘藷<かんしょ>が栽培されており、収穫された甘藷は薄く輪切りにしたカンコロに加工される。カンコロの乾燥には木や雄竹<おだけ>で作られたヤグラが用いられ、ヤグラに隣接してカンコロを茹<ゆ>でるジロが設置される。自家消費用の甘藷はそのまま家屋の地下に設けられたイモガマに保存するなど、甘藷の栽培から加工・保存まで一連の生産に関わる施設が各戸単位で形成されている。
 このように新上五島町北魚目の文化的景観は、厳しい地形条件に適応し、農村及び漁村という対照的な形態をなす集落による価値の高い文化的景観である。

(文化庁の報道発表資料より転載。一部加筆)

求菩提の農村景観
くぼてののうそんけいかん
 
豊前市
ぶぜんし

ここだよ

福岡県 平成24年9月19日選定重文景31
 求菩提の農村景観は、周防灘<すおうなだ>に注ぐ河川沿いの狭隘<きょうあい>な谷間に共通して営まれた農耕・居住の土地利用の在り方を示し、この地域の里に住む人々と山との関係を典型的に表す文化的景観の事例である。
 天台修験<てんだいしゅげん>の聖地であった求菩提山<くぼてさん>(標高782m)の山中の行場をはじめ、修験者の生活の基盤となった山麓の村落・農地の姿を描いた18世紀後半の『豊刕<ぶしゅう>(州) 求菩提山絵図』とも照合できる点で貴重である。 求菩提山の堂舎群は失われて遺跡と化したが、岩峰<がんぽう>及び岩窟群<がんくつぐん>の位置・形姿は往時と変わらずに残され、山麓の鳥井畑<とりいはた>の村落及び棚田・茶畑などの農地も基本的な骨格・構造がほぼ変わることなく現在に継承されてきた。
 極めて精巧な給排水網の下に野面積<のづらづ>みの石積みにより区画された棚田の区域には、「ツチ小屋」と呼ぶ石積み擁壁から成る農作業用具の保管庫も点在し、修験者が伝えた石積みの技術の名残を示す独特の農地景観が見られる。村落には、豊前修験道の祭礼の流れを汲むお田植え祭をはじめ、季節の節目を成す伝統行事も伝えられている。
 このように、求菩提の農村景観は、近世に成立し、近現代にかけて、その本質を失うことなく緩やかに進化を遂げたこの地方の土地利用の基本的な骨格・構造を伝えており、我が国民の生活又は生業を理解する上で欠くことのできないものである。

(文化庁の報道発表資料より転載。一部加筆)

長崎市外海の石積集落景観 
ながさきしそとめのいしがきしゅうらくけいかん

長崎市
ながさき

ここだよ

長崎県 平成24年9月19日選定重文景32
 長崎市外海<そとめ>の石積集落景観は、西彼杵半島<にしそのぎはんとう>中部の出津川<しつかわ>流域で営まれる、近世から続く畑作を中心とした集落景観であり,結晶片岩<けっしょうへんがん>を主とする独特の地質によって形成された石積みを特徴とする。
 流域の河岸段丘面<かがんだんきゅうめん>及び山間部の斜面地では、17世紀初頭の甘藷<かんしょ>栽培の拡大に伴って斜面地の開墾<かいこん>が進み、近世後期にかけて山頂まで畑地が切り拓かれた。幕末に作成された絵図には、住居・畑地・墓地が一つの単位として点在する集落の様子が描かれており、こうした集落構造は現在も継承される。
 外海では、斜面地を開墾した際に出土した結晶片岩を用いて、土留めの石垣,防波・防風の石築地<いしついじ>、居住地の石塀、住居・蔵の石壁など多種多様の石積み構造物が築かれてきた。結晶片岩の石に赤土及び藁<わら>すさを練り込んで築いた伝統的な石壁である「ネリベイ」のほか,明治期にはパリ外国宣教会のマルク・マリー・ド・ロ神父によって、藁すさに代わり赤土に石灰を混ぜる練積<ねりづ>みの「ド・ロ壁」が導入され,現在もこうした石積み構造物が数多く築かれている。
 このように、長崎市外海の石積集落景観は,結晶片岩を主とする地質が特徴の地において、数多くの石積み構造物を築きつつ畑作を営んできた、この地域に特有の土地利用形態を示す文化的景観である。
(文化庁の報道発表資料より転載。一部加筆)


平成30年2月13日追加選定
 長崎市北西部に位置する西彼杵半島<にしそのぎはんとう>では、平地が少ないため、急斜面の水はけが良い土地を石積み構造物などで開拓して甘藷<かんしょ>栽培を生業<なりわい>とする集落が継承<けいしょう>されてきた。その中でも外海は中世後期にキリスト教が伝わり、その歴史文化が色濃く残る地域である。今回、既選定の地区北西側に隣接する「赤首<あかくび>・大野地区」を追加選定する。
(文化庁の報道発表資料より転載。一部加筆)

新上五島町崎浦の五島石集落景観 
しんかみごとうちょうさきうらのごとういししゅうらくけいかん

新上五島町
しんかみごとうちょう

ここだよ

長崎県
南松浦郡
平成24年9月19日選定重文景33
 中通島<なかどおりじま>北東部に位置する崎浦では、砂岩質の五島石<ごとういし>を用いた採石業及び石材加工業に基づく文化的景観が展開している。集落では生活用品や建築用材等に五島石が多用されており、運搬に便利な海岸部に展開した採石場跡を含め、独特の土地利用の在り方を示す数多くの痕跡が残されている。
 豊かな漁場が広がるこの地域では、近世まで捕鯨<ほげい>をはじめとする漁業が行われていた。幕末に沿岸捕鯨が徐々に衰退<すいたい>する一方で、長崎・平戸において建築用材のための石材需要が高まり、崎浦に多く露頭<ろとう>する砂岩がにわかに注目されるようになった。加工された石材は問屋を通じて広く流通したほか、集落内でも消費された。現在も、石碑・墓碑<ぼひ>,石臼<いしうす>等の生活用品、道路等の舗装材、家屋の地覆石<じふくいし>・神社の鳥居等の建築用材など、五島石を使って様々に加工された夥<おびただ>しい数の石材製品が集落内に見られ、大正8年(1919)に建造された頭ヶ島<かしらがしま>天主堂は五島石を用いた最も顕著<けんちょ>な建築である。
 このように、新上五島町崎浦の五島石集落景観は、幕末から近代にかけて、五島地方のみならず、長崎・平戸など西北九州一帯に流通した五島石及びその石材製品の生産地として特有の土地利用形態を示す文化的景観である。
(文化庁の報道発表資料より転載。一部加筆)

別府の湯けむり・温泉地景観 
べっぷのゆけむり・おんせんちけいかん

別府市
ぺっぷし

ここだよ
大分県 平成24年9月19日選定重文景34
 別府市では、西部の火山帯から東部の別府湾に向けて広がる火山麓扇状地<かざんさんろくせんじょうち>に、豊富な温泉資源を活用した生活・生業<なりわい>の在り方を示す文化的景観が展開する。
 高温の沸騰泉<ふっとうせん>はそのまま利用することができず、気液分離装置<きえきぶんりそうち>によって温泉水と温泉蒸気とに分けられ、温泉水は配管を通って集落へ、温泉蒸気は「湯けむり」として空中に高く放出される。
 別府古来の自然湧出泉による温泉地は「別府八湯」<ぺっぷはっとう>と総称され、近世後期までは農閑期<のうかんき>を中心に周辺の地域から湯治客<とうじきゃく>を集めた。近代になると,別府港の築港、鉄道・道路の整備により観光客が増加し、別府は一大観光都市へと発展した。その中でも鉄輪<かんなわ>温泉・明礬<みょうぱん>温泉では、近世の旅籠<はたご>・木賃宿<きちんやど>に起源を持つ宿泊業が現在も旅館・貸間<かしま>として継続しており、住民が組合制の下に管理・運営している共同浴場等とともに、地域生活における顕著<けんちょ>な温泉水の利用が見られる。また、近世の史料に記録される地獄釜<じごくがま>の蒸<む>し料理は現在でも行われているほか、明礬温泉では、石敷きの床に青粘土<あおねんど>を敷き詰めた藁葺<わらぶき>き小屋で湯の花が製造され、入浴剤として販売されるなど、温泉蒸気の利用も特徴的である。
 このように、別府の湯けむり・温泉地景観は、扇状地の随所<ずいしょ>から立ち上る湯けむりの下で営まれる、温泉資源の多面的な利用の在り方を示す文化的景観である。
(文化庁の報道発表資料より転載。一部加筆)


