昭和50年の文化財保護法の改正により、周囲の環境と一体化して歴史的な風致(景観などのおもむきがある様子)を形成している伝統的な建造物群を、新しいカテゴリー(分野)の文化財として保存する「伝統的建造物群保存地区」制度制定によるものです。
重要伝統的建造物群保存地区・重要文化的景観 選定までの主な流れ
①各市町村が国に対して申請を行う
②国の文化審議会が、国として特に価値が高いと判断された地区を「重要伝統的建造物群保存地区」又は「重要文化的 景観」に指定するよう、文部科学大臣に答申する
③文部科学大臣は、これを受けて、指定物件の名称、所在地、区域を官報に告示する。(官報での告示日が正式な選定日となる)
【文化審議会答申から官報告示までは1~2ヶ月程かかる】
④文部科学大臣は、当該市町村に指定書を交付する
⑤指定区域の保存(建物や景観などの修景・整備)に対して国・県が支援を行う
令和3年6月19日現在、伝統的建造物群保存地区は、全国で126ヶ所が指定されています。(文化審議会答申等含む)
東北地方 | 関東地方 | 中部地方 | 近畿地方 | 中国地方 | 四国地方 | 九州地方 |
青森県 | 茨城県 | 新潟県 | 三重県 | 鳥取県 | 徳島県 | 福岡県 |
岩手県 | 栃木県 | 富山県 | 滋賀県 | 島根県 | 香川県 | 佐賀県 |
宮城県 | 群馬県 | 石川県 | 京都府 | 岡山県 | 愛媛県 | 長崎県 |
山形県 | 埼玉県 | 福井県 | 大阪府 | 広島県 | 高知県 | 熊本県 |
秋田県 | 千葉県 | 山梨県 | 兵庫県 | 山口県 | 大分県 | |
福島県 | 東京都 | 長野県 | 奈良県 | 宮崎県 | ||
神奈川県 | 岐阜県 | 鹿児島県 | ||||
静岡県 | 沖縄県 | |||||
愛知県 |
都市名・地域名 | 県名 郡名 |
名所・旧跡・観光スポット |
元町,末広町 (函館市) もとまち, すえひろちょう (はこだてし) 函館国際観光コンベンション協会 ここだよ★ 保存計画 |
北海道 | 伝建地区:函館聖ヨハネ教会,カトリック元町教会,函館ハリストス正教会,東本願寺函館別院,亀井勝一郎生誕の家,日本基督教団函館教会,北方歴史資料館,函館市旧イギリス領事館,元町公園,函館市写真歴史館,旧函館区公会堂,市立函館博物館郷土資料館,函館市文学館,東浜桟橋,北島三郎記念館,函館市北方民族資料館,箱館高田屋嘉兵衛資料館,旧開拓使書籍庫,金森美術館バカラコレクション,北海道第一歩の碑,赤レンガ倉庫群 伝建協加盟(港町) 函館市元町末広町伝統的建造物群保存地区 (伝建1・はこだてしもとまちすえひろちょう) 平成1年4月21日選定 函館山山麓から港へ向う斜面地に広がる西部地区の東端に位置し、基坂から旧函館区公会堂の一画、さらにハリストス正教会の一画を経て大三坂を下り、港際の煉瓦倉庫群の一画に至る、延べ約1.5kmのコの字形の道筋に沿った町並み。道の折れ曲がる景観上の要所にそれぞれ性格の異なる大きくて目立つ建物群があり、それらを結ぶ道沿いには、さまざまな形式の住宅が建ち並び、全体として港町らしい町並みを作っている。 |
仲町 (弘前市) なかちょう (ひろさきし) 弘前観光コンペンション協会 弘前の和風建築 ここだよ★ |
青森県 | 伝建地区:旧梅田家住宅,旧伊東家住宅,旧岩田家住宅,サワラ垣,仲町緑地公園 伝建協加盟(武家町) 弘前市仲町伝統的建造物群保存地区 (伝建2・ひろさきしなかちょう) 昭和53年5月31日選定 弘前城公園北側の東西約650m、南北約200mの範囲。地割りは碁盤割で、武士住居遺構が旧姿を残し、道路境及び敷地境のサワラ垣(一部黒板塀)は黒塗りの薬医門と合わせて侍町の風情を残している。 |
中町 (黒石市) なかまち (くろいしし) 黒石観光協会 ここだよ★ |
伝建地区:中町こみせ通り,高橋家住宅,鳴海家住宅,西谷家住宅(こみせ美術館),中村亀吉酒造,旧岩谷歯科医院,旧松の湯,津軽黒石こみせ駅,黒石ゆかりの作曲家私設資料館 伝建協加盟(商家町) 黒石市中町伝統的建造物群保存地区 (伝建3・くろいししなかまち) 平成17年7月22日選定 東西約170m、南北約260mの範囲で、規模の大きな町屋が残り、その全面には連続して庇<ひさし>を張り出した「こみせ」と呼ばれる現在のアーケードのような通路を設けている。町屋の主屋<しゅおく>は主として切妻造妻入の二階建とし、二階正面に出格子窓を設け、全面のこみせは冬期には正面の柱間に板戸や障子戸を落とし込み、雪や風の吹き込みを避ける構造となっている。 |
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城内諏訪小路 (金ケ崎町) じょうないすわこうじ (かねがさきちょう) ここだよ★ 保存計画 |
岩手県 | 伝建地区:鉤形・枡形の道路,坂本家住宅,大沼家住宅,三好家住宅,佐藤家住宅,菅原家住宅,笹井家住宅,鈴森家住宅,旧大沼家住宅,伊藤家住宅,坂本家住宅,添田家住宅,大松沢家庭園,遠藤家庭園,細目家庭園,金ケ崎城二の丸,金ケ崎神社,白糸まちなみ交流館,
番屋跡,泰養寺 伝建協加盟(武家町) 金ケ崎町城内諏訪小路伝統的建造物群保存地区 (伝建4・かねがさきちょうじょうないすわこうじ) 平成13年6月15日選定 東西約690m、南北約980mの範囲で、川や樹木帯などに囲まれている。街路構成及び屋敷割はほぼ近世以来の構成を残している。敷地内の入口近くに板倉、奥に主屋<しゅおく>や主屋の勝手口周辺に便所、風呂、小屋などの附属屋が配置されている。 |
村田 (村田町) むらた (むらたまち) 村田町観光物産協会 ここだよ★ 保存計画 |
宮城県 | 伝建地区:商人やましょう記念館,升貞商店,大沼酒造店,かど書店,山専酒店,丸恵化粧品店,カネショウ商店,ヤマニ 伝建協加盟(商家町) 村田町村田伝統的建造物群保存地区 (伝建5・むらたまちむらた) 平成26年9月18日選定 村田町は宮城県南部の内陸部に位置し、仙台市の南に接する。村田町のほぼ中央、盆地の北端に保存地区がある。 15世紀に村田城が築かれ、江戸時代には、伊達家の家臣が領主として館<やかた>を構える。館の東に領主の家臣たちの武家地、そしてその東に町人地が配された。資料では、遅くとも18世紀後期には、町人地が成立していたことが確認でき、このうちの本町<もとまち>と荒町<あらまち>が保存地区に当たる。江戸時代には、上方<かみがた>や江戸との交易を行って、紅花の集散地として栄え、明治には繭<まゆ>の集散地、その後も仙南地方の商業地として栄えた。 村田町村田伝統的建造物群保存地区は、近世から近代にかけて商業地として栄えた東西約180m、南北約470mの範囲とする。 敷地は、南北道路に面して短冊形<たんざくがた>に割られ、敷地の北に建物を寄せて建て、敷地の南を敷地内通路とする。道路に面しては、北に寄せて店が建てられ、その南に門が建てられる。その結果、道路に面して、店と門が交互に並ぶ、特徴的な町並みとなっている。また、道路に面する店は店舗専用建築とし、その背後に居住施設である主屋<おもや>を別棟で建てることも特徴的である。 店の多くは土蔵<どぞう>造りとする。店は厚い土壁で覆<おおわれ、窓や扉は、段々を付けて外部から火が入らないように工夫された掛子<かけご>塗りとし、壁面には平たんな瓦を貼<は>って目地を漆喰<しっくい>で盛り上げた、なまこ壁が多用され、重厚かつ意匠的<いしょうてき>にも発展した形式とする。一階は店舗として使用され、前方を土間とし、後方に床<ゆか>を張って帳場<ちょうば>とし、土間と帳場の境には、上下にスライドして開閉をする摺揚戸<すりあげど>を残すものもある。門は、軒を支える部材などに彫刻を施<ほどこ>し、戸口<こぐち>の上には欄間<らんま>を飾り、意匠的にも見所が多い。 村田町村田伝統的建造物群保存地区は、近代になって意匠的に発展した当地方特有の店と門が交互に並ぶ特徴ある町並みを良く残し、さらには、敷地内の主屋、土蔵、納屋<なや>などが良く残り、特徴ある歴史的風致を良く残し、我が国にとって価値が高い。 (文化庁の報道発表資料より転載。一部加筆) |
角館 (仙北市) 【旧角館町】 かくのだて (せんぼくし) 田沢湖角館観光協会 ここだよ★ |
秋田県 | 伝建地区:石黒家,青柳家(角館歴史村),岩橋家,河原田家,小野田家,小野崎家(公民館・武道館),平福記念美術館,樺細工伝承館,角館武家屋敷資料館,武家屋敷通り,角館の枝垂桜 伝建協加盟(武家町) 仙北市角館伝統的建造物群保存地区 (伝建6・せんぼくしかくのだて) 昭和51年9月4日選定 武士居住地区のうち、表町上丁160m、同下丁240m、東勝楽丁330mの道路の両側の町並みで、上位階級武士の居住地域。伝統的建造物の主屋は8棟あり、外構として門、板塀、生垣、柴垣などが巡らされている。春、シダレザクラが美しい。 |
増田 (横手市) ますだ (よこてし) 横手市観光協会 ここだよ★ 保存計画 |
伝建地区:七代佐藤養助漆蔵資料館,勇駒酒造,日の出酒造,林旅館,栗谷金物店,石田薬局,満福寺 伝建協加盟(在郷町) 横手市増田伝統的建造物群保存地区 (伝建7・よこてしますだ) 平成25年12月27日選定 横手市は、秋田県南部の山間部に位置し、横手市街地の南方に増田地区が位置する。 元和<げんな>元年(1615)の一国一城令により、益田城は廃城となるが、その後、増田城周辺の町は佐竹藩南部の流通拠点として栄える。明治維新後も商業地として発展し、生糸<きいと>、煙草<たばこ>、酒の生産流通、水力発電や鉱山などの産業によって、増田の繁栄は大正期に最高潮に達する。 横手市増田伝統的建造物群保存地区は、在郷町として繁栄した南北約420m、東西約350mの範囲で、町の中には、中世以来の水路が通り、現在の町割はほぼ近世末期の状況を踏襲している。 敷地は、通りに沿って短冊<たんざく>型に割られ、通りに面して、店舗兼住宅である主屋<しゅおく>をおく。その背後に、主屋<しゅおく>と接続する鞘付土蔵<さやつきどぞう>を接続して、豪雪に対応するための長大な内部空間をつくる。そして、その背後の庭に独立した蔵や附属屋<ふぞくや>をおき、敷地背面が裏通りに接すると敷地では、通りに面して門、板塀<いたべい>を構える。 主屋は主として、切妻造妻入<きりづまづくりつまいり>、二階建とし、正面に奥行き一間<いっけん>程度の下屋<げや>を設ける。正面は軒を大きく出すのが特徴的で、妻では化粧梁<けしょうばり>を何段も重ね、妻から突出する巨大な梁首<はりくび>を飾るものもある。通り土間では、側面におおきな窓を設けて採光を確保し、明るく特徴ある空間をつくる。 鞘付土蔵の土蔵部分は、地元では内蔵<うちぐら>と呼ばれ、太い柱を密に立て、壁は光沢<こうたく>が出るまで磨<みが>き上げられた漆喰<しっくい>塗りとし、木部は漆<うるし>塗りとし、内部に座敷をしつらえるものもある。また、開口部の扉および腰を保護する漆塗りの木枠の繊細な組子<くみこ>の意匠<いしょう>も、土蔵を飾る要素となっている。 保存地区は、近世期に整備された地割<ちわり>や水路を良く残し、近代になって意匠的に発展した当地方特有の切妻造妻入の町家形式の主屋にくわえ、鞘付土蔵等の特徴的な伝統的建造物が良く残り、近世末期から近代にかけて繁栄した在郷町<ざいごうまち>の歴史的風致を良く伝え、我が国にとって価値が高い。 (文化庁の報道発表資料より転載。一部加筆) |
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大内宿 (下郷町) おおうちじゅく (しもごうまち) 大内宿観光協会 ここだよ★ 保存計画 |
福島県 | 伝建地区:茅葺屋根の家屋(約40棟),大内宿町並み展示館,子安観音,高倉神社,桜木姫の墓 伝建協加盟(宿場町) 下郷町大内宿伝統的建造物群保存地区 (伝建8・しもごうまちおおうちじゅく) 昭和56年4月18日選定 東西約200m、南北約500mの範囲で、旧街道沿いに40軒ほどの茅葺屋根の建物が建ち並んでいる。神社や寺院が町並みと一体となって保存され、屋敷の地割りも旧態をとどめている。主として藩政時代から明治末期までに建てられた茅葺屋根の建物群は、四方を山々に囲まれ、南会津の風土に良く調和している。 |
前沢 (南会津町) まえざわ (みなみあいづまち) 南会津町観光協会 舘岩観光センター ここだよ★ |
伝建地区:前沢曲家資料館,前沢ふるさと公園(曲家・水車小屋・バッタリ小屋・花しょうぶ園) 伝建協加盟(山村集落) 南会津町前沢伝統的建造物群保存地区 (伝建9・みなみあいづまちまえざわ) 平成23年6月20日選定 南会津町は、福島県南会津郡の最南に位置し、前沢は町南端の舘岩<たていわ>地域に立地する山村集落であり、舘岩川の西岸に集落地を開く。 前沢村は、古絵図と伝承から、近世初期には成立していたとされ、江戸時代には、南山御蔵入地<みなみやまおくらいりち>と呼ばれる天領に属していた。19世紀初頭編纂の『新編会津風土記』は、村内に13軒の家と鹿島神社、薬師堂、前沢寺<ぜんたくじ>があったと伝える。 明治40年の大火で、家屋のほとんどが焼失したが、この大火後、数年のうちに復興されたのが現在の集落で、主屋<おもや>13棟の再建及び2棟の新築は、南会津地方及び新潟地方の大工13人によりなされたと伝わる。 保存地区内には、東西と南北の古道が交わり、この辻を中心に家屋が建ち、その周囲を細かな地割の畑地が取り巻く。 伝統的な主屋<しゅおく>は茅葺で、中門造<ちゅうもんづくり>もしくは直屋<すごや>である。中門造の主屋は、母屋<おもや>を寄棟造<よせむねづくり>、中門を切妻造<きりづまづくり>とするのが基本で、母屋の棟を南北に置き、南側を上手とし、下手に中門を突き出すものが多い。軒高を高くし、壁面は柱や梁<はり>、束<つか>、密に通した貫<ぬき>を化粧とし、華やかな木組<きぐみ>を見せるのが特徴で、直屋も同様の特徴を示す。 南会津町前沢伝統的建造物群保存地区には、明治末期から昭和前期に建てられた中門造と直屋の茅葺民家が混在して建ち、これらの建築群が周辺の耕地、山林、河川等と共に、会津地方南部の雪深い山間部に独特な農村集落の歴史的風致を形成し、我が国にとって価値が高い。 (文化庁の報道発表資料より転載。一部加筆) |
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小田付 (喜多方市) おたづき (きたかたし) 喜多方観光物産協会 ここだよ★ |
伝建地区:会津うるし美術博物館,佐牟乃神社,出雲神社,御蔵稲荷神社,満福寺,夢心酒造,会津喜多方蔵々亭,高橋酒店,小原酒造,二十間蔵, 伝建協加盟(在郷町・醸造町) 喜多方市小田付伝統的建造物群保存地区 (伝建10・きたかたしおたづき) 平成30年8月17日選定 喜多方市は、福島県の会津地方北部に市域を置く。小田付<お たづき>は、市域中央部を南流する田付川<たづきがわ>の東岸における微高地に位置し、西岸の小荒井<こあらい>とともに、市の中心市街地を成す。 現在の小田付は、天正10年(1582)に蘆名<あしな>氏重臣の佐瀬種常<さぜたねつね>が町割を行い、近村から定期市を移したことに始まる。会津では、天正18年(1590)から約100年間、半石半永<はんこくはんえい>による徴税<ちょうぜい>が行われたため、領主は農村部の商品流通を促<うなが>すために主要郷村に定期市の開催を許可し、これを統制した。小田付村でも市が賑わい、豊富な伏流水<ふくりゅうすい>を背景に酒・味噌・醤油の醸造<じょうぞう>が早くから行われた。やがて、富裕商人による常設的な商売や近在農民による市場外の直商<じかあきない>が増えると、定期市は衰退<すいたい>し、近世中期から後期にかけて店が並ぶ町並が形成・拡大し、小田付村は在郷町<ざいごうまち>としての性格を強めた。明治元年(1868) の戊辰戦争<ぼしんせんそう>で大きな被害を受けたが、それ以前の地割<ちわり>を引き継ぎ復興し、明治中期以降は会津三方道路<あいづさんぽうどうろ>や鉄道の開通により販路を広げ、今日<こんにち>まで会津の要地を成してきた。 佐牟乃<さむの>神社から南に延びる表通りの両側に短冊状<たんざくじょう>の敷地を並べ、この両側町の各街区中央には中堀 <なかぼり>と呼ばれる水路が南北に通る。このような地割は、明治4年頃の「岩代国耶麻郡<いわしろのくにやまぐん>小田付村絵図」(喜多方市蔵)に描かれる状況を良く引き継ぐ。 敷地には、表通りに面して店、その奥に主屋<しゅおく>や蔵座敷<くらざしき>を配し、中堀より後に附属屋や業務施設を建てる。店は、切妻造<きりづまづくり>、平入<ひらいり>を基本とし、正面に下屋<げや>を設ける。土蔵造の店は店蔵と呼ばれ、店蔵,蔵座敷,家財蔵,穀蔵,醸造蔵等、用途や規模が異なる多様な土蔵造の建物が群として残ることが、当地の特徴の一つである。 喜多方市小田付伝統的建造物群保存地区は、天正年間の町割に始まり、定期市により会津北方<ほっぽう>の交易<こうえき>の中心として近世に発展を遂<と>げた在郷町である。酒・味噌・醤油の醸造業も盛んになり、近代以降も会津の要地としての地位を保ちながら、近世末期の地割の上に店蔵など多様な土蔵が並ぶ特徴的な歴史的風致を形成し、我が国にとって貴重である。 (文化庁の報道発表資料より転載。一部加筆) |
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真壁町真壁 (桜川市) まかべちょうまかべ (さくらがわし) ここだよ★ |
茨城県 | 伝建地区:桜川市歴史民俗資料館,旧樺穂小学校校舎,出川家住宅,猪瀬家住宅,塚本家住宅,根本医院,土生都<はぶつ>家住宅,村井醸造,伊勢屋旅館,高久家住宅,潮田家住宅,密弘寺不動堂,塚本茶舗,木村家住宅(小田部生花店),入江家住宅,旧真壁郵便局,川島書店,川島洋品店,山中家住宅,三輪家住宅(藤谷履物店),星野家住宅,村上家住宅,市塚紀夫家住宅,平井家住宅,土谷家住宅,密弘寺,神武神社,十二社神社,貴船神社,天神社 伝建協加盟(在郷町) 桜川市真壁伝統的建造物群保存地区 (伝建11・さくらがわしまかべ) 平成22年6月29日選定 東西約500m、南北約450mの範囲で、東から南に連なる筑波山系を背に、西側へ緩やかに下る傾斜地に広がる。 桜川市真壁町は、真壁城(国指定史跡)に付属した集落に起源を持ち、町割もその頃のものを継承しつつ、遅くとも慶長20年(1615)までには成立していたと考えられる。笠間藩の支配となった後は、城に代わって陣屋が置かれ、周辺地域の物産が集散する在郷町として発展し、北関東及び東北地方への木綿販売の拠点としても繁栄した。 江戸時代は、陣屋を中心とし、東西の延びる4本の主要な通りに沿って5町が形成され、周囲を藪<やぶ>や柵<さく>によって画<かく>されていた。町並みは茅葺家屋が主体であったとみられるが、天保8年(1837)の大火後は、蔵造<くらづくり>の町家が次第に普及していった。近代には陣屋が廃され、跡地西半が改変を受けたが、近世初頭以来の町割は現在も良く残されている。 仲町<なかまち>と下宿町<しもじゅくちょう>を南北に結ぶ「御陣屋前通り」に蔵造の町家が集中し、仲町や上宿町<かみじゅくちょう>には、真壁造<しんかべづくり>の町家や平屋建の住宅などが残り、敷地の奥には煉瓦造<れんがづくり>や石造の蔵も残る。間口の広い敷地では主屋<しゅおく>脇に薬医門<やくいもん>や袖蔵<そでくら>を建てて塀を巡らすなど、多様性のある町並み景観がみられる。 桜川市真壁伝統的建造物群保存地区は、戦国期を起源としつつ、近世初頭に成立した町割を良く残す。町並みには、近世後期から近代にかけての多様な伝統的建造物が残り、筑波山北麓に栄えた在郷町の歴史的風致を今日に良く伝え、我が国にとって価値が高い。 (文化庁の報道発表資料より転載。一部加筆) |
嘉右衛門町 (栃木市) かうえもんちょう (とちぎし) 栃木市観光協会 ここだよ★ |
栃木県 | 伝建地区:岡田記念館,代官屋敷,岡田家翁島別邸,旧理髪店,舘野家住宅,油伝味噌,ヤマサみそ,神明神社,庚申塔,旧日光例幣使街道,平柳河岸,嘉右衛門橋 伝建協加盟(在郷町) 栃木市嘉右衛門町伝統的建造物群保存地区 (伝建12・とちぎしかうえもんちょう) 平成24年7月9日選定 栃木市は、栃木県の南部に位置する。嘉右衛門町は、市の中心部にある旧栃木宿の北木戸の外にあたり、岡田嘉右衛門によって開発されたとされる嘉右衛門新田村を起源とする。貞享2年(1685)から旗本畠山氏<はたもとはたけやまし>の知行地<ちぎょうち>となり、畠山氏は都賀<つが>郡内の知行地を管轄するために、元禄2年(1689)に陣屋を設けた。 嘉右衛門町の西には巴波川<うずまがわ>が南北に流れ、川に平行して南北の道が通り、この通りが日光例幣使街道<にっこうれいへいしかいどう>として整備される。嘉右衛門町は日光例幣使街道に沿って敷地割りされ、江戸時代から商家が軒を連ねていた。 保存地区は、東西約320m、南北約650mの範囲で、概<おおむ>ね天保<てんぽう>年間(1830~43)の絵図に見られる家並みを基本とする。保存地区では、通りに面して主屋<しゅおく>を建て、その背後に蔵等の附属屋を並べる。主屋は、店舗部と住居部から構成される。店舗部は通りに面し、平屋建又は二階建とする。切妻造、瓦葺のものが多く、正面に下屋<げや>を張り出す。住居部は、店舗部の背面に接続し、敷地の長手方向に沿って棟を置き、瓦葺を基本とする。このほか、店舗部の正側面にパラペットを立ち上げて洋風の外観とするものもあり、変化のある町並みを形成する。 栃木市嘉右衛門町伝統的建造物群保存地区は、日光例幣使街道に沿って形成された敷地割りを良く残し、江戸時代末期から近代にかけて建築された、主屋や土蔵など伝統的建造物が残り、街道沿いに発展した在郷町の特色ある歴史的風致を伝え、我が国にとって価値が高い。 (文化庁の報道発表資料より転載。一部加筆) |
赤岩 (中之条町) 【旧六合村】 あかいわ (なかのじょうまち) 中之条町観光協会 ここだよ★ |