最上川の流通・往来及び左沢町場の景観
もがみがわのりゅうつう・おうらいおよびあらてざわまちばのけいかん

大江町
おおえまち

ここだよ

山形県
西村山郡
平成25年3月27日選定重文景35
 左沢<あてらざわ>は、置賜<おきたま>盆地と村山盆地とをつなぐ峡谷部に位置し、朝日山地の山間部を東流する月布川<つきぬのがわ>と楯山<たてやま>を境に北流から南流へ大きく変曲する最上川が合流する地点に展開する谷口集落である。近世に米沢藩の船屋敷<ふなやしき>が設置されるなど河岸<かし>が所在したことにより、山間部で産出された青苧<あおそ>などの取引を中心とする最上川舟運<しゅううん>によって町場が発達した。
 左沢における町場の発展は、大きく4期に分けられる。第1期は陸上交通の要衝<ようしょう>である楯山に山城<やまじろ>が設置された中世で、麓<ふもと>には現在も「元屋敷」<もとやしき>の地名が残るなど山城周辺に町場が展開していたと考えられる。第2期は河岸集落として栄えた近世で、小鵜飼船<こうかいぶね>から艜船<ひらたぶね>への物資の積み替え地となるなど、左沢は流通・往来の結節点として大いに栄えた。他方で、17世紀前半に左沢藩主となった酒井直次により小漆川城<こうるしかわじょう>の設置及び城下町の街立てが行われ、左沢は政治都市としても発達した。第3期は鉄道が敷設された近代で、それまで最上川水運を通じて全国とつながっていた流通が、陸上交通により村山盆地の山形・寒河江<さがえ>など近傍<きんぼう>の都市へと特化された。第4期は自動車の普及によりさらに陸上交通が発達した現在であり、昭和11年の大火を受けて、近世以来の地割りを継承しつつ道路拡張を行うなど、時代に応じた土地利用が行われている。
 このように左沢の町場景観は、最上川河畔<かはん>における政治都市と河岸集落という複合的な都市機能を示しつつ、中世から現代にかけての各時代の都市構造が重層した文化的景観である。

文化庁の報道発表資料より転載。一部加筆)

日根荘大木の農村景観
ひねのしょうおおぎののうそんけいかん

泉佐野市
いずみさのし

ここだよ

大阪府 平成25年10月17日選定重文景36
 大阪南部の泉州地方の平野部から、和泉山脈の燈明ヶ岳<とうみょうがだけ>(標高558m)を中心とする犬鳴山麓<いぬなきさんろく>にかけての地域には、中世の五摂家<ごせっけ>のひとつである九条家<くじょうけ>の荘園<しょうえん>に起源を持つ日根荘の農村地帯が広がる。その中でも、大木は犬鳴山に水源を持つ樫井川<かしいがわ>沿いの小さな盆地に位置し、紀州の粉河<こかわ>へと通ずる街道沿いに拓かれた水田及び村落が、荘園の名残を示す用水・地名などとともに、泉州地方の山間地における農耕・居住の良好な文化的景観を形成している。
 日根荘は、天福2年(1234)に立券<りっけん>され、天文年間(1532~1555)で維持された荘園である。16世紀初頭に日根荘へと下向した九条政基<くじょうまさもと>の『政基公旅引付』<まさもとこうたびひきつけ>により、当時の荘園内における農産物の品目が知られる。また、19世紀後半の『大木村絵図』等によると、現在の土地利用形態は近世期からほとんど変化していないことがうかがえる。
 日根荘大木の農村景観は、中世における摂関家<せっかんけ>の荘園に起源を持ち、和泉山脈における盆地の地形とも調和し、当時の土地利用の在り方を継承しつつ、近世から現代にかけて緩やかに進化を遂げた農村の文化的景観であり、我が国民の基盤的な生活又は生業を理解する上で欠くことのできないものである。
(文化庁の報道発表資料より転載。一部加筆)


蘭島及び三田・清水の農山村景観
あらぎじまおよびみた・しみずのそうさんそんけいかん

有田川町
ありだがわちょう

ここだよ
和歌山県
有田郡
平成25年10月17日選定重文景37
 有田川の上流域では、穿入蛇行<せんにゅうだこう>により形成された河岸段丘<かがんだんきゅう>が形成されており、広く水田耕作が行われている。その中でも、河川蛇行部へ弧状<こじょう>に張り出した段丘地形において棚田が展開する蘭島は、審美的<しんびてき>な観点からも価値が高い。中世の阿弖河荘<あてがわのしょう>に遡<さかのぼ>る当地において、現在に繋<つな>がる土地利用の基礎が築かれたのは、大庄屋笠松左太夫<かさまつさたゆう>が集落・農地開発を行った近世である。明暦元年(1655)には、有田川支流の湯川川<ゆかわがわ>に井関を設け、湯<ゆ>と称する灌漑<かんがい>水路網を整備することにより、水田化が進展した。それぞれの湯では「田人」<たど>と呼ばれる水利組合が組織されており、現在も部頭<ぶとう>(水利組合長)の下に水守<みずもり>が定められ、水路の補修・清掃・管理が共同で行われている。また、耕地が限られる当地では、畦畔<けいはん>や集落の後背斜面等も山畑に利用された。かつて和傘に用いられた保田紙<やすだがみ>の原料であるヒメコウゾのほか、シュロ・チャノキ・サンショウなど、特徴的な植生を確認することができる。このように、蘭島及び三田・清水の農山村景観は、有田川上流域に形成された独特の河岸段丘地形において営まれてきた農業及び山の利用による文化的景観である。
(文化庁の報道発表資料より転載。一部加筆)

酒谷の坂元棚田及び農山村景観
さかたにのさかもとたなだおよびのうさんそんけいかん

日南市
にちなんし

ここだよ
宮崎県 平成25年10月17日選定重文景38
  宮崎県日南市西部の山間地に位置する酒谷地区は、年間降水量が3000mmを超える多雨地帯であり、飫肥杉<おびすぎ>の豊かな林相が広く展開している。集落の起源は未詳だが、近世には郷士<ごうし>と呼ばれる足軽組軍団が畑地とともに山中に分散して居住していた。近代になると、人口の急激な増加に伴う食糧増産の必要から耕地整理組合が組織され、酒谷の坂元集落では昭和3年(1928)から昭和8年(1933)にかけて、従来の茅場<かやば>・秣場<まぐさば>に棚田が開かれた。棚田は、傾斜1/7の斜面地に、石積みで区画された3アールないし5アールの長方形の水田が整然と展開する。棚田への導水は約1.6km離れた2本の水系から水路を引いて行われており、棚田中央部を石積みの用排水路が貫いている。また、集落近傍は古くから飫肥杉の林地となっており、良質の船材として油津<あぶらつ>の港町等に移出された。このように、酒谷の坂元棚田及び農山村景観は、昭和初期の耕地整理事業により完成した石積みや用排水路を伴う長方形区画の棚田及び良質の船材として植林された飫肥杉林等で営まれる生業と、畑地及び果樹林等を伴う居住地における生活とによって形成された農山村景観である。
(文化庁の報道発表資料より転載。一部加筆)

長良川中流域における岐阜の文化的景観
ながらがわちゅうりゅういきにおけるぎふのぶんかてきけいかん

岐阜市
ぎふし

ここだよ

岐阜県 平成26年3月18日選定重文景39
 美濃山地の南端、濃尾<のうび>平野の北端の長良川中流域では古くから鵜飼が行われ、長良川堤外地には鵜飼屋地区の鵜匠宅<うしょうたく>を含む集落及び水運によって発展した問屋業による川原町<かわらまち>地区の伝統的町並みが文化的景観を形成している。
 また、長良川と金華山に挟<はさ>まれた扇状地<せんじょうち>では、中世末から近世に織田信長等によって総構<そうがまえ>を持つ岐阜城及び城下町が形成され、武家地・寺社地・町人地が形成された。落城後も長良川を介<かい>した物資集散地としての地の利を生かし、材木・和紙・糸等を扱う問屋業、提灯<ちょうちん>・団扇<うちわ>・傘<かさ>等の手工業<しゅこうぎょう>を中心とする商業に依拠<いきょ>した岐阜町が発展した。城下町に由来する総構の土塁<どるい>、水路、街路、町割り等の基本的な構造は、現在の土地利用にも踏襲<とうしゅう>されており、城下町由来の構造の中に残る町家等とともに文化的景観を呈<てい>している。
 このように、長良川中流域における岐阜の文化的景観は、長良川を中心とした鵜飼漁や問屋業等によって形成された文化的景観及び岐阜城下町の構造を基盤に発展形成された岐阜町の文化的景観が重層<じゅうそう>したものであり、我が国における生活又は生業<なりわい>の理解のため、欠くことのできないものである。
(文化庁の報道発表資料より転載。一部加筆)


東草野の山村景観
ひがしくさののさんそんけいかん

米原市
まいばらし

ここだよ

滋賀県 平成26年3月18日選定重文景40
 東草野は、滋賀県の北東部に位置する伊吹<いぶき>山地の西麓<せいろく>に所在し、姉川上流の谷部に形成された山村である。峠<とうげ>を介<かい>し、隣接する岐阜県旧坂内村や滋賀県旧浅井町<あざいちょう>等との流通・往来が古くから盛んであったことは、例えば県境を越えている「廻り仏」<まわりぼとけ>などの習俗<しゅうぞく>に表れている。
 当地は西日本屈指の豪雪地<ごうせつち>であり、冬季には集落内でも約3mに及ぶ積雪となる。そのため、民家はカイダレと呼ばれる長い庇<ひさし>を備えており、軒下<のきした>に積雪時も使用可能な作業場を確保するほか、敷地内に設<そな>えられたイケ・カワト等は消雪に用いられるなど、豪雪に対応した生活の在り方が認められる。当地の基本的な生業<なりわい>は農業であるが、甲津原<こうづはら>の麻織<あさおり>、曲谷<まがたに>の石臼<いしうす>、甲賀<こうか>の竹刀<しない>など、冬季を中心とした特徴的な副業が集落ごとに発達した。また、東草野の最南部に位置する吉槻<よしつき>は南北及び東西の交通路の結節点であり、行政施設・商店等が集積する中心地として機能してきた。
 このように、東草野の山村景観は、滋賀県北東部の姉川上流において、峠を介した流通・往来によって発達した景観地で、カイダレなど独特の設備を備えた民家形態や、集落ごとに発達した副業など、豪雪に対応した生活・生業によって形成された文化的景観である。
(文化庁の報道発表資料より転載。一部加筆)


宮津天橋立の文化的景
みやづあまのはしだてのぶんかてきけいかん

宮津市
みやづし

ここだよ

京都府 平成26年3月18日選定重文景41
 宮津天橋立の文化的景観は、宮津湾と阿蘇海<あそかい>とを隔<へだ>てる天橋立及びその南北に展開する文化的景観である。
 このうち、宮津湾西岸から阿蘇海北岸に位置する府中<ふちゅう>地区には、丹後国分寺跡<たんごこくぶんじあと>や条里制に遡<さかのぼ>る農地などが所在しており、古代丹後国府の所在地に比定される。中世から近世にかけて、当地が成相寺<なりあいじ>・籠神社<このじんじゃ>等による信仰の中心として機能したことは、16世紀初頭に雪舟<せっしゅう>が描<えが>いた『天橋立図』等によって示される。さらに、近代になるとケーブルカー等が整備され、土産物<みやげもの>・旅館街等の町並みが形成されるなど、観光拠点として発達した。
 他方で、国分<こくぶん>・小松・中野等の農業集落は旧道沿いに単列の街村形態を成しており、集落内の石積み水路には洗い物をするためのアライバが設<そな>えられている。また、阿蘇海ではかつてキンタルイワシと呼ばれたマイワシ漁が盛んであり。溝尻<みぞしり>の漁村には海に面して舟屋が連続するなど、特徴的な文化的景観が展開している。
 このように、宮津天橋立の文化的景観は、行政・信仰・観光の中心として発展してきた当地の歴史的重層性を示す土地利用の在り方と、宮津湾西岸及び阿蘇海北岸で営まれる農業・漁業による土地利用の在り方とが複合した文化的景観である。

(文化庁の報道発表資料より転載。一部加筆)

平成27年1月26日追加選定
 古代から丹後地方の中心地でもあるとともに、信仰地・景勝地として機能してきた文化的景観。今回、知恩寺<ちおんじ>を核とした天橋立信仰の中心地で、近世の四軒茶屋<しけんぢゃや>に遡<さかのぼ>る観光の中心地である文殊<もんじゅ>地区を追加選定するとともに、市町境変更に伴い、選定区域を一部解除し、新たに市域となった区域を追加選定する。
(文化庁の報道発表資料より転載。一部加筆)

生野鉱山及び鉱山町の文化的景観
いくのこうざんおよびこうざんまちのぶんかてきけいかん

朝来市
あさごし

ここだよ

兵庫県 平成26年3月18日選定重文景42
 但馬<たじま>と播磨<はりま>との境に位置する生野では、古くから鉱山開発が進められた。開坑は大同2年(807)と伝わるが、史料での初見は『銀山旧記』<ぎんざんきゅうき>であり、天文11年(1542)に但馬守護職<たじまのかみしゅごしょく>の山名祐豊<やまなすけとよ>が石見銀山<いわみぎんざん>から採掘・製錬技法を導入したとされている。江戸時代には口銀谷<くちがなや>・奥銀谷<おくがなや>等に灰小屋<はいふきごや>が立ち並び、生野の町は隆盛した。明治になると近代技術が導入され、昭和48年(1973)の閉山まで、我が国有数の鉱山として機能した。閉山後もスズの精錬及びレアメタルの回収が現在まで行われており、特にスズの精錬量は我が国有数の規模を誇る。
 生野市街地には、鉱業都市を示す要素が数多く分布している。かつて物資の輸送路として活躍したトロッコ道は、現在も市道として交通の軸線を形成している。また、製錬滓<せいれんさい>をブロック状に固めたカラミ石は、民家の土台や塀、水路など至る所で用いられている。かつて鉱山に関わる信仰として行われた山神祭は、現在はへいくろう祭等にその精神が引き継がれており、鉱山町における生活と密接に関わる習俗・伝統が、現在も継承されている。
 このように、生野鉱山及び鉱山町の文化的景観は、鉱山開発及びそれに伴う都市発展によって形成された文化的景観であり、現役の鉱業都市として生産活動及び祭等の習俗を継続しつつ、トロッコ道跡やカラミ石の石積みなど鉱業都市に独特の土地利用の在り方を示している。

(文化庁の報道発表資料より転載。一部加筆)