群馬県 | 伝建地区:湯本家住宅,赤岩地区養蚕農家群,蔵,石垣,上の観音堂,毘沙門堂,向城の観音堂,赤岩神社,大黒様,東堂,水車小屋,長英の隠れ湯,赤岩養蚕の里展示館 伝建協加盟(山村・養蚕集落) 中之条町六合赤岩伝統的建造物群保存地区 (伝建13・なかのじょうまちくにあかいわ) 平成18年7月5日選定 平成22年12月24日名称変更(官報告示・平成23年1月1日より適用) 六合村は、群馬県の西北部、三国山脈の南麓に位置する。六合村の南端に位置する赤岩は、白砂川<しらすながわ>左岸の河岸段丘にある。水田が少なく、農耕地の多くを畑が占め、麻や山仕事により近世には生計が営まれた。赤岩で養蚕<ようさん>が始められた時期は明確ではないが、明治初頭には前橋に繭<まゆ>が出荷されており、麻とともに主要な生産品であった。 保存地区は東西約1070m、南北約930mの範囲である。白砂川に並行して南北に走る通りと、集落の中央付近で交差するナカセギの道が骨格を形成し、これらに面して屋敷地が連続する。集落は、緩やかな傾斜地に石垣を築き屋敷地を造る。農作業を行う前庭を中心に、主屋<しゅおく>と蔵、小屋などを周囲に配置する。主屋は、切妻造平入<きりづまづくりひらいり>の2階建が大半を占めるが、3階建も見られる。1階は居室で入口から背面まで続く土間と床上に分かれ、2階は間仕切のない一室で養蚕の作業場として使われた。 六合村赤岩伝統的建造物群保存地区は、河岸段丘に屋敷地や農耕地をつくる山村集落で、近世の地割を残し、そこに養蚕の発展とともに成立した主屋を伝えるとともに、石垣や農耕地、宗教施設、さらに養蚕や生活と密接に結びついた山地など周辺環境と一体となった歴史的風致をよく伝えており、我が国にとって価値が高い。 (文化庁のプレス発表資料より転載。一部加筆) |
本町 (桐生市) ほんちょう (きりゅうし) 桐生観光協会 ここだよ★ |
伝建地区:桐生市有鄰館<きりゅうしゆうりんかん>,一の湯,森合資会社事務所,平田邸,旧曽我織物新工場,玉上薬局,旧書上商店,矢野本店,桐生天満宮,宝船神社,機神神社,酒屋小路 伝建協加盟(製織町) 桐生市桐生新町伝統的建造物群保存地区 (伝建14・きりゅうしきりゅうしんまち) 平成24年7月9日選定 桐生市は群馬県の東端中央部に位置し、市域はみどり市を挟み東西二つの区域からなる。 観応<かんおう>元年(1350)、桐生氏は桐生川をさかのぼった谷部に柄杓山城<ひしゃくやまじょう>を築き、その後、徳川家康の領地となり、当時の久方村<くぼうむら>と荒戸村<あらとむら>の一部が開拓され、新たな町が建設されたとされる。町立てにあたっては久方村にあった天満宮が現在地に遷<うつ>され、その南に一丁目から六丁目で構成される町が形成され、この町は桐生新町と呼ばれた。以降、桐生の町はこの町筋を中心に発展した。 桐生の経済を支えたのは織物業であり、正保<しょうほう>3年(1646)に織物を換金するための市いちが天満宮に立つようになり、その後、六町内で市が開かれるようになった。近代に入り絹綿繻子<けんめんしゅす>が桐生を代表する織物となり、大正期から昭和初期に最盛期を迎える。 保存地区は、東西約260m、南北約820mの範囲であり、天満宮と一丁目と二丁目に当たる。 敷地の構成は、通りに面して建物もしくは塀を建てる。通りに面する建物は店舗専用の建築、店舗付住宅に加え、事務所建築も見られる。さらに、借家として長屋が建てられる場合もある。このように通りに面して様々な種別の建築が建ち並ぶことが、町並みの特徴のひとつである。敷地は通りに直行しないため、建築物の壁面線が雁行<がんこう>することも特徴である。 伝統的な町家まちや建築に加え、近代以降の事務所建築や洋風建築も見られる。蔵は、土蔵造が伝統的な形式であるが、近代以降に石造、煉瓦造<れんがづくり>、鉄筋コンクリート造のものもあり、大正期から昭和初期にかけては、ノコギリ屋根の工場が建てられ、近代になっても織物業で繁栄した歴史を伝えている。 桐生市桐生新町伝統的建造物群保存地区は、近世初頭に形成された町並みを良く残し、特徴ある敷地利用形態をもち、主として近代以降の多種多様な伝統的建造物が色濃く残り、製織町として発展した歴史的風致を良く残し、我が国にとって価値が高い。 (文化庁の報道発表資料より転載。一部加筆) |
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川越 (川越市) かわごえ (かわごえし) 小江戸川越観光協会 ここだよ★ 保存計画 |
埼玉県 | 伝建地区:大沢家住宅,岡家住宅,旧小山家住宅(蔵造り資料館),滝島家住宅,原家住宅,宮岡家住宅,小谷野家住宅,平岩・水飼両家住宅,服部家住宅,小島家住宅,小林家住宅,田中家住宅,松崎家住宅,山崎家住宅,長島家住宅,あさひ銀行川越支店,旧第八十五銀行,時の鐘,法善寺,川越まつり会館 伝建協加盟(商家町) 川越市川越伝統的建造物群保存地区 (伝建15・かわごえしかわごえ) 平成11年12月1日選定 町人町を中核にした南北約430mの範囲で、表通りに面して巨大な鬼瓦と箱棟を持つ切妻・平入・二階建ての黒漆喰塗りの店蔵を構え、その奥に座敷、離れ座敷、蔵などを棟分けして配置している。この他、近代洋風建築物も存在している。 |
佐原 (香取市) 【旧佐原市】 さわら (かとりし) 水郷佐原観光協会 ここだよ★ |
千葉県 | 伝建地区:伊能忠敬旧宅,伊能忠敬記念館,三菱館(佐原町並み交流館),中村屋乾物店,中村屋商店(土蔵の博物館),福新呉服店(タイムスリップ博物館),小堀屋本店,正文堂書店,旧油惣商店,正上(さわらシネマチック博物館),樋橋(ジャージャー橋),小野川 伝建協加盟(商家町) 香取市佐原伝統的建造物群保存地区 (伝建16・かとりしさわら) 平成8年12月10日選定 香取街道と小野川沿いが十字状に交差する東西約400m、南北約500mの範囲で、香取街道沿いは日常雑貨と蔵は、比較的小規模で切妻平入りの二階造りが多いのに対し、小野川沿いは、比較的大規模で寄棟妻入りのものが多い。また、洋風建築物も見られる。 |
宿根木 (佐渡市) 【旧小木町】 しゅくねぎ (さどし) 佐渡観光協会 宿根木を愛する会 ここだよ★ |
新潟県 | 伝建地区:清九郎家,金子屋,三角家<さんかくいえ>,軒下飾りのある家,柴田収蔵生家,三崎道場・称光寺,白山神社,世捨小路,佐渡国小木民俗博物館,宿根木体験学習館 伝建協加盟(港町) 佐渡市宿根木伝統的建造物群保存地区 (伝建17・さどししゅくねぎ) 平成3年4月30日選定 海に向って緩やかに傾斜する狭い平坦地に100軒ほどの建築物がひしめくように建ち、その間を迷路のような細い道や路地が通っている。江戸時代は廻船基地として栄え、船主や舟大工職人たちが住んでいて、現在でもその面影を随所に残している。 |
山町筋 (高岡市) やまちょうすじ (たかおかし) 高岡市観光協会 ここだよ★ |
富山県 | 伝建地区:菅野家住宅,筏井家住宅,井波屋仏壇店,土蔵造りのまち資料館(旧室崎家住宅),塩崎家住宅,富山銀行本店 伝建協加盟(商家町) 高岡市山町筋伝統的建造物群保存地区 (伝建18・たかおかしやまちょうすじ) 平成12年12月4日選定 東西約600m、南北約90mの範囲で、町屋は2階建,切妻造,平入,瓦葺で、1階下屋の鉄柱,窓枠,持送り,天井等に見られる洋風意匠も特徴のひとつ。また、レンガ造りや木造モルタル造の洋風建築も見られる。 |
金屋町 (高岡市) かなやまち (たかおかし) 高岡市観光協会 ここだよ★ |
伝建地区:高岡市鋳物資料館,南部鋳物所,金森藤平商事,ふじた洋品店,西尾金網,山田商店,神妙寺,宗泉寺,最勝寺,金屋緑地 伝建協加盟(鋳物師町) 高岡市金屋町伝統的建造物群保存地区 (伝建19・たかおかしかなやまち) 平成24年12月28日選定 高岡市は、富山県の北西部に位置する。前田利長は高岡城の外側にあたる千保川<せんぼがわ>西岸に、砺波郡西部金屋<となみごおりにしぶかなや>から七人の鋳物師<いもじ>を招き、東西50間、南北100間の土地を与えた。この拝領地<はいりょうち>を中心として金屋町が成立する。 元和<げんな>元年(1615)、高岡城は廃城となり、城下町は一時衰退するが、三代利常は高岡を商業の町として再興するため、町政組織の改善や商業振興を図る。こうした中で鋳物師は諸役免除され、生活用品や用具といった鋳物<いもの>製造を行ってきた。 保存地区の中央を南北に金屋町通りが縦断し、江戸期から昭和初期までに建てられた町家が密度高く残る。 敷地は短冊形<たんざくがた>で、道路に面して主屋<しゅおく>を建て、主屋背面の中庭をはさんで土蔵が建ち、さらにその背後に作業場が置かれる。作業場で火災が発生した際に主屋への延焼を防ぐための工夫とされる。 主屋は真壁造<まかべづくり>として、切妻造平入<きりづまづくりひらいり>で桟瓦葺<さんがわらぶき>を基本とする。正面は、一階は出入り口に大戸を建て構え、サマノコと呼ばれる格子<こうし>を設けるものが一般的であり、古いものには蔀<しとみ>が残る。二階は袖壁<そでかべ>を設け、長押<なげし>、貫<ぬき>を化粧<けしょう>でみせ、白い漆喰壁<しっくいかべ>とコントラストをなす。 蔵は、土蔵造、二階建を基本として、屋根は切妻造、桟瓦葺で、平入と妻入<つまいり>が混在している。蔵を並べて建てる場合は、その間に土戸と呼ばれる防火のための扉を設け、作業場で火災が発生した際には、戸を閉め、主屋への延焼を防いだとされる。 高岡市金屋町伝統的建造物群保存地区は、高岡城下の建設に伴い鋳物師が集住して形成された町並みが今日までよく継承され、意匠的<いしょうてき>に優れた外観や質の高い造作<ぞうさく>をもつ町家と作業場や土蔵など鋳物製造に関わる建物がともに良く残り、特色ある歴史的風致を良く伝え、我が国にとって価値が高い。 (文化庁の報道発表資料より転載・一部加筆) |
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吉久 (高岡市) よしひさ (たかおかし) 高岡市観光協会 ここだよ ★ |
伝建地区:能松家住宅,西照寺,智徳寺,神明宮 伝建協加盟(在郷町) 高岡市吉久伝統的建造物群保存地区 (伝建20・たかおかしよしひさ) 令和2年12月23日選定 高岡市は富山県北西部にあり,市街地は市域北部の射水<い みず>平野に広がる。保存地区は、市域の北東部、小矢部川<おやべがわ>と庄 川<しょうがわ>に挟<はさ>まれた河口部に位置する。 高岡は慶長14年(1609)、前田利長<まえだとし なが>が高岡城を築<きず>いたことに始まり、廃城後も、米や綿 など射水・砺波<となみ>地域の物資集散地として栄えた。加賀藩の年貢米<ねんぐまい>は水運の便のある河川沿いや主要街道沿いに設置された「御蔵」<おくら>と呼ばれた収納蔵に一時集積された。吉久新村は、伏木湊<ふしきみなと>のやや上流に御蔵が設けられたことを契機<けいき>に承応<じょううおう> 4年(1655)に形成された町である。 江戸時代の吉久新村は、御蔵に勤める役人とともに、農業を営<いとな>みつつ御蔵の業務を兼業した人々が居住し、賑<にぎ>わいをみせた。近代に御蔵は廃止されたが、米穀商や倉庫業などが続けられ栄えた。その後、町並み周辺は開発されたが、往来沿いでは江戸時代後期までに形成された地割が良く残る。 保存地区は中央を南西から北東に緩<ゆる>やかに湾曲しながら通る放生津往来<ほうじょうづおうらい>に沿って、江戸時代から昭和30年代までに建てられた切妻造平入<きりづまづくりひらいり>の町家が残り、まとまりある町並みを形成している。主屋<しゅおく>は、一階は通り土間を設けず、間口いっぱいに部屋を設けるものが多く、一部ではミセの床板を一時的に撤去し、脱穀等の作業場とするものがある。正面一階は厚板葺<あついたぶき>の腕木庇<うできびさし>を付し、床上部<ゆかうえぶ>は出格子構<でごうしがま>えとするものが多い。二階の壁は真壁造漆喰塗<しんかべづくりしっくいぬり>として柱と貫<ぬき>を現し、上部に長押<なげし>を打つ形式を基本とする。二階表側の部屋を物置(アマ)として使用する場合は、壁面に窓を設けず、閉鎖的で独特な表構えとする。 高岡市吉久伝統的建造物群保存地区は、江戸時代に吉久御蔵を中核として形成された在郷町で、御蔵が失われて以降も米穀商を中心に栄えた。放生津往来沿いに、江戸時代後期までに形成された地割とともに、江戸時代後期から近代に建てられた当地域独特の切妻造平入の町家が残り、高岡の小矢部川河口部に栄えた在郷町の歴史的風致を良く伝える。 (文化庁の報道発表資料より転載・一部加筆) |