奥出雲たたら製鉄及び棚田の文化的景観
おくいずもたたらせいてつおよびたなだのぶんかてきけいかん

奥出雲町
おくいずもちょう

ここだよ
島根県
仁多郡
平成26年3月18日選定重文景43
 斐伊川<ひいがわ>の源流部に位置する奥出雲地域は、起伏<きふく>の緩<ゆる>やかな山地と広い盆地が発達しており、「真砂砂鉄」<まささてつ>と称される良質な磁鉄鉱<じてっこう>を多く含有<がんゆう>する地帯であることから、近世・近代にかけて我が国の鉄生産の中心地として隆盛を極め、「たたら製鉄」が栄えた。
 丘陵を切り崩し水流によって比重選鉱するという「鉄穴流し」<かんなながし>が広範囲に行われ、この鉱山跡地(鉄穴流し跡)では、後にその地形を活かして豊かな棚田が拓<ひら>かれた。
 江戸時代、松江藩は,有力鉄師(たたら経営者)のみに鈩株<たたらかぶ>(鈩経営権)を与え、安定経営を図ったため、国内の一大鉄生産地域となった。明治に入り、安価な洋鉄が大量に輸入されるようになったことなどから、たたら製鉄は次第に衰退<すいたい>し、大正末年には一斉廃業となった。その後、日本刀の材料となる「玉鋼」<たまはがね>が枯渇<こかつ>したことから、昭和52年(1977)にたたら製鉄が選定保存技術として復活している。
 このように、奥出雲たたら製鉄及び棚田の文化的景観は、たたら製鉄・鉄穴流し及びその跡地を利用した棚田によって形成されたものである。鉄穴横手<かんなよこて>(水路)及び鉄穴残丘<かんなざんきゅう>が点在する棚田が広がりをみせる農山村集落を、かつて鉄山<てつざん>(たたら製鉄用の木炭山林)であった山々が取り囲み、その一部で今なお、たたら製鉄が行われている景観地は、我が国における生活又は生業の理解のため欠くことのできないものである。

(文化庁の報道発表資料より転載。一部加筆)

菅浦の湖岸集落景観
すがうらのこがんしゅうらくけいかん

長浜市
ながはまし

ここだよ

菅浦の湖岸集落景観保存活用計画報告書
滋賀県 平成26年10月6日選定重文景44
 菅浦は、琵琶湖最北部の急峻な菅浦は、琵琶湖最北部の急峻<きゅうしゅん>な沈降<ちんこう>地形に営まれた集落である。鎌倉時代から江戸時代にかけての集落動向を記した『菅浦文書』<すがうらもんじょ>によると、永仁3年(1295)、菅浦は集落北西に所在する日指<ひさし>・諸河<もろこ>の棚田<たなだ>を、隣接する集落でる大浦<おおうら>と争い、以降150年余りにわたって係争が続いこと知られる。また、14世紀半ばには住民の自治的・地縁的結合に基づく共同組織である「惣」<そう>が、菅浦において既に作り上げられていたことが分かる。中世以来の自治意識及び自治組織は、時代に応じて緩<ゆる>やかに変化しながら、現在まで継承されている。
 菅浦の居住地は、西村及び東村に大きく二分され、それぞれ西の四足門<しそくもん>で集落の境界を表している。また、湖から集落背後の山林にかけて連続する地形の中で明確な集落構造が認められる。特にハマと呼ぶ湖岸の空間は、平地が狭小な菅浦において極めて有用であり、生産の場・湖上と陸上との結節点といった多様な用途が重層している。
 このように、菅浦の湖岸集落景観は、奥琵琶湖の急峻な地形における生活・生業<なりわい>によって形成された独特の集落構造を示す景観地である。中世の「惣」に遡<さかのぼ>る強固な共同体によって維持されてきた文化的景観で、『菅浦文書』等により、集落構造及び共同体の在り方を歴史的に示すことができる稀有<けう>な事例である。
(文化庁の報道発表資料より転載。一部加筆)


小菅の里及び小菅山の文化的景観
こすげのさとおよびこすげさんのぶんかてきけいかん

飯山市
いいやまし

ここだよ

長野県 平成27年1月26日選定重文景45
 小菅は、長野県北部の飯山盆地東縁に営まれる集落で、小菅山山麓の緩斜面上に広がる。集落を囲む山々ではブナ群落・ナラ群落等が卓越しており、それらはかつて薪炭材<しんたんざい>等に利用されたほか、集落内でもカツラ・ケヤキなどの樹木が植えられており、小菅神社の例大祭である「小菅の柱はしら松まつ行事」に用いられている。
 小菅山は7世紀前半に遡<さかのぼ>る修験<しゅげん>の山であり、戦国時代には北信から上越に及ぶ信仰圏を誇ったとされる。小菅神社の直線的な参道の両側に方形の区画を持つ坊院群が密集する古絵図が伝わっており、現在も、当地で産出する安山岩を用いた石積み等で区画された地割が、居住地及び耕作地として継承されている。
 小管では、山体崩壊により生じた湧水等を居住地に引き込み、カワ又はタネと称する池で受け、洗いもの・消雪等に利用している。また、集落北方の北竜湖<ほくりゅうこ>から用水を引き、居住地背後の水田・畑地の灌漑<かんがい>に利用している。水路の維持・管理など集落の共同作業はオテンマと称し、地域共同体の紐帯<ちゅうたい>として機能している。
 このように、小管の里及び小菅山の文化的景観は、小管山及びその参道沿いに展開した計画的な地割を持つ集落景観で、カワ又はタネと称する水利が特徴的な文化的景観である。

(文化庁の報道発表資料より転載。一部加筆)

大溝の水辺景観
おおみぞのみずべけいかん

高島市
たかしまし

ここだよ

滋賀県 平成27年1月26日選定重文景46
 大溝は琵琶湖北西岸で営まれる集落で、集落南部には湖岸砂州<さす>により琵琶湖と隔<へだ>てられた内湖<ないこ>の乙女ヶ池<おとめがいけ>が広がる。大溝は,古代北陸道の三尾<みお>駅及び湖上交通の主要湊である勝野津<かつのつ>が比定<ひてい>される交通の要衝<ようしょう>として機能してきた。戦国時代から江戸時代にかけて大溝城及び城下町が整えられ、乙女ヶ池と琵琶湖との間の砂州上に打下<うちおろし>集落が置かれた。明治初期の蒸気船就航、昭和初期の鉄道敷設<ふせつ>など大溝を取り巻く交通事情は変化してきたが、旧街道沿いに列村<れっそん>形態を成す集落構造は現在も継承されている。
 大溝の旧城下町区域では、近世に遡<さかのぼ>る古式上水道が現在も利用されている。水源地と高低差がない勝野井戸組合では埋設した水道管で各戸に配水し、大溝西側の山麓に水源を持つ日吉山<ひよしやま>水道組合では、分水のためにタチアガリと呼ばれる施設を設けている。他方で、打下集落では琵琶湖側に高波・浸水防止のための石垣を築いた。水草が繁茂<はんも>する乙女ヶ池には水田地先の個人所有地と水草の刈取りを入札で決めた共有地があり、琵琶湖内湖の共同利用の在り方がわかる。
 このように、大溝の水辺景観は、中・近世に遡る大溝城及びその城下町の空間構造を現在も継承する景観地で、琵琶湖及び内湖の水又は山麓の湧水ゆうすい>を巧<たく>みに用いて生活・生業<なりわい>を営<いとな>むことによって形成された文化的景観である。
(文化庁の報道発表資料より転載。一部加筆)