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相倉 (南砺市) 【旧平村】 あいのくら (なんとし) 南砺市観光協会 ここだよ★ |
伝建地区:相倉合掌造り集落(世界文化遺産),相倉民俗館,地主神社,西方道場 伝建協加盟(山村集落) 南砺市相倉伝統的建造物群保存地区 (伝建21・なんとしあいのくら) 平成6年12月21日選定 周囲を山林に囲まれた標高400m前後の台地にある。台地の中心の平坦地に屋敷地と耕作地がある他、傾斜地の一部も耕作地となっている。現在、30軒が台地上で集落を形成し、20戸の合掌造り家屋が残っている。屋敷地は、石垣を築いて平坦に造成されているが、周囲に塀や生垣を設けることはなく、開放されている。 |
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菅沼 (南砺市) 【旧上平村】 すがぬま (なんとし) 南砺市観光協会 ここだよ★ |
伝建地区:菅沼合掌造り集落(世界文化遺産),五箇山民俗館,塩硝の館,五箇山生活館,五箇山青少年旅行村合掌の里 伝建協加盟(山村集落) 南砺市菅沼伝統的建造物群保存地区 (伝建22・なんとしすがぬま) 平成6年12月21日選定 集落のある平坦地は、北に舌状に突き出した河岸段丘であり、その西・北・東の三方を庄川の流れが囲み、南と川の対岸は急峻な山地となっている。集落の住居は、五箇山地方独特の茅葺きの合掌造りの家屋で9軒残っている。地区はこれらの合掌造り家屋と非合掌造りの木造家屋、及び附属建物である土蔵、板倉、水車小屋、神社建築、石造り工作物などによって構成されている。 |
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東山ひがし (金沢市) ひがしやまひがし (かなざわし) 金沢市観光協会 ここだよ★ |
石川県 | 伝建地区:志摩(観覧施設),懐華楼(観覧施設),菅原神社,紅殻格子の町並み 伝建協加盟(茶屋町) 金沢市東山ひがし伝統的建造物群保存地区 (伝建23・かなざわしひがしやまひがし) 平成13年11月14日選定 東西約180m、南北約130mの範囲で、町は整形な町割に改められ、通りに接して間口の狭い縦長の敷地割が行なわれた。建物140軒のうち約2/3が伝統的建造物で、茶屋町創設時から明治初期に建てられたものが多く、その9割が茶屋様式の町屋。 |
主計町 (金沢市) かずえまち (かなざわし) 金沢市観光協会 ここだよ★ |
伝建地区:茶屋街,源法院,主計町緑水苑 伝建協加盟(茶屋町) 金沢市主計町伝統的建造物群保存地区 (伝建24・かなざわしかずえまち) 平成20年6月9日選定 金沢は加賀百万石の城下町として発展し、現在も城下町の骨格が色濃く残る。主計町は、城の北東、旧北国街道が浅野川を渡る浅野川大橋のたもとに位置し、町名は加賀藩重臣、富田主計<とだかずえ>の屋敷地があったことに因むとされるが、寛文7年(1667)の絵図では町人地となっている。藩による公許はなかったが、江戸後期には茶屋町的な性格を持っていたと考えられる。主計町は、明治末期から昭和前期に最盛期を迎えており、今日においても茶屋町の佇まいをよく伝えている。 保存地区は東西約150m、南北約140mの範囲で、最盛期の茶屋町の範囲のほぼ全域にあたる。北側の浅野川と南側の斜面に挟まれた平地に位置し、東西両端付近には、旧東・西内惣構堀<うちそうがまえぼり>が水路として流れる。地区は浅野川沿いの表の通りとそれに平行する裏の通り、それらと直交する数条の路地が骨格をなす。町家は、切妻造平入、二階建を基本とし、一階出格子や建ちの高い二階、軒下の庇<ひさし>などの正面意匠<いしょう>や、内部の数寄屋風の繊細な意匠によって構成される。浅野川沿いでは、茶屋町の最盛期に行われた三階の増築が往時の繁栄を伝えており、裏の通りではかつての石置き板葺の緩い屋根勾配を維持した建物が残る。 金沢市主計町伝統的建造物群保存地区は、茶屋町の繁栄とともに育まれた、意匠的に優れた伝統的建造物が多数残る。三階を増築した町家が建ち並ぶ浅野川沿いの景観と、旧来の茶屋の様式を維持した町家が残る裏の通りの景観により、変化に富んだ歴史的風致を良く残し、我が国にとって価値が高い。 (文化庁のプレス発表資料より転載。一部加筆) |
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卯辰山麓 (金沢市) うたつさんろく (かなざわし) 金沢市観光協会 ここだよ★ |
伝建地区:光覚寺,心蓮社,本法寺,妙圓寺,心月寺,蓮覚寺,全性寺,妙泰寺,蓮華寺,常福寺,長久寺,妙正寺,妙国寺,本光寺,妙応寺,円光寺,誓願寺,真成寺,三宝寺,龍国寺,玄門寺,永久寺,来教寺,本蔵寺,即願寺,西養寺,広昌寺,宗龍寺,蓮昌寺,慈雲寺,實相寺,圓長寺,西願寺,寿経寺,寶泉寺,東山蓮如堂,観音院,松尾神社,宇多須神社,卯辰山麓苑 伝建協加盟(寺院群) 金沢市卯辰山麓伝統的建造物群保存地区 (伝建25・かなざわしうたつさんろく) 平成23年11月29日選定 金沢市は石川県中部に位置し、市街地は小立野台<こだつのだい>の丘陵先端に築かれた城を中心に広がる。卯辰山麓は金沢城下に形成された3つの寺町のうちの1つで、金沢城の北東に位置し、近世を通じて金沢城下の寺町として機能した。 卯辰山麓の寺町には、17世紀中期に至るまで段階的に寺院が配されたが、寺院は宗派ごとにまとまって配された。延宝期(1673~1681)までには、寺町の町割と起伏ある山麓地形が相まって、独特な景観を形成していたとみられる。文政3年(1820)には、南西の一画に茶屋様式の町家が軒を連ねた、ひがしの茶屋町が成立した。 寺町の街区は、北国街道<ほっこくかいどう>沿いや浅野川大橋の北東側に広がる平地部では整形で、山麓部では地形に制約され不規則な形態を呈したが、基本的には、北国街道から東側の各寺院へ向かって延びる参道と、それらを結ぶ数条の南北街路が町割を構成した。 北国街道から寺院へ向かう参道を基本とした独特な寺町の町割は現在も残り、寺院境内に残る本堂は、切妻造平入<きりづまづくりひらいり>や妻入<つまいり>の特徴的な外観を持つ本堂が多く、江戸時代のものが密度高く残る。屋根は、当初の石置板葺屋根<いしおきいたぶきやね>の緩勾配<かんこうばい>を維持するものもある。 保存地区は、東西約690m、南北約840mの範囲で、浅野川の北側、北国街道の東側に位置する卯辰山麓の寺町のうち、平成13年(2001)に重要伝統的建造物群保存地区に選定された、東山ひがし伝統的建造物群保存地区の範囲を除いた部分である。保存地区内には、37寺2社が立地し、寺院周辺の町家とともにまとまりある町並みを形成している。 金沢市卯辰山麓伝統的建造物群保存地区は、起伏ある山麓の地形にあって、北国街道から寺院へ向かって延びる参道を基本とした独特な寺町の町割に、江戸時代の切妻造平入や妻入の特徴ある寺院本堂が密度高く残り、寺院周辺の近世から近代にかけての町家とともに、卯辰山麓一帯に形成された寺町の歴史的風致を今日に良く伝え、我が国にとって価値が高い。 (文化庁の報道発表資料より転載・一部加筆) |
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寺町台 (金沢市) てらまちだい (かなざわし) 金沢市観光協会 ここだよ★ |
伝建地区:妙慶寺,成学寺,常徳寺,真長寺,本長寺,宝勝寺,承証寺,極楽寺,浄安寺,松月寺,伏見寺,本妙寺,妙典寺,高岸寺,長久寺,本因寺,妙福寺,善隆寺,大円寺,法光寺,立像寺,本性寺,実成寺,妙法寺,願念寺,広願院,因徳寺,妙立寺,三光寺,西方寺,金剛寺,常松寺,香林寺,国泰寺,全昌寺,少林寺,龍雲寺,興徳寺,玉龍寺,玉泉寺,光専寺,堅正寺,立正寺,月照寺,本覚寺,希翁院,龍渕寺,開禅寺,本是寺,龍徳寺,八坂神社,諏訪神社,泉野菅原神社 伝建協加盟(寺町) 金沢市寺町台伝統的建造物群保存地区 (伝建26・かなざわしてらまちだい) 平成24年12月28日選定 金沢市は石川県中部に位置し、市街地は小立野台<こだつのだい>の丘陵先端に築かれた金沢城を中心に広がる。金沢市は、現在の城の位置に一向宗<いっこうしゅう>の金沢御堂<みどう>が築かれたことを起源とし、前田利家の入城後、慶長期に城下町の骨格が定められたが、寛永期の大火を契機に再編された。 城下町の建設に伴い、城下の寺院の結集が進められ、卯辰山麓<うたつさんろく>、小立野台、寺町台の三つの寺町が形成された。このうち寺町台は最多の寺院数を数えた。 寺町台は金沢城の南西、犀川<さいがわ>を越えた高台に位置する。寺町台には、前田家墓所のある野田山にむかって直線的に東に延びる旧野田道と犀川大橋から旧野田道と交差し、南に延びる旧鶴来道<つるぎみち>が通る。寺町台は、この旧野田道、旧鶴来道の二本の街路を軸として、それぞれの道沿いに寺院が集結するとともに、旧鶴来道沿いには寺社門前地に町家が連なる。これらの地割<ちわり>は17世紀後半には形成された。 保存地区は、東西約1000m、南北約1220mの範囲で、52寺院が立地する。近世末からの地割をよく残し、寺院周辺の町家とともにまとまりある町並みを形成している。 旧野田道沿いの旧野田寺町は、直線上に寺院の土塀<どべい>が道沿いに連なり、寺町として特徴的な景観を形成する。一方、旧鶴来道沿いの旧泉寺町は、寺社門前地に形成された町家が通りに面して連なる。このように、二つの異なる景観をみせることが地区の特徴となっている。寺院境内に残る本堂は、切妻造<きりづまづくり>が多く、江戸時代のものが密度高く残る。寺社門前地の町家の主屋<しゅおく>は、二階建、真壁造<まかべづくり>、切妻造平入<きりづまづくりひらいり>、桟瓦葺<さんがわらぶき>が基本で、平屋建もある。 金沢市寺町台伝統的建造物群保存地区は、近世に形成された寺社の地割がよく旧態を保持している。旧野田道、旧鶴来道という二本の街路に沿って寺院が集積し、寺町としての特徴を示すとともに、旧鶴来道沿いには、寺社門前地に形成された町家が連なり、寺町台一帯に形成された歴史的風致を今日に良く伝え、我が国にとって価値が高い。 (文化庁の報道発表資料より転載・一部加筆) |
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黒島 (輪島市) 【旧門前町】 くろしま (わじまし) 輪島市観光協会 黒島地区まちづくり協議会 ここだよ★ |
伝建地区:黒島天領北前船資料館,旧角海家<かどみけ>,旧嘉門家,中町家住宅,坂本家住宅,七野家住宅,川端家住宅,中谷家住宅,港家住宅,釜口家住宅,林家住宅,泉家住宅,工野家住宅,北潟家住宅,福善寺,永法寺,名願寺,若宮八幡神社 伝建協加盟(船主集落) 輪島市黒島地区伝統的建造物群保存地区 (伝建27・わじましくろしまちく) 平成21年6月30日選定 輪島市は能登半島の北西部に位置する。市西部の門前地域に含まれる黒島町は、江戸時代の大半を幕府領として支配された。黒島集落は、西は日本海に面し、砂浜から東方の山裾に上る緩斜面に街道に沿って南北に長く形成される。 集落の成立は16世紀前半と伝え、16世紀後期には廻船業を始めた番匠屋善右衛門<ばんじょうやぜんえもん>が加賀一向一揆の用米を運んでいる。江戸時代に入ると北前船の船主が現れ、日本海航路による海運業の発展を背景に集落は成長を遂げた。 江戸中期に150戸程の家数は、明治前期には500戸を超え、集落は街道に沿って南北に伸びて現在の町並みの骨格を形成した。 保存地区は東西約680m、南北約1300mの範囲で、全盛期の頃の集落全域及びこれと関連する墓地等を含む。往時の道路や敷地割が良く残り、街道沿いを中心に伝統的な主屋<しょおく>が建ち並ぶ。片側を通り土間とし、中央にチャノマを置き、床と仏間を設えたザシキを表通りに面して置くものが多く見られ、中でも船主の住宅は中庭をコの字で囲む独特の平面形式を見せる。時代により構造形式に違いが見られるものの、黒色の釉薬瓦、外壁の下見板張り、正面開口部に取り付く格子が町並みに統一感を与える。 輪島市黒島地区伝統的建造物群保存地区は、北前船の船主や船員の居住地として発展した集落である。平成19年(2007)3月の能登半島地震で大きな被害を受けつつも、最も栄えた明治初期の地割を良好に残し、伝統的な主屋が敷地内の庭園や土蔵、社寺建築、石造物、樹木と共に歴史的風致を良く伝え、我が国にとって価値が高い。 (文化庁の報道発表資料より転載) |
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加賀橋立 (加賀市) かがはしだて (かがし) 加賀市観光情報センター ここだよ★ |
伝建地区:北前船の里資料館,橋立北前船主型民家,板塀が連なる山崎通り,北前船主屋敷蔵六園,笏谷石の石垣が連なる新町通り,福井別院橋立支院,出水神社 伝建協加盟(船主集落) 加賀市加賀橋立伝統的建造物群保存地区 (伝建28・かがしかがはしだて) 平成17年12月27日選定 加賀市は石川県西南端にあって日本海に面する。橋立は日本海沿岸の丘陵地に位置し、江戸時代を通じて加賀藩の支藩である大聖寺藩<だいしょうじはん>に属した。江戸時代中頃までは、茅葺民家が複数の谷筋に散在する半農半漁の集落であったが、18世紀中期から次第に北前船の船主となる者があらわれ、やがて船主や船頭が居住する集落へと変貌を遂げる。明治5年(1872)に集落の約6割を焼失する大火に見舞われたが、北前船による廻船業が最高潮にあったため、それまでより大規模な家屋が再建された。 保存地区は東西約680m、南北約550mの範囲で、江戸後期から明治中期にかけて、北前船による交易を背景として建設された船主や船頭等の家屋が残る。敷地は周囲に石垣や塀を設け、通りからやや後退して主屋<しゅおく>を建て、そのまわりに土蔵や付属屋、庭園などを配する。主屋は切妻造妻入で、外壁には日本海から吹きつける潮風を防ぐために、船板を再用した竪板を張る。内部の柱や梁等は太く、かつ漆塗りで仕上げられており、重厚な空間をつくっている。船主の主屋は、居間や接客の場として使われる広いオエ(御上)の後方にブツマ(仏間)やザシキ(座敷)、ナンド(納戸)等で構成される6室を正面から見て左右2列に並べる規模の大きなものである。また、石垣や石段、石敷、あるいは主屋の棟の石材は淡緑青色の笏谷石<しゃくだにいし>でつくられ、集落に柔らかな質感と独特な風合いを与えている。 加賀市加賀橋立伝統的建造物群保存地区は、江戸後期から明治中期にかけて繁栄した北前船の船主や船頭が居住した集落で、近世の地割を残すとともに、豪壮な家屋や特色ある石垣等、歴史的風致を今日によく伝え、我が国にとって価値が高い。 (文化庁の報道発表資料より転載・一部加筆) |
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東谷 (加賀市) ひがしたに (かがし) 加賀市観光情報センター ここだよ★ |
伝建地区: 荒谷町…赤瓦集落,荒谷神社,鶴ヶ滝,石川県水産総合センター 内水面水産センター 今立町…赤瓦集落,白山神社 大土町…赤瓦集落,大土神社 杉水町…赤瓦集落,吉備神社 伝建協加盟(山村集落) 加賀市加賀東谷伝統的建造物群保存地区 (伝建29・かがしかがひがしたに) 平成23年11月29日選定 加賀市は石川県南西端に位置し、市内には、南端部の大日山<だいにちさん>に発する動橋川<いぶりはしがわ>と大聖寺川<だいしょうじがわ>が、市内の東西を北部海岸に向かって流れる。 加賀市南部の山間部は、近世には大聖寺藩の奥山方<おくやまがた>に属し、動橋川沿いの東谷と、大聖寺川沿いの西谷を中心に21村が形成されていた。うち8村には炭役が課されて大聖寺藩の御用炭全てを生産し、近代から昭和前期にかけては山間部の大半の集落が炭焼きを主産業とした。 昭和30年代以降、西谷におけるダム建設や、災害、離村などにより失われた集落もあるが、藩政時代より炭焼きを行い、東谷沿いに搬送した荒谷<あらたに>、今立<いまだち>、大土<おおづち>、杉水<すぎのみず>の4集落では、豊かな山林や、集落間のつながりを示す河川や旧道等と共に、歴史的環境が良好に残されてきた。 保存地区は、東西約5280m、南北約4950mの範囲で、荒谷、今立、大土、杉水の4集落及びこれらを結ぶ河川、旧道から成る。各集落とも、地形に合わせて敷かれた道に沿って宅地を開き、その周辺の比較的平坦な土地を耕地とし、周辺の山林を背景に、狭隘<きょうあい>な谷筋集落に独特な集落景観を見せる。 主屋<しゅおく>は、加賀地方に広く見られる前広間型の間取りを持つ2階建ての切妻造妻入<きりづまづくりつまいり>で、4面に下屋を廻<めぐ>らし、大屋根には煙出<けむりだ>しを設け、屋根と庇<ひさし>を赤褐色<あかかっしょく>の桟瓦<さんがわら>で葺<ふ>く。統一的な外観に加え、部屋境に太い通し柱を立てる強固な軸組も、特徴の一つを成す。 加賀市加賀東谷伝統的建造物群保存地区は、近世から昭和前期にかけて炭焼きを主産業とした山間部の4集落からなり、加賀地方の農家の特徴を発展させた近代以降の伝統的建造物群が、石積み、石造物、樹木、旧道、水路、河川等の工作物や自然物と一体となって独特な歴史的風致を形成しており、我が国にとって価値が高い (文化庁の報道発表資料より転載・一部加筆) |
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白峰 (白山市) しらみね (はくさんし) 白山市観光情報 ここだよ★ |
伝建地区:山岸家住宅,白峰温泉総湯,太鼓堂,雪だるまカフェ,行勧寺,真成寺,林西寺,白山本地堂,聖得寺,八坂神社,梶畑神社,文化と歴史の小径,古い石積みと小道,まちなか公園 伝建協加盟(山村・養蚕集落) 白山市白峰伝統的建造物群保存地区 (伝建30・はくさんししらみね) 平成24年7月9日選定 白山市は石川県の南東部に位置し、市域には白山(標高2702m)を水源とする手取川<てどりがわ>が縦断する。白山北西麓は旧白峰村にあたり、谷部に集落が点在する。白峰地区は旧白峰村の中心となる集落で、白山の西を流れる手取川沿いに展開する。寒暖の差が激しく、冬期の積雪は2mを越える厳しい自然環境にある。白峰地区はかつて牛首<うしくび>と称し、その成立は不詳であるが、史料上は16世紀には成立していたことが確認できる。この地方の主たる産業は、養蚕<ようさん>、製炭<せいたん>および焼畑<やきはた>による畑作である。養蚕の始まりは古く、少なくとも16世紀半ばまでさかのぼると考えられる。 保存地区は、東西約230m、南北約960mの範囲である。集落は、手取川西岸の細長い河岸段丘<かがんだんきゅう>上に形成される。敷地が限られていたため、主屋<しゅおく>が通りに面して建ち並ぶ特徴ある街路景観を持つ。地区中央部には、社寺および大家が居を構え、これらを囲む石垣が連なり、特徴ある景観を形成する。 主屋は、二階建もしくは三階建とする。上層階を養蚕の場とするために、江戸時代からすでに多層階の主屋が普及していた。屋根は切妻造<きりづまづくり>で、年代の古いものは、下屋<げや>や軒庇<のきびさし>を設けないため、土蔵のようであることが特徴である。二階以上では、柱を半間<はんけん>ごとに立てるために、窓が半間幅の縦長の形状となり、二階には薪<まき>の搬入口<はんにゅうぐち>として使用されたセドと呼ばれる開口部を設ける。また、雪下ろしの作業のために屋根にあがる大はしごが常設されており、特徴的である。さらに外壁は、下地にナルと呼ばれる直径2㎝から3㎝の木の枝を使用し、非常に厚い。これら特徴は、いずれも豪雪に対応したものであり、気候風土に即した建築の特徴を良く示している。 白山市白峰伝統的建造物群保存地区は、山間部の狭隘<きょうあい>な敷地に形成された特色ある集落構成をもち、豪雪という気候風土や養蚕という生業<なりわい>に即<そく>して発展成立した地方色豊かな伝統的建造物群がよく残り、厳しい自然環境にある山村集落の歴史的風致を良く残し、我が国にとって価値が高い。 (文化庁の報道発表資料より転載・一部加筆) |
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小浜西組 (小浜市) おばまにしぐみ (おばまし) 若狭おばま観光協会 ここだよ★ |
福井県 | 伝建地区:町並み保存資料館,町並みと食の館,小浜公園,空印寺,常燃寺,高成寺,瑞雲院,極楽寺,本行寺,浄安寺,本承寺,東光寺,栖雲寺,正法寺,称念寺,妙興寺,常高寺,蛯子神社,八幡神社,滝天満宮 伝建協加盟(商家町・茶屋町) 小浜市小浜西組伝統的建造物群保存地区 (伝建31・おばましおばまにしぐみ) 平成20年6月9日選定 小浜市は福井県の南西部に位置する。小浜は、中世には日本海側から京へ物資を中継する港町であり、同時に若狭国の政治の中心地でもあった。慶長6年(1601)に京極高次<きょうごくたかつぐ>が小浜城を築いて城下町を整備し、貞享元年(1684)には、町人地がさらに拡大し東、中、西の3組に区分された。この頃には、町人地の西に茶屋町が形成されていたと考えられる。小浜は、近世から近代にかけて数度の大火があり、河川改修等も行われたが、町人地の町割は近世前期の形態がほぼ現在まで継承されている。 保存地区は南北約580m、東西約790mの範囲で、小浜城下の町人地のうち、西組のほぼ全域にあたる。保存地区を縦断する丹後街道が東に折れ曲がる辺りを境に東が商家町、西が茶屋町となり、後瀬山麓<のちせさんろく>及び西端部に寺町が形成されている。保存地区の敷地割は明治4年(1871)の地籍図とほぼ一致し、近世末期の地割が良く残されている。町家は、切妻造平入、桟瓦葺であるが、商家町と茶屋町とでは多少異なり、茶屋町では2階前面を縁や出窓とする茶屋の様式をもつ建物が多くを占める。 小浜市小浜西組伝統的建造物群保存地区は、中世の港町から近世の城下町へと発展し、町域が拡大するのにともなって整備された近世前期の街路構成並びに近世末期の地割を良く残し、近世から近代に建てられた町家や寺社建築など、商家町や茶屋町、寺町が併存する近世城下町の歴史的風致を今日に良く伝えており、我が国にとって価値が高い。 (文化庁のプレス発表資料より転載。一部加筆) |
今庄宿 (南越前町 いまじょうしゅく (みなみえちぜんちょう) 南越前町今庄観光協会 ここだよ★ |