三角浦の文化的景観
みすみうらのぶんかてきけいかん

宇城市
うきし

ここだよ

熊本県 平成27年1月26日選定重文景47
 三角浦の文化的景観は熊本県中西部に位置し、三角ノ瀬戸に面して展開する。三角ノ瀬戸は水深が深く、湾内は比較的穏<おだ>やかで暴風・波浪等の影響を受けにくいことから、古代より八代海<やつしろかい>と島原湾とを結ぶ南北方向及び九州内陸部と天草諸島とを結ぶ東西方向の流通・往来の結節点として機能してきた。
 三角ノ瀬戸は変化に富んだ海岸地形を成しており、戦国時代に島津氏家老の上井覚兼<うわいかくけん>が和歌を詠<よ>むなど古くからの景勝地として知られてきた。近代になると小泉八雲<こいずみやくも>など文人墨客<ぶんじんぼっかく>が文学の舞台としたほか、熊本を本拠とする第六師団の保養地に指定され、現在も別荘が立地するなど、三角浦は保養都市として機能してきた。
 また,明治20年(1887)に内務省雇<やと>いのオランダ人技師ムルデルの設計により近代港湾が建設され、三角港は屈指の拠点港として隆盛した。築港と同時に計画的な市街地が整えられ、商業地区及び司法・行政地区等が設置された。道路・水路等から成る建設当初の都市構造を現在まで継承しながら,三角浦は港湾都市として機能してきた。
 このように、三角浦の文化的景観は、保養都市及び特に近代以降に大きく発展した港湾都市という2つの都市機能が複合した文化的景観である。

(文化庁の報道発表資料より転載。一部加筆)

佐渡相川の鉱山及び鉱山町の文化的景観
さどあいかわのこうざんおよびこうざんまちのぶんかてきけいかん

佐渡市
さどし

ここだよ

新潟県 平成27年10月7日選定重文景48
 相川は、標高約300mの山地から海成段丘<かいせいだんきゅう>を経て狭い海岸低地が続く地形上に位置する。
 17世紀初頭、相川で鉱脈<こうみゃく>が発見されると急速に鉱山開発が進んだ。慶長8年(1603)、佐渡代官に任じられた大久保長安<おおくぼながやす>は、上町台地<かみまちだいち>の尾根線上に幹線道路を敷き、沿道に大工町など職業別の町立てを行った。17世紀前半には、海岸沿いの下町<したまち>で埋め立てを伴う町立てが行われ、上町と下町とをつなぐ段丘崖<だんきゅうがい>に石段等が発達した。
 18世紀に金銀の産出量が激減すると、上町等に散在していた鉱業関係施設が佐渡奉行所内に集約された。他方で、商人の中には廻船業等で財を成す者も現れ、下町には蔵を伴う大規模な地割りの廻船問屋等が並んだ。近代には鉱山が三菱へ払い下げられ、上町には、間口が広い通りに面して庭を有する社宅も立地した。下町には、相川町役場等の公的機関が立地し、行政機能を持つようになった。現在も上町は各町家が短冊状<たんざくじょう>の地割りを継承<けいしょう>しつつ、通りに面した平屋構造を持ち、背後に段々と降りる吉野造りを成している。下町は旧街道沿いに展開する近世以来の地割りを継承しつつ、海岸部を埋め立て佐渡市役所支所等が配置され、行政の中心地機能を強化している。
 当該文化的景観は、鉱山地区の生産機能、上町地区の居住・行政機能、下町地区の流通・行政機能が、金銀採掘の盛衰<せいすい>に伴い、動的な関係を構築<こうちく>しつつ展開してきた相川の歴史的変遷<へんせん>を示す景勝地である。
(文化庁の報道発表資料より転載。一部加筆)


大沢・上大沢の間垣集落景観
おおざわ・かみおおざわのまがきしゅうらくけいかん

輪島市
わじまし

ここだよ

石川県 平成27年10月7日選定重文景49
 急峻<きゅうしゅん>な山が日本海に直接迫<せま>る能登半島北側は、海から強い季節風を受ける地域であり、多くの集落が内陸部に立地している。その中で、大沢・上大沢の集落は湾を成す低地に位置し、後背<こうはい>の狭<せま>い谷地の限られた傾斜面<けいしゃめん>に耕作地を有する。集落は平安時代以降は志津良荘<しつらのしょう>に属していたと考えられる。
 集落から離れた棚田<たなだ>では重労働を軽減<けいげん>するためにイナハザで稲を乾燥させてから運搬しているほか、海に面する集落の外周部には高さ4~5mの細いニガタケを垂直に立てて作った「間垣」と呼ばれる垣根を設置し季節風から家屋を守っている。現在でも稲作と並行して海藻採取等が続けられている。日本海に面した地域の半農半漁の生活様式の中で、里山の資源を耕作及び独特な形式の垣根として最大限に利用してきたことを示す大沢・上大沢の文化的景観は我が国の生活生業を知る上で欠くことのできないものである。

(文化庁の報道発表資料より転載。一部加筆)

京都岡崎の文化的景観
きょうとおかざきのぶんかてきけいかん

京都市
きょうとし
京都市左京区
きょうとしさきょうく

ここだよ

京都府 平成27年10月7日選定重文景50
 京都東山の麓<ふもと>、白川<しらかわ>の扇状地<せんじょうち>に位置する岡崎は、平安時代には院政が執<と>り行われた白河殿<しらかわどの>のほか、六勝寺<りくしょうじ>の大伽藍<だいがらん>及び園池が造営された地域である。応仁の乱の後、農業を主体とする地域となり、岡崎村,聖護院村<しょうごいんむら>として都市近郊農業が成立した。近世には白川の支流が灌漑用水<かんがいようすい>として流れていたことが分かる。近代には、殖産興業策<しょくさんこうぎょうさく>の一つとして琵琶湖疏水<びわこそすい>が建設され、水運,水力発電等によって京都の近代化の礎<いしずえ>を築<きず>くとともに、平安遷都1100年紀念祭及び第4回内国勧業博覧会が開催された。 また、南禅寺界隈<かいわい>では別荘の開発が進み、疏水の水を活用した庭園群が形成された。博覧会跡地には岡崎公園,京都市美術館等の文化施設が建設され、京都を代表する文教地区として現在に至る。
 京都岡崎の文化的景観は、白川の扇状地の利点を最大限に活用し、古代から中世には寺院群、中世から近世には都市近郊農業、近代には琵琶湖疏水の開削<かいさく>に伴い文教施設や園池等が展開するなど、大規模土地利用を経た京都市街地周縁部における重層的な土地利用変遷<へんせん>を現在に伝えるものである。

(文化庁の報道発表資料より転載。一部加筆)

奥内の棚田及び農山村景観 
おくうちのたなだおよびのうさんそんけいかん

松野町
まつのちょう

ここだよ
愛媛県北宇和郡 平成29 年2月9日選定重文景51
  四国南西部では、四国山地と多くの支脈<しみゃく>が東西方向に走るため、西側沿岸部はリアス式海岸である一方、内陸部は無数の山地が広がり平坦地がほとんどない。他方、四万十川<しまんとがわ>はこの地域の中心を源流部として蛇行<だこう>しながら土佐湾へ向けて東流する。奥内の棚田<たなだ>及び農山村景観は、四万十川の支流広見川上流部の奥内川沿いの山間部に位置する、江戸時代中期以降に形成された棚田を含む4つの集落から成る農山村景観である。古文書<こもんじょ>等の調査からは、地形条件に沿って、谷部を水田、尾根部を屋敷地、屋敷地周辺を畑として継続して利用されてきたことが確認され、その結果、ヒメアカネ及びアキアカネ等の赤トンボ類を含む貴重な生態系が現在も維持されている。また、山間部ではアラカシ、コジイ、コナラ等の天然生林<てんねんせいりん>が広範囲で形成されており、地域本来の希少<きしょう>な山林景観を望むことができる。
 平成11年に農林水産省の「日本の棚田百選」に認定されてからは全戸加入の保存会が結成され、体験学習会等の棚田保全活動が積極的に進められている。
 奥内の棚田及び農山村景観は、四国南西部の四万十川源流域の山間部を開墾<かいこん>した小規模な棚田群から成る文化的景観であり、四国山間部の厳しい地形条件の中で江戸時代以来現在まで継続されてきた生活又は生業<なりわい>を知る上でも重要である。