伝建地区:本陣跡,脇本陣跡,判札場跡,京藤甚五郎家,畠山酒造,白駒酒造,野口酒造,北善商店,高野由平老舗 伝建協加盟(宿場町) 南越前町今庄宿伝統的建造物群保存地区 伝建32・みなみえちぜんちょういまじょうしゅく) 令和3年5月21日選定答申 南越前町は福井県のほぼ中央、嶺北<れいほく>地方の南部に所在する。今庄は南越前町のほぼ中央、南条山地の山間部に位置する豪雪地である。 今庄は京滋<けいじ>方面と福井とを結ぶ交通の要所にあり、天正6年(1578)頃に北ノ庄城主の柴田勝家<しばたかついえ>が街道を整備し、慶長5年(1600)に結城秀康<ゆうきひでやす>が越前国を領有<りょうゆう>すると、同7年に北陸道の伝馬制<てんませい>を整備して今庄宿を置き、以後、宿駅<しゅくえき>として繁栄した。今庄宿は、南北に延びる街道に沿って町並みが形成され、中心部には本陣<ほんじん>や脇本陣<わきほんじん>、問屋場<といやば>、藩札<はんさつ>を扱う御札場<おふだば>等が置かれた。江戸時代には四回の大火が知られ、現存する建物の多くは文政元年(1818)の大火以後に建てられたとみられる。 宿駅制度廃止後も、明治29年(1896年)に北陸線敦賀駅<つるがえき>・福井駅間が開業すると、昭和37年(1962年)の北陸トンネル開通及び北陸本線電化まで、地域の中心として、また鉄道の町として発展を続けた。 保存地区は、旧北陸道沿いに形成された旧今庄宿の宿場のほぼ全域である。地割は江戸時代の宿場町の姿を良好に残すとともに、近代における発展の様相<ようそう>も見られ、江戸後期から昭和30年代までに建てられた伝統的な建造物が歴史的な町並みを形成する。街道沿いに多く見られる平入<ひらいり>の主屋<しゅおく>は、木太<きぶと>い登梁<のぼりばり>を二階の軒先<のきさき>に突き出す豪壮<ごうそう>な造りが特徴的で、二階の両端には袖壁<そでかべ>を付す。一階の正面には格子<こうし>等をはめる。江戸時代の主屋では卯建<うだつ>を上げるものや正面の壁を前側に傾けるものもある。宿場の縁辺には妻入<つまいり>の主屋も見られる。また、冬期間、正面の庇<ひさし>の下に設ける雪囲いも特徴的である。 南越前町今庄宿伝統的建造物群保存地区は、慶長年間に成立した北陸道の宿場町である。地割は江戸時代の姿を良く留め、街道沿いには江戸後期から昭和30年代にかけて建てら れた、木太い登梁と袖壁が特徴的な平入いりの主屋と街道縁辺の妻入<つまいり>主屋が特徴ある町並みを形成する。越前地方の豪雪地に発展した旧北陸道の宿場町の歴史的風致を良く伝える。 (文化庁の報道発表資料より転載。一部加筆) |
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熊川宿 (若狭町) 【旧上中町】 くまがわじゅく (わかさちょう) 若狭鯖街道熊川宿 ここだよ★ |
伝建地区:宿場館,熊川番所,菱屋(勢馬清兵衛家),旧逸見勘兵衛家,覚成寺,得法寺,権現神社,白石神社,松木神社,西山稲荷神社,孝子与七碑,中条橋,子守り岩,前川(用水路) 伝建協加盟(宿場町) 若狭町熊川宿伝統的建造物群保存地区 (伝建33・わかさちょうくまがわじゅく) 平成8年7月9日選定 緩やかな屈曲と勾配のある街道に沿って形成された約1.1㎞の町並み。街道に平行して流れる用水路は、生活用水だけでなく、宿場の景観向上に寄与している。街路の両側には、平入と妻入の町屋が入り混じって建ち並び、店構えの正面り塗籠<ぬりごめ>の壁と格子を見ることが出来る他、土蔵や茅葺屋根の民家も残っている。 |
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塩山下小田原 (甲州市) えんざんしもおだわら (こうしゅうし) 甲州市観光協会 ここだよ★ 保存計画 |
山梨県 | 伝建地区:甲州民家情報館,福蔵院,一木百観音<いちぼくひゃくかんのん>,金井加里神社<かないかりじんじゃ> 伝建協加盟(山村・養蚕集落) 甲州市塩山下小田原上条伝統的建造物群保存地区 (伝建34・こうしゅうしえんざんしもおだわらかみじょう) 平成27年7月8日選定 甲州市は山梨県北東部、甲府盆地の東端に位置する。保存地区は、甲州市の中央部、甲府盆地を南に望む山麓<さんろく>にある山村集落である。 上条における集落の成立時期は明らかではないが、集落内の観音堂に安置される木造百観音像の制作に関わる史料などから、江戸時代中頃には現在とほぼ同規模の集落があった様子がうかがえる。江戸時代には畑作を中心に営み、明治時代中期以降、政府の振興策や技術の進展に呼応<こおう>して養蚕<ようさん>に転じた。養蚕が衰退<すいたい>した昭和50年代以降は、果樹栽培を主産業として現在に至っている。 保存地区は、山麓の南斜面に形成された集落と、その南側に延びる丘陵地<きゅうりょうち>からなり、東西約320m、南北約860mの範囲とする。 丘陵地の尾根伝いから集落の中心部を貫<つらぬ>いて旧道が南北に通り、集落内には旧道から別れて延びる里道に面して民家が配され、民家の周辺が畑地となる。集落南側に面する丘陵 地の北端に観音堂が建ち、丘陵地の中央付近に金井加里神社、また丘陵地の南麓<なんろく>に福蔵院が境内<けいだい>を構える。 民家の敷地は、等高線に沿って細長く造成され、その中ほどに主屋<おもや>を建てる。主屋は、切妻造<きりづまづくり>茅 葺<かやぶ>きで平屋<ひらや>建てを基本とする,江戸時代中期から明治時代にかけて建てられたものが良く残る。明治時代中期以降、養蚕が主産業になると、屋根裏で養蚕を行うために主屋の屋根前面の中央部を切り上げた突上屋根<つきあげやね>が設けられるようになり、昭和以降には棟<むね>に越屋根<こしやね>を上げた切妻造桟瓦葺<きりづまつづくりさんがわらぶ>き の主屋も建てられ、地域独特の特徴的な集落の景観が形づくられた。 甲州市塩山下小田原上条伝統的建造物群保存地区は、江戸時代中期から昭和にかけて建てられた地域独特の形式をもつ民家がまとまって残り、それらが周囲の畑地や自然環境と一体となって、江戸時代以来の伝統的な集落の形態を良くとどめており、我が国にとって価値が高い。 (文化庁の報道発表資料より転載。一部加筆) |
赤沢 (早川町) あかさわ (はやかわちょう) 早川町観光協会 ここだよ★ |
伝建地区:赤沢資料館,妙福寺,古い旅籠,摩利支天尊,水神様 伝建協加盟(山村・講中宿) 早川町赤沢伝統的建造物群保存地区 (伝建35・はやかわちょうあかさわ) 平成5年7月14日選定 海抜約500mにあり、中世の頃から七面山と身延山を結ぶ山岳信仰の宿場となり、近世から昭和初期にかけては講中宿・旅籠<はたご>として発達した。旅籠の軒下には数多くの「板マネギ」が架けられていて、当時の繁栄を知る事が出来る。また木材資源にも恵まれていたので、木挽き、大工などの職人を多く輩出した。 |
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戸隠 (長野市) とがくし (ながのし) 戸隠観光協会 ここだよ★ 保存計画 |
長野県 | 伝建地区:戸隠神社、日之御子神社、宝光社 伝建協加盟(宿坊群・門前町) 長野市戸隠伝統的建造物群保存地区 (伝建36・ながのしとがくし) 平成29年2月23日選定 戸隠神社中社<ちゅうしゃ>及び宝光社<ほうこうしゃ>の宿坊群を中心とした門前町である。宿坊群としては初めての選定となる。 長野市北西部の標高1000mを超える山岳地帯に位置しており、戸隠山の中腹に戸隠神社の奥社<おくしゃ>、戸隠高原の南向き斜面に中社と宝光社が位置し、これらは善光寺から続く戸隠道<とがくしみち>で結ばれている。 戸隠神社は、戸隠顕光寺<とがくしけんこうじ>を前身とし、近世には信州を中心とした各地に戸隠講<とがくしこう>が形成された。近世後期から近代には参詣者の増加に伴って、宿坊<しゅくぼう>の大規模化が進んだ。 保存地区は、中社と宝光社の境内及び宿坊群を中心とする門前町と両社をつなぐ道等を範囲とする。中社、宝光社共に仁王門跡の内側の参道沿いに大規模な宿坊、その周囲に小規模な宿坊、仁王門跡の外側から宿坊群の周縁<しゅうえん>に在家<ざいけ>と呼ばれる農家や職人等の住宅があり、現在も江戸以来の地割を残している。 宿坊や在家の主屋<しゅおく>は、平屋建または二階建、寄棟造<よせむねづくり>、茅葺<かやぶき>、平入<ひらいり>を基本とし、雪対策として軒をせがい造りで深くとり、床を高く張る。宿坊は客殿部<きゃくでんぶ>と庫裏部<くりぶ>からなり、客殿部は正面に向拝<こうはい>を備え、神前の間を構える。 長野市戸隠伝統的建造物群保存地区は、江戸時代以来の地割が良く保たれ、戸隠信仰のもと、参詣者を受け入れるため大規模化した宿坊が、社殿や在家の住宅、石垣、生垣<いけがき> 等と一体となって歴史的風致を形成し、我が国にとって価値が高い。 (文化庁の報道発表資料より転載。一部加筆) |
海野宿 (東御市) 【旧東部町】 うんのじゅく (とうみし) 信州とうみ観光協会 ここだよ★ |
伝建地区:海野宿資料館,本陣及び脇本陣跡,白鳥神社,海野宿ふれあいセンター,貞明皇后記念碑,貞明皇后養蚕視察記念碑 伝建協加盟(宿場・養蚕町) 東御市海野宿伝統的建造物群保存地区 (伝建37・とうみしうんのじゅく) 昭和62年4月28日選定 東西約700m、南北約250mの範囲で、街道の中央に水路が流れ、街道に面して両側に格子戸がはまった家が建ち並んでいる。建物は本うだつ、袖うだつ、海野格子、出桁、気抜きといった独特の構造が施されてるものを見ることが出来る。 |
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奈良井 (塩尻市) 【旧楢川村】 ならい (しおじりし) 奈良井宿観光協会 ここだよ★ |
伝建地区:楢川歴史民俗資料館,徳利屋郷土館,上問屋資料館,鎮<しずめ>神社,八幡宮,資料館中村邸,浄龍寺,長泉寺,大宝寺,法然寺,専念寺,若宮様,神明宮,マリヤ地蔵,二百地蔵,荒沢不動尊,夏草会の碑 伝建協加盟(宿場町) 塩尻市奈良井伝統的建造物群保存地区 (伝建38・しおじりしならい) 昭和53年5月31日選定 旧街道の両側に200戸以上の建物が並び、約1㎞にわたる町並みを形成している。その両端に神社を配置し、更に町並みの背後に寺院が並び、町の地割も残っている。 |
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木曾平沢 (塩尻市) 【旧楢川村】 きそひらさわ (しおじりし) 木曾平沢町並み保存会 ここだよ★ |