(文化庁の報道発表資料より転載。一部加筆)

阿蘇の文化的景観・阿蘇北外輪山中央部の草原景観 
あそのぶんかてきけいかん・あそきたがいりんざんちゅうおうぶのそうげんけいかん

阿蘇市
あそし

ここだよ
  
熊本県阿蘇市 平成29 年10月13日選定重文景52
 阿蘇市では,北外輪山及び中央火口丘の北斜面に大規模な草地が広がり、それぞれ阿蘇谷の平地へ向けて下るにつれて斜面は林地、山裾は居住地、平地は耕作地が広がっている。平安時代の『延喜式』<えんぎしき>に阿蘇での馬生産を示す「牧」の記述があるように、阿蘇の草地は、千年以上にわたり、牛馬の放牧及び飼料用の草を得る場、耕作地に施<ほどこ>す緑肥<りょくひ>及びたい肥を供給する場、時には居住地の家屋の屋根及び生活用具の材料を供給する場等として継続的に利用されてきた。
 草地環境のみで生き残るヒゴタイ・ヤツシロソウ・ハナシノブ等の大陸系遺存植物が生息するネザサ・ススキ群落、シバ群落の草地が広がっており、全国的にも貴重な生態系が育<はぐく>まれている。
 阿蘇神社の西方に位置する霜神社では、少女が火焚殿<ひたきでん>にこもって焚<た>き木を燃やし続けて霜除けの祈願を行う火焚き神事が継承されており、阿蘇の気候風土と生活又は生業<なりわい>が密接な関係を有してきたことが理解できる。阿蘇神社参道沿いの商店街では、阿蘇谷の豊富な湧水<ゆうすい>を活用した商店街整備等の自主的な取り組みが継続的に実施されており、景観保全及び地域活性化が図られている。
 阿蘇北外輪山中央部の草原景観は阿蘇の文化的景観を構成する要素として重要である。
(文化庁の報道発表資料より転載。一部加筆)


阿蘇の文化的景観・南小国町西部の草原及び森林景観 
あそのぶんかてきけいかん・みなみおぐにまちせいぶのそうげんおよびしんりんけいかん

南小国町
みなみおぐにまち

ここだよ

熊本県阿蘇郡 平成29 年10月13日選定重文景53
 南小国町は小国郷の南半分を占め、東部のくじゅう山系涌蓋山麓<わいたさんろく>から連なる標高400m以上の斜面地に位置する。筑後川源流域にあたるため、北外輪山から流れ出た湯田川,中原川<なかばるがわ>,馬場川,志賀瀬川,満願寺川,田の原川<たのはるがわ>等の中小河川が町域を北流する。谷底の居住地周辺に狭い耕作地が広がり、斜面上は林地,谷が深いため居住地から離れた尾根筋高台に草地が広がる傾向があり、大規模な草地は涌蓋山周辺と阿蘇外輪山から延びる台地上に残る。
 江戸時代には、井手<いで>(水路)の開削<かいさく>、灌漑<かんがい>整備によって畑から水田への転換が行われた。また、筑後川下流の日田<ひた>から木材の買い付けが行われた地域であり、戦後の拡大造林によって、さらに草地や雑木林からスギ林への転換が進み、林地は小国杉を中心とした林業景観が広がる。中原川沿いには、かつて阿蘇一円から牛馬を伴って畜産農家が参拝に訪れたという馬頭観音を祀<まつ>る神社が残っており、往時の馬の供養と結び付いた景観を知ることができる。田の原川沿いの黒川温泉は、開業してから地域が一体となって、街並みの色彩統一、雑木の植栽、乱立看板等の撤去を実施し、自然景観及び和風旅館を尊重した景観保全による地域づくりを進めていることで著名である。
 南小国町西部の草原及び森林景観は、阿蘇の文化的景観を構成する要素として重要である。
(文化庁の報道発表資料より転載。一部加筆)

阿蘇の文化的景観・涌蓋山麓の草原景観
あそのぶんかてきけいかん・わいたさんろくのそうげんけいかん

小国町
おぐにまち

ここだよ

熊本県阿蘇郡 平成29 年10月13日選定重文景54
 小国町は小国郷の北半分を占め、北外輪山北側斜面の標高300m以上の起伏のある斜面地に位置し、筑後川源流の杖立川<つえたてがわ>が北西の日田方向へ流れる。谷底の居住地周辺に狭い耕作地が広がり、斜面上は林地,谷が深いため居住地から離れた尾根筋高台に草地が広がる傾向があり、大規模な草地は町東部の涌蓋山<わいたさん>周辺に残る。
 筑後川下流の日田から木材の買い付けが行われた地域であり、明治6年(1873)にはさらに多くのスギ・ヒノキを運ぶ必要が生じたため、杖立川の浚渫<しゅんせつ>工事が行われた記録が残っている。現在は小国杉の植林を中心とした林業景観が広がる。小国杉の起源は江戸時代に遡<さかのぼ>ると言われており、挿<さ>し木で生育する樹種であり、強度及び艶<つや>があるため優秀な木材となる。
 涌蓋山麓では、九重山<くじゅうさん>を熱源とする温泉が多数存在し、至る所で温泉の蒸気が噴き出しており、黒菜<くろな>と呼ばれる伝統的な葉物野菜の生産、温泉熱を生かした発電・ハウス栽培・調理等が積極的に行われている。
 涌蓋山麓の草原景観は、阿蘇の文化的景観を構成する要素として重要である。
(文化庁の報道発表資料より転載。一部加筆)


阿蘇の文化的景観・産山村の農村景観 
あそのぶんかてきけいかん・うぶやまむらののうそんけいかん

産山村
うぶやまむら

ここだよ

熊本県阿蘇郡 平成29 年10月13日選定重文景55
 産山村は、阿蘇山とその北東に位置する九重山<くじゅうさん>の火山帯が複合する地域に位置する。九重山麓では、かつて九州が中国大陸と陸続きであったことを示すヒゴタイ、野焼きによって守られてきたキスミレ等の希少植物を確認することができ、貴重な自然環境及び生態系が育まれている。
 山麓の山吹水源<やまぶきすいげん>から流れる産山川と池山水源から流れる玉来川<たまらいがわ>が小さな谷を作りながら南東方向に流れるが、その2つの谷あいを中心に産山村が広がり、2つの川は大野川となって別府湾に注ぐ。山吹水源の下流にも傾斜地が多いため、江戸時代に棚田が開かれ、水路及び石橋群が築造<ちくぞう>された。扇棚田<おうぎたなだ>は、山吹水源から南方に約1.3km導水した標高820mの位置に開墾<かいこん>された約3haの棚田であり、現在も16枚の水田が維持されている。
 昭和40年代には阿蘇の広大な草地を対象とした大規模草地改良事業と広域農業開発事業により、草地酪農及び肉用牛の低コスト生産のための飼料基盤整備が行われた。現在、阿蘇の草地で放牧されるあか牛は役牛<えきぎゅう>として育成されてきたものを品種改良した種であり、その生産は産山村の代表的な産業となっている。
 産山村の農村景観は、阿蘇の文化的景観を構成する要素として重要である。

(文化庁の報道発表資料より転載。一部加筆)

阿蘇の文化的景観・根子岳南麓の草原景観 
あそのぶんかてきけいかん・ねこだけなんろくのそうげんけいかん

高森町
たかもりまち

ここだよ

熊本県阿蘇郡 平成29 年10月13日選定重文景56
 高森町は、中央火口丘<ちゅうおうかこうきゅう>の南東に位置し、阿蘇五岳<あそごがく>のうち山頂の凹凸<おうとつ>が際立<きわだ>つ根子岳がよく見えるため町の象徴となっている。南郷谷<なんごうだに>では、白川<しらかわ>を中心として、両岸の河岸段丘<かがんだかきゅう>を棚田及び段々畑、その南北を居住地として、白川の北側集落は中央火口丘、南側集落はカルデラ壁<へき>を草地として利用してきた。
 中央火口丘では緩斜面<かんしゃめん>に広めの草地及び南郷檜<なんごうひのき>の林地が広がる一方、外輪山では急斜面が多いため小規模な草地が多い。南郷檜は、昭和30年頃に高森町にて育成方法が確認されたヒノキの優良品種である。江戸期に藩の御用木<ごようぼく>として植えられ、同様な方法で育てられたヒノキのある神社には、巨木となっているものが認められる。
 高森・色見<しきみ>地区は、江戸時代には熊本藩の行政単位であった高森手永<たかもりてなが>の中心地として栄え、現在も熊本市街地から高千穂地方へ通じる交通の要所である。現在。国鉄廃線後は第三セクター南阿蘇鉄道の終点となっており、駅周辺では南郷谷の豊富な湧水<ゆうすい>を利用した酒蔵等がある商店街が広がっている。
 根子岳南麓の草原景観は、阿蘇の文化的景観を構成する要素として重要である。

(文化庁の報道発表資料より転載。一部加筆)

阿蘇の文化的景観・阿蘇山南西部の草原及び森林景観 
あそのぶんかてきけいかん・あそさんなんせいぶのそうげんおよびしんりんけいかん

南阿蘇村
みなみあそむら

ここだよ
熊本県阿蘇郡 平成29 年10月13日選定重文景57
 南阿蘇村は、南郷谷<なんごうだに>の西4分の3を占め、カルデラ床<しょう>を中心に広がる。外輪壁斜面<がいりんかべしゃめん>は内側に向かって急峻<きゅうしゅん>な地形をなし山頂付近はナラ,カシ,ケヤキ,ヤマザクラ等の天然林となっている。南郷谷では、白川水源<しらかわすいげん>や塩井社水源<しおいしゃすいげん>等の数多くの湧水<すいげん>がみられる一方、火山灰等の堆積層<たいせきそう>が厚く乏水性<ぼうすいせい>の土壌<どじょう>が広がっている。よって、白川を中心として、両岸の河岸段丘<かがんだんきゅう>を棚田及び段々畑、その南北を居住地として、白川の北側集落は中央火口丘、南側集落はカルデラ壁<へき>を草地として利用してきた。
 江戸時代には、熊本藩から南郷中用水方定役<なんごうちゅうようすい・ほうじょうやく>に任<にん>ぜられた片山嘉左衛門<かたやまかざえもん>が、湧水や白川の豊富な水を利用するために、南郷谷の久木野<くぎの>地区に大小の井手<いで>(水路)を開削<かいさく>し、その半生を水利事業にささげた。その後も、片山家が四代にわたり南郷の水利事業にかかわって計6本の疏水群<そすいぐん>が開削<かいさく>されており、近代以降も、圃場<ほじょう>整備や用水路整備により畑作から水田への転換が進められた地域である。
 南阿蘇村西側(旧長陽村<きゅうちょうようむら>付近)では、かつて熊本市街地から阿蘇山上への入口として「阿蘇参り」の参拝者が湯治<とうじ>をかねて一週間ほど、自炊<じすい>・宿泊を行っていた時期があり、当地には地獄温泉,垂玉温泉<たるたまおんせん>と呼ばれる著名な温泉地が広がる。
 阿蘇山南西部の草原及び森林景観は、阿蘇の文化的景観を構成する要素として重要である。

(文化庁の報道発表資料より転載。一部加筆)

阿蘇の文化的景観・阿蘇外輪山西部の草原景観 
あそのぶんかてきけいかん・あそがいりんざんせいぶのそうげんけいかん

西原村
にしはらむら

ここだよ

熊本県阿蘇郡 平成29 年10月13日選定重文景58
 西原村は、西外輪山の稜線<りょうせん>西側及び立野火口瀬<たてのかこうせ>の南側に広がる。外輪山の稜線上には俵山<たわらやま(標高1095m)、その西には火山活動により形成された大峰火砕丘<おおみねかさいきゅう>及び高遊原<たかゆうばる>台地があり、鳥子川<とりこかわ>、木山川<きやまがわ>等の小河川が西流する。カルデラ内よりも温暖であるが、「まつぼり風」と呼ぶ冷たい東風が俵山周辺から村域に吹き降ろすため、耕作条件は厳しい。阿蘇の他地域と同様、俵山を含め標高の高い外輪山の斜面は主に草地として利用されてきたほか、台地には居住地と耕作地が広がる。
 高遊原台地は、水はけが良く畑作が発達した歴史を持つが、村からは中世の阿蘇神社改築時に合掌材<がっしょうざい1>や磨き柱<みがきばしら>等の良質な木材が提供された記録が残るほか、江戸時代には熊本藩の惣庄屋<そうしょうや>であった矢野 甚兵衛<やのじんべえ>によって、大切畑<おおぎりはた>ため池・堤の造成,水田開発等が行われた。大切畑ため池は、昭和期に高さ23mのアースダムとして改修され、水田・畑地,防火用のため池・ダムとして、重要な役割を継続的に果たしてきた。平成28年(2016)の熊本地震では決壊の恐れがあるため、周辺住民に避難勧告が出され,布田川断層<ふたがわだんそう>が直近を通っていることが確認されたが、地域の歴史風土及び生活の象徴として、早急<さっきゅう>な復旧が計画されている。
 阿蘇外輪山西部の草原景観は、阿蘇の文化的景観を構成する要素として重要である。

(文化庁の報道発表資料より転載。一部加筆)

最上川上流域における長井の町場景観
もがみがわじょうりゅういきにおけるながいのまちばけいかん

長井市
ながいし

ここだよ

山形県 平成30年2月13日選定重文景59
 山形県南西部の最上川上流左岸の朝日連峰支脈である葉山連山と最上川上流右岸の出羽丘陵<でわきゅうりょう>の一部に囲まれた長井盆地の中心に位置する長井の町場は、中世以前からの門前町及び宿場町などの性格が複合した2つの在郷町<ざいごうまち>である宮村と小出村を起源とする。新潟や庄内・出羽三山方面へ向かう旧街道が交差する交通の要衝<ようしょう>であり、それぞれの村では宮村館や白山館が政治的拠点となり、商いの中心となる宮の十日町、小出のあら町が物資の集散地として長井の町場の発展を牽引<けんいん>した。特に、最上川舟運期<しゅううんき>には、宮村に米沢藩の船着場、小出村には商人衆による船着場が設置され、公的な青苧蔵<あおそぐら>や上米蔵<じょうまいぐら>が置かれて、置賜地方<おきたまちほう>西部の物資の集散地・商業地として流通・往来の中心となった。江戸時代後期に描かれた絵図には、館跡の周辺に役人が居住し、町人が現在のあら町や本町などの通り沿いに居住する様子が描かれており、在郷町としての役割を果たしつつ商人の町としても発展したことが窺<うかが>える。現在も本町,大町,高野町,十日町,あら町などでは、商人が居住した通り沿いに間口が狭く奥行きの深い短冊状<たんざくじょう>の地割りが並び、その中を水路が流れ、店・住宅・蔵と続く敷地利用を確認することができる。このように最上川西岸の街道に沿って商家群
などが点在する長井の町場景観は、江戸時代の最上川舟運に由来する文化的景観として重要である。

(文化庁の報道発表資料より転載。一部加筆)