伝建地区:木曽漆器館,諏訪神社 伝建協加盟(漆工町) 塩尻市木曾平沢伝統的建造物群保存地区 (伝建39・しおじりしきそひらさわ) 平成18年7月5日選定 塩尻市は長野県の中央部に位置する。木曾平沢は木曾谷を北流する奈良井川が大きく湾曲した河川敷に発達した集落であり、檜物細工<ひものざいく>や漆器<しっき>などの生産によって生計を立ててきた。近世後期には「平沢塗物」の名で流通するようになり、明治期以降も本堅地漆器<ほんかたじしっき>の製造技術を導入するなどの技術革新によって成長し、現在でも日本有数の漆器生産地としての地位を維持し続けている。 保存地区は東西約200m、南北約850mの範囲で、南北に縦断する中山道と金西町<きんさいちょう>の街路に面して、奥行の深い短冊状<たんざくじょう>の敷地割が残されている。街路から主屋を若干後退させてアガモチ(空き地)を取り、中庭を介して漆塗<うるしぬり>の作業場であるヌリグラを配す。敷地間口いっぱいに主屋を建てず隣家との間に余地を残し、敷地奥への通路とする場合が多い。主屋<しゅおく>は、中2階建あるいは2階建の切妻造平入で、ヌリグラは2階建、置屋根の土蔵造であり、窓を大きく取るなど漆塗の作業に適応した建物であり、平沢を特長づけている。 塩尻市木曾平沢伝統的建造物群保存地区は、近世後期の地割をよく残すとともに、近世以来の伝統的な町家やヌリグラなどが一体となって漆器生産の町としての特色ある歴史的風致を今日によく伝え、我が国にとって価値が高い。 (文化庁のプレス発表資料より転載。一部加筆) |
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妻籠宿 (南木曽町) つまごじゅく (なぎそまち) 妻籠観光協会 ここだよ★ |
伝建地区:南木曽町博物館(妻籠宿本陣・脇本陣奥谷・歴史資料館),熊谷家住宅,口留番所跡,高札場,上嵯峨屋,下嵯峨屋,光徳寺,延命地蔵,和智神社,妻籠郵便局(郵便史料館),鯉岩,妻籠城跡,橋場の石柱道標,藤原家住宅,倉科祖霊社<くらしなそれいしゃ>,雄滝・女滝,子安観音,一石栃<いっこくとち>(白木改番所跡),馬籠峠 伝建協加盟(宿場町) 南木曽町妻籠宿伝統的建造物群保存地区 (伝建40・なぎそまちつまごじゅく) 昭和51年9月4日選定 東西約3.8㎞、南北約5.5㎞の範囲で、「下町・中町・上町」、「寺下」、「在郷」の3地区からなる。「下町・中町・上町」は、約350mにわたって約60戸の建物が町並みを形成している。歴史的にも妻後宿の中心地で、本陣、脇本陣、問屋など、すべてここに置かれていた。「寺下」は、約150mの道の両側に28戸の建物が建っている。「在郷」は、旧中山道に面した町屋造りの民家と、付近に点在している農家の建物がある。 |
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青鬼 (白馬村) あおに (はくばむら) 白馬村観光局 ここだよ★ |
伝建地区:青鬼神社,阿弥陀堂石仏群,向麻石仏群,棚田,青鬼上堰,青鬼下堰,ガッタリ,善鬼堂遺跡,馬場遺跡,馬場の清水 伝建協加盟(山村集落) 白馬村青鬼伝統的建造物群保存地区 (伝建41・はくばむらあおに) 平成12年12月4日選定 東西約2㎞、南北約700mの範囲で、江戸後期から明治に建てられた14軒の茅葺の主屋<しゅおく>(現在は鉄板被覆)と土蔵等によって構成される。また長さ約3㎞に及ぶ用水路である青鬼堰は現在も使われていて、集落にとって貴重な存在。 |
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稲荷山 (千曲市) いなりやま (ちくまし) 千曲市観光協会 ここだよ★ 保存計画 |
伝建地区:千曲市稲荷宿・暮し館,柳澤セメント工業,宮越酒店,栁田商店,田中園茶店,前田家具店,森化粧品店,鍋金商店,キノセ美容室,江戸屋食飯店,極楽寺,正一位稲荷大神
伝建協加盟(商家町) 千曲市稲荷山伝統的建造物群保存地区 (伝建42・ちくましいなりやま) 平成26年12月10日選定 千曲市は長野県北部に位置し、長野市の南に接する。千曲市の北端、市を南北に貫通する千曲川の西岸に保存地区がある。 天正<てんしょう>10年(1582)頃に稲荷山城が築かれ、城の西側に、南北に延びる町が形成される。慶長<けいちょう>3年(1598)の廃城後,江戸時代には北国西往還<ほっこくにしおうかん>(通称・善光寺街道)の宿場町として機能し、19世紀初期以降、次第に商家町としての性格をもつようになる。弘化<こうか>4年(1847)の善光寺地震及び地震後に断続的に発生した火災により、町は壊滅的な被害を受けるが、震災復興後、近世末期から近代にかけて、生糸や繊維製品の集散地として、当地方有数の商業地として繁栄した。 千曲市稲荷山伝統的建造物群保存地区は,近世末期から近代にかけて商業地として栄えた東西約200m、南北約850mの範囲とする。 町の中央を往還が南北に貫通し、中程に街道が屈折する「鍵の手」<かぎのて>をもつ。町の周囲に近世以来の水路や地割<ちわり>を良く残している。敷地は、街道に面して短冊形<たんざくがた>に割られ、街道に面して主屋<おもや>が建てられる。主屋の背後には土蔵<どぞう>や附属屋<ふぞくや>が建てられ、敷地背面が面する裏通りには土蔵が建ち並び、土蔵の間に門が構えられる。 現存する建物は、弘化4年の震災後の建物で、震災直後のものは、中二階で、二階の柱や軒裏を壁で塗り上げた形式としている。また、明治中期以降は、本二階で、分厚い壁を軒まで塗り上げた重厚な主屋も建てられるようになる。その一方、町の中心部でも茅葺<かやぶ>きの建物が建てられ続け、更には、茅葺きのような屋根勾配の強い瓦葺きの建物も建てられ、多様な形式の主屋が混在することが町並みの特徴となっている。 千曲市稲荷山伝統的建造物群保存地区は、近世以来の地割を良く残し、近世末期から近代にかけて建てられた主屋や土蔵などの伝統的建造物が良く残り,我が国にとって価値が高い。 (文化庁の報道発表資料より転載。一部加筆) |
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三町 (高山市) さんまち (たかやまし) 飛騨高山観光協会 ここだよ★ |
岐阜県 | 伝建地区:高山市政記念館,飛騨民族考古館,平田記念館,藤井美術民芸館 伝建協加盟(商家町) 高山市三町伝統的建造物群保存地区 (伝建43・たかやましさんまち) 昭和54年2月3日選定 東西約150m、南北約500mの範囲で、商人の町として栄えた一之町、二之町、三之町の総称。上三之町には、狭い通りの両側に木組みの窓や千本格子の町屋が軒を連ねている。 |
下二之町・大新町 (高山市) しもにのまち・おおじんまち (たかやまし) 飛騨高山観光協会 ここだよ★ |
伝建地区:宮地家住宅,吉島家住宅,日下部民藝館 伝建協加盟(商家町) 高山市下二之町大新町伝統的建造物群保存地区 (伝建44・たかやまししもにのまちおおじんまち) 平成16年7月6日選定 東西約180m、南北約780mの範囲で、近世初期の城下町の町割構成を良く残す商家町で、日下部家、吉島家を始め、各時代の変化に富んだ町屋が残っている。 |
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美濃町 (美濃市) みのまち (みのし) 美濃市観光協会 ここだよ★ |
伝建地区:小坂家,旧今井家住宅(美濃史料館),山田家住宅(町並みギャラリー),加藤家,松久家,大石家,鈴木家,西尾家,森井家,梅村家,渡辺家,古田家,須田家,武藤家,岡家,野端家,古川家,平田家,願念寺,宝勝院 伝建協加盟(商家町) 美濃市美濃町伝統的建造物群保存地区 (伝建45・みのしみのまち) 平成11年5月13日選定 東西約400m、南北約200mの範囲で、旧武家地の南側にあり、街路は東西方向の2本の広い道と南北方向の4本の道を骨格として、これらを直交させた目の字形の町割となっている。屋敷地は間口が狭く奥行きの長い短冊状の形状となっていて、うだつも多く残っている。 |
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岩村町岩村本通り (恵那市) 【旧岩村町】 いわむらちょういわむらほんどおり (えなし) 恵那市観光協会 岩村観光協会 ここだよ★ |
伝建地区:いわむら美術の館,木村邸資料館,岩金製麺所,加納家(鉄砲鍛冶の家),勝川家(江戸城下町の館),浅見家,土佐屋(工芸の館),旧石橋家住宅,岩村醸造,水野薬局,浄光寺,巖邑天満宮,なまこ壁,高札場,いわむら街並み公園,常夜灯 伝建協加盟(商家町) 恵那市岩村町岩村本通り伝統的建造物群保存地区 (伝建46・えなしいわむらちょうほんどおり) 平成10年4月17日選定 東西約1300m、南北約200mの範囲で、岩村城跡の西側に広がる侍屋敷地区には十数軒の屋敷が点在し、町割や敷地を囲む石垣等は旧態をとどめている。本町地区には江戸時代の建造物が集中していて、敷地のほとんどが東西にのびる通りに面して4~5間の間口で区画され、南北に長い短冊状の敷地割になっている。西町・新町地区の敷地割は裏通りで区画されるため、本町地区と比べると奥行きがない。この地区には明治以降の建築物が多い。 |
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荻町 (白川村) おぎまち (しらかわむら) 白川郷観光協会 ここだよ★ |
伝建地区:荻町城跡,どぶろく祭りの館,技術伝承館,白川郷ふるさと体験館,野外博物館合掌造り民家園,生活資料館,焔仁<ほむらじん>美術館,和田家,ふる郷長瀬家,神田家,日本ナショナルトラスト合掌文化館,日本ナショナルトラスト旧寺口家,明善寺,明善寺郷土館,本覚寺,秋葉神社,白川八幡神社,天竜宮 伝建協加盟(山村集落) 白川村荻町伝統的建造物群保存地区 (伝建47・しらかわむらおぎまち) 昭和51年9月4日選定 東西約350m、南北約1500mの範囲で、集落内の伝統的な住居は、白川郷独特の茅葺きの合掌造りの家屋で、その周囲に伝統的形態の板倉やハサ小屋が建てられている。茅葺きの合掌造り家屋は50軒以上残っていて、これらの多くは江戸時代末期から明治時代にかけて建てられたもの。 |
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郡上八幡北町 (郡上市) ぐじょうまちまんきたまち (ぐじょうし) 郡上八幡観光協会 ここだよ★ |
伝建地区:郡上八幡城,ヤマカ刃物店,大手文具,井口製菓,大間見屋米穀店,大矢食堂,旅館備前屋,旅館みはらや,安養寺,善光寺,悟竹院,秋葉三尺坊,長敬寺,蓮生寺,岸剣<きしつるぎ>神社,積翠<せきすい>神社,秋葉神社 伝建協加盟(城下町) 郡上市郡上八幡北町伝統的建造物群保存地区 (伝建48・ぐじょうしぐじょうはちまん) 平成24年12月28日選定 郡上市は岐阜県の中央部に位置する。郡上市の中心にあたる旧八幡町は、永禄2年(1559)、戦国時代より当地域一円を支配していた郡上東氏<ぐじょうとうし>を攻めるため、遠藤盛数が八幡山に陣営を構えたことに始まる。江戸時代後期には、吉田川を挟んで北側は北町、南側は南町と称され、それぞれ名主<なぬし>がおかれた。 北町は、八幡山に築かれた八幡城跡の西に位置し、北、西、南の三方を川に囲まれた旧城下町の一部である。南北行き三筋の通りが配され、東の通りに沿って柳町、中央の通りに沿って殿町、西側の通りに沿っては、北から職人町、鍛冶屋町、本町とされる。 山上には本丸が、山麓の二の丸には居館が置かれた。柳町及び殿町には武家地が配され、職人町、鍛冶屋町、本町及び大手町には町人地が形成された。大正8年、北町一帯が焼失する大火が発生する。復興にあたり、武家地が細分化され町家が建ち、屋根の不燃化が進められた。 郡上市郡上八幡北町伝統的建造物群保存地区は、旧武家地、旧町人地並びに八幡城跡から構成される東西589メートル、南北525メートルの範囲である。主屋<しゅおく>は総二階建で、切妻造平入<きりづまづくりひらいり>、真壁造<まかべづくり>で木部を 弁柄塗<べんがらぬり>とし、壁を漆喰塗<しっくいぬり>とするものが多い。袖壁<そでかべ>を設けるのが一般的で、屋根は鉄板葺又は桟瓦葺<さんがわらぶき>を基本とする。敷地の傾斜を利用して、主屋一階の床下にシタヤと呼ばれる居室やムロと呼ばれる貯蔵庫を設けるものもある。通りに沿ってそれぞれ水路が引かれ、現在でも生活用水として利用されている 郡上市郡上八幡北町伝統的建造物群保存地区は、四方を山と川に囲まれた自然地形をいかした城下町の一部で、統一された様式を持つ町家が密度高く建ち並ぶとともに、湧水をいかした水利施設とが一体となって、城下町としての歴史的風致を今日に良く伝え、我が国にとって価高い。 (文化庁の報道発表資料より転載。一部加筆) |
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花沢 (焼津市) はなざわ (やいづし) 焼津市観光協会 ここだよ★ 保存計画 |
静岡県 | 伝建地区:法華寺,日枝神社,花宮園篠宮製茶,カントリーオーブン 伝建協加盟(山村集落) 焼津市花沢伝統的建造物群保存地区 (伝建49・やいづしはなざわ) 平成26年9月18日選定答申 焼津市は静岡県の中央部、静岡市の南に位置し、駿河湾に面する。焼津市中央部の沿岸部に市の中心部があり、市域北東隅の山間部に保存地区がある。保存地区は谷部に形成された戸数30戸程度の小規模な山村で、17世紀以来、ほぼ同規模の集落として存在し続けている。明治以降、養蚕,茶,みかんの栽培で繁栄し、中でも、みかんの栽培は戦後以降も主産業として地区を潤した。 焼津市花沢伝統的建造物群保存地区は、東西約240m、南北約800mの範囲とし、南北に流れる花沢川に沿った細長い集落部分と、その周囲の茶畑,みかん畑が営まれた斜面地からなる。 集落部分では、川沿いの道に沿って石垣で造成された屋敷地が並び、道に沿って石垣が階段状に連なる。敷地の奥には山を背にして主屋<おもや>が建てられる。主屋は、平屋建て、瓦葺きの建物が多く、そのうち約1/3は、かつては茅葺<かやぶ>きであった。中には、養蚕を行うために、中二階<ちゅうにかい>をつくったものもある。道沿いや屋敷地の周縁部には附属屋が建てられる。土蔵<どぞう>や納屋のほかに、茶やみかんの作業場や貯蔵施設、さらには、みかんの収穫や選別作業に携わった季節労働者の宿泊施設がある。季節労働者の増加により、附属屋間の二階をつないで宿泊施設とし、その下を敷地への出入口とした、あたかも長屋門のような形状となったものもある。そして、集落の周囲には、石積みによって築かれたみかん畑や茶畑が広がる。 焼津市花沢伝統的建造物群保存地区は、谷間の道に沿って屋敷地が連続し、江戸時代後期から昭和初期に建てられた主屋や附属屋などの伝統的建造物を良く残し、道に沿って、階段状の石垣の上に附属屋が建ち並ぶ特徴ある景観を形成し、集落を取り囲むみかん畑や茶畑などの周囲の環境と一体となって、特徴ある歴史的風致を形成し,我が国にとって価値が高い。 (文化庁の報道発表資料より転載。一部加筆) |
足助 (豊田市) あすけ (とよたし) 豊田市観光協会 足助観光協会 ここだよ★ |
愛知県 | 伝建地区:足助中馬館,善光寺,宗恩寺,慶安寺,観音寺,御嶽大神,お釜稲荷,マンリン小路,常夜灯,弘化2年のみちしるべ,馬頭観音と牛馬摂待水,松尾芭蕉句碑,六地蔵公園 伝建協加盟(商家町) 豊田市足助伝統的建造物群保存地区 (伝建50・とよたしあすけ) 平成23年6月20日選定 豊田市は愛知県三河地方西北部に位置し、足助は尾張、三河と南信州を結ぶ伊那街道の道筋に当たり、古くから海と山を結ぶ物資の中継点として重要な位置を占めた。 足助の町の起源は明らかではないが、室町時代後期に現在の足助市街地を見下ろす真弓山に足助城が築かれ、この頃に原形となる町場が形成されたとみられる。 江戸時代の足助は、複雑に折れ曲がる伊那街道に沿って、田町<たまち>、東町<ひがしまち>、新町<しんまち>、西町<にしまち>があり、北側の山麓に寺社や陣屋が立地していた。安永4年(1775)に町並みの大半を焼く大火があったが、その後も、街道沿いの商家町として発展し、近代になっても地域の中心として栄えた。 明治中期には新町と田町で、江戸時代の街路構成の一部が改変を受けたが、これらの道沿いにも町家が建ち、現在見る景観ができた。 保存地区は、東西約1240m、南北約750mの範囲で、伊那街道に沿った近世の足助の町と、近代になってできた町筋、街道北側の陣屋や寺社があった地域を含む。 町家は、ほとんどが安永の大火以降のもので、江戸時代のものが多く残る。主屋<しゅおく>は塗籠<ぬりごめ>で平入<ひらいり>と妻入<つまいり>が混在し、近世後期から近代のものでは、間口の大きな一戸建を分け、長屋に改造したものもある。川沿いでは護岸上に二階建や三階建の離れ座敷が建ち並ぶ特徴的な景観も見られる。 豊田市足助伝統的建造物群保存地区は、江戸時代以来の重厚な町家を多く残し、平入と妻入の入り交じる街道沿いと、離れ座敷が建ち並ぶ川沿いに変化に富んだ景観を残す。物資の流通によって近世から近代にかけて栄え、山間部に成立した商家町の姿を良く伝え、我が国にとって価値が高い。 (文化庁の報道発表資料より転載。一部加筆) |
有松 (名古屋市緑区) ありまつ (なごやしみどりく) 名古屋市 有松のまち 名古屋観光コンベンションビューロー ここだよ★ 保存計画 |
伝建地区:有松・鳴海絞会館,有松山車会館,服部邸,竹田邸,岡邸,小塚邸,祇園寺,竹田庄九郎碑 伝建協加盟(染織町) 名古屋市有松伝統的建造物群保存地区 (伝建51・なごやしありまつ) 平成28年7月25日選定 名古屋市は愛知県西部に位置し、保存地区は、名古屋市の南東部、尾張丘陵を横断する東海道沿いにある。地区の北側には、藍染川<あいぞめがわ>の通称で呼ばれる手越川<てごしがわ>が流れる。保存地区は,慶長13年(1608)の尾張藩による移住奨励によって桶狭間村<おけはざまむら>に開かれ、まもなく有松村として独立した集落を起源とする。最初の移住者が考案したとされる絞り染めが,「有松絞<ありまつしぼり>」の名で東海道の往来者向けの土産物<みやげひん>として知れ渡るにつれ、藩の庇護<ひご>の下<もと>、江戸時代を通じて絞り染めが産業として大きく発展し,町並みも拡大した。 創業の初期には、絞り染めの製造販売の全工程を絞商が行っていたようであるが、染めや括りの技法の発展や,需要の増大に伴い,18世紀の中頃からは分業が成立し,絞商の豪壮<ごうそう>な屋敷構えと,諸職の町家が混在して建ち並ぶ特徴ある町並みが形成された。近代に入って藩の庇護を失い、街道の往来も減少すると、店頭商いを原則としていた有松絞は一旦衰退するが,卸業への転換を図って販路を拡大するなどして再興し、明治後期から昭和初期にかけて最も繁栄した。 保存地区は,東海道に沿った約800mの範囲である。町並みを特徴づけるのは、敷地間口が大きい絞商の屋敷構えで、街道に面して主屋<しゅおく>や土蔵<どぞう>を並べ、さらには門や塀<へい>を建てる。そのため、町家が並ぶ所々に、塀越しに庭木や隠居屋<いんきょや>等を見越す景観が混じる。絞商の主屋は,東側(江戸側)に通り土間を設け、西側(京都側)に部屋を三列に並べる間取りを持つ。職人の町家は二列型を基本とし、一列型のものも見られる。 名古屋市有松伝統的建造物群保存地区は,慶長13年の移住奨励による集落の成立から現在まで、絞り染めを産業として継続し、東海道の旧の幅を残しながら、意匠<いしょう>に優れた大規模な主屋や土蔵を有する絞商の豪壮な屋敷構えと諸職の町家が混在して建ち並ぶ、特色ある歴史的風致<ふうち>を良く伝え、我が国にとって価値が高い。 (文化庁の報道発表資料より転載。一部加筆) |
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関宿 (亀山市) 【旧関町】 せきじゅく (かめやまし) 亀山市観光協会 ここだよ★ |
三重県 | 伝建地区:関まちなみ資料館,関宿旅籠玉屋歴史資料館,伊藤本陣跡,会津屋洋館屋,御馳走場,山車倉,百六里庭・眺関亭(小公園),地蔵院,東追分,西追分,橋爪家,鶴屋,開雲楼・松鶴楼,百五銀行,延命寺(旧川北本陣の門),福蔵寺(旧脇本陣の門),宝林寺,弘善寺,瑞光寺,浄安寺,誓正寺,長徳寺,観音院,関神社,高札場跡 伝建協加盟(宿場町) 亀山市関宿伝統的建造物群保存地区 (伝建52・かめやましせきじゅく) 昭和59年12月10日選定 旧東海道に沿う東西約1.8㎞の帯状の町並みで、東の追分から西の追分に至る木崎町、中町、新所町には約380軒の建物が建っている。木崎の町屋は平屋又は中二階の比較的低いものが多い。中町は宿場の中枢的施設が集中した地区で、特色ある町屋が残されている。新所の家々には格子や庇の幕板などの伝統的な細部意匠が比較的よく残されている。 |
坂本 (大津市) さかもと (おおつし) 大津市観光協会 ここだよ★ |
滋賀県 | 伝建地区:旧白毫院(芙蓉園本館),滋賀院門跡,佛乗院,宝積院,雙厳院,旧竹林院,律院,蓮華院,実蔵坊,寿量院,慈眼堂,生源寺,日吉東照宮,大将軍神社,穴太衆積み<あのうしゅうづみ>の石垣,日吉馬場,権現馬場,御殿馬場 伝建協加盟(里坊群・門前町) 大津市坂本伝統的建造物群保存地区 (伝建53・おおつしさかもと) 平成9年10月31日選定 比叡山の東麓に位置する地区で、東西に通じる梅辻通、日吉の馬場、御殿の馬場、権現の馬場に沿って里坊が広がっている。里坊は、道路に面して門を構え、穴太衆積みの石垣と塀あるいは生垣に囲まれ、建物は奥まった所に建てられている。 |
八幡 (近江八幡市) はちまん (おうみはちまんし) 近江八幡市観光物産協会 ここだよ★ |
伝建地区:市立資料館,旧西川家住宅,歴史民俗資料館,旧伴家住宅,八幡堀,お願い地蔵,かわらミュージアム,ポーダレスアートギャラリーNO-MA,日牟禮<ひむれ>八幡宮 伝建協加盟(商家町) 近江八幡市八幡伝統的建造物群保存地区 (伝建54・おうみはちまんしはちまん) 平成3年4月30日選定 約1.6㎞のコの字型の町並みで、建築物は江戸・明治のものが1/4を占めている。町屋の外観枠組は、平屋・中二階・高二階の三種の町屋のタイプの他、むしこ町屋邸宅風住居等があり、それぞれ固有の特性を有している。この他、洋風建築物や寺社建築物等がある。保存地区の町並み景観は碁盤目状街路となっている。 「近江八幡の水郷」重要文化的景観 (重文景1・おうみはちまんのすいごう・詳細はこちら) |
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五個荘金堂 (東近江市) 【旧五個荘町】 ごかしょうこんどう (ひがしおうみし) 東近江市観光協会 ここだよ★ |
伝建地区:近江商人屋敷・外村繁文学館,近江商人屋敷・旧外村宇兵衛家住宅,あきんど大正館・旧中江正次家住宅,大和郡山藩金堂陣屋跡,弘誓寺<ぐぜいじ>,勝徳寺,金堂馬場石造五輪塔,金堂廃寺跡,大城神社 伝建協加盟(農村集落) 東近江市五個荘金堂伝統的建造物群保存地区 (伝建55・ひがしおうみしごかしょうこんどう) 平成10年12月25日選定 東西約600m、南北約500mの範囲で、繖山<きぬがさやま>の麓にあり、平野部には古代神崎郡条里制に基づく地割が残っている。金堂地区には陣屋を中心としてその三方に寺院が配置され、その周囲に民家と田畑が広がる