葛飾柴又の文化的景
かつしかしばまたのぶんかてきけいかん

葛飾区
かつしかく

ここだよ

東京都 平成30年2月13日選定重文景60
 柴又地域は東京都葛飾区の東端、江戸川右岸に位置する。柴又地域には古代から人々が生活し、水陸交通の結節点・中継地点であった。近世初期に現在の地に開かれた帝釈天題経寺<たいしゃくてんだいきょうじ>は、18世紀後半の板本尊<いたほんぞん>の発見を機に江戸からの参拝客が急増した。近代以降も、鉄道網の整備により門前はますます多くの人々でにぎわい、昭和の初期には参道沿いにまとまりのある景観が形成された。また、19世紀には柴又用水が開削<かいさく>され、20世紀前半には金町浄水場が開設された。
 葛飾柴又の文化的景観は、古代から続く人々の生活や往来を全体の基底としながら,近世初期に開基された帝釈天題経寺と近代以降に発展したその門前の景観を中心に、それらの基盤となった農村の様子を伝える旧家や寺社などの景観がその周囲を包み、さらにその外側に、19世紀以降の都市近郊の産業基盤や社会基盤の整備の歴史を伝える景観が広がっている。また、水路の痕跡や道などもよく残っている。以上のように、葛飾柴又は、地域の人々の生活,歴史,風土などによって形成され、それらを現在に伝える重要な景観地である。
(文化庁の報道発表資料より転載。一部加筆)

智頭の林業景観
ちずのりんぎょうけいかん

智頭町
ちずちょう

ここだよ

鳥取県八頭郡 平成30年2月13日選定重文景61
 中国山地を背景とした山間地において、江戸時代から続く人工林とその森林に囲まれた山村集落、旧街道から成る林業景観である。樹齢約350年と伝わる慶長スギと名付けられた大木が現在も残っている。江戸時代に山林の減少が原因とされる大洪水や飢饉<ききん>などの被害が相次いだため、鳥取藩の管理のもと災害対策と産業振興としてスギの植林が盛んに進められた。智頭の林業にとって最も重要であったのが、積雪地帯であるこの地に生息していた天然スギを利用して明治期において育苗<いくびょう>技術が確立されたことであった。この技術確立により、明治期に植林された100年を超えるスギ人工林が豊富に残っており、その後の大正時代から戦後の造林期の植林も多い。また、林業を生業<なりわい>として暮らしてきた芦津<あ しづ>集落は茅葺<かやぶき>民家や土蔵などが多く現存し,集落を取り囲む森林は、林業集落ならではの景観を形成し、森林資源で財を得た石谷家<いしたにけ>住宅を中心とした宿場町も当時から現在に至る往来の面影を残す歴史的景観を形成している。さらに木材の運搬手段とした千代川<せんだいがわ>,森林鉄
道,旧街道も往時の生業の姿を垣間<かいま>見ることができる。このように林業という中心的産業を通じて,森林・山村集落・宿場町・流通往来景観など多様性に富んだ景観が形成され、
我が国における中山間地における造林の典型的な林業景観として重要である。
(文化庁の報道発表資料より転載。一部加筆)

伊庭内湖の農村景観
いばないこののうそんけいかん

東近江市
ひがしおうみし

ここだよ
滋賀県 平成30年10月15日選定 重文景62
 湖東平野中央部に位置する伊庭内湖,水路が発達した集落と周辺の水田,繖山<きぬがさやま>の一峰である伊庭山<いばやま> からなる。伊庭集落は、琵琶湖最大の内湖であった大中<だいなか>の湖<こ>に流入する伊庭川の三角州上の微高地<びこうち>に形成された集落であるが、内湖の干拓<かんたく>を経<へ>て、現在は伊庭内湖と呼ばれる大中の湖西端部,須田川となった小中の湖北端部に接する。集落東の繖山の豊かな湧水を源流とする伊庭川が集落中央を西へ流れ、縦横<じゅうおう>に発達した水路を介して水田に分水し伊庭内湖に注ぐ。近世、集落は現在の小字に継承される独立性の高い七つの町で構成されており、町の境界の多くは主要な水路と重複することが確認できる。水路の水は農業のみならず、各敷地から水路に延びる階段状のカワトを介し、魚の畜養<ちくよう>など生活の中で利用されている。自動車の普及以前は舟運<しゅううん>が中心で、水路を日常生活の主要経路とする屋敷構えが行われた。土地を最大限に利用するため、水路の石積み直上に建てられた「岸建ち」と呼ばれる建造物も特徴である。伊庭山から神輿<みこし>を引きずり下ろし、集落を経由し伊庭内湖まで巡行する伊庭祭では、かつては水路を経路としていた。
 伊庭内湖の農村景観は、琵琶湖岸における水の利用及び居住の在り方を知る上で欠くことのできないものとして重要な景観地である。

(文化庁の報道発表資料より転載。一部加筆)

北大東島の燐鉱山由来の文化的景観
きただいとうじまのりんこうざんゆらいのぶんかてきけいかん

北大東村
きただいとうそん

ここだよ
平成30年10月15日選定重文景63
 北大東島は沖縄本島東方約360kmに位置する隆起珊瑚礁<りょうきさんごしょう>を起源とする地形を持つ南洋の離島であり、明治期に入って開拓が始まった歴史を持つ。特に、化学肥料の原料となる燐<りん>を多く含むグアノ(鳥糞石)が広く堆積<たいせき>していたことから、大正時代から戦後直後にかけて燐鉱石採掘<りんこうせきさいつく>が盛んに行われた。現在も島の北西部に位置する西港周辺では、採掘場,トロッコ軌道,燐鉱石貯蔵庫,船揚げ場等の燐鉱石採掘に関連する一連の生産施設が国内唯一残り、当時の社宅及び福利厚生施設等の生活関連施設が住宅群や民宿として継続的に利用されている。これらの施設では、珊瑚が風化して生成されたドロマイトの白い切石が多用されており、独特の景観を呈<てい>している。現在の北大東島の主産業はサトウキビ生産であるが、技術発展とともに近海漁業も盛んになりつつあり、西港周辺ではサトウキビ畑・
ため池が広がる一方、往時の施設を利用した魚市場及び水産加工施設が点在する。日本列島南方の特殊な風土によって形成された離島において、大正時代から戦後直後にかけて燐鉱採掘が行われていたこと及びその後の産業変遷<へんせん>を知る上で重要な景観地である。
(文化庁の報道発表資料より転載。一部加筆)


宇和海狩浜の段畑と農漁村景観 
うわかいかりはまのだんばたとのうぎょそんけいかん

西予市
せいよし

ここだよ★
愛媛県 平成30年11月16日選定答申重文景64
 愛媛県南西部に位置する狩浜は、宇和海に面するリアス海岸の入江の集落で、近世の狩浜浦を引き継ぐ。元は鰯漁<いわしりょう>を営<いとな>む漁村であったが、その浮き沈みを農業で補<おぎな>う中、甘藷<かんしょ>や麦から櫨<はぜ>,養蚕<ようさん>へと作物を転換してきた。現在はみかん栽培を主要な産業とし、漁業も入江の利点を生かした真珠養殖等が行われている。
 当地では、近世の鰯漁と、近代の養蚕業の隆盛を通じて人口が増え、山腹に畑地を広げ、入江,居住地,段畑,山林が連なる壮大な景観が形成されてきた。急斜面に広がる段畑は、所々に露頭する石灰岩<せっかいがん>などを用いて農民が築いてきたものであり、幾段<いくだん>にも重なる灰白色<かいはくしょく>の石垣<いしがき>がみかんの緑や橙<だいだい>に彩<いろど>られて際立つ眺<なが>めを成す。
 このような景観は、春日神社の秋祭りが地域の結びつきを保ち、また、昭和50年頃から進められている有機農業がまちづくりへと繋<つな>がる中で維持されてきた。
 黒潮の影響を受ける愛媛県南西部のリアス海岸における土地利用を示し、また風土に根ざした斜面地農業の展開を伝え、我が国における生活や生業<なりわい>の理解に欠くことのできないものとして重要である。
(文化庁の報道発表資料より転載。一部加筆)









                         


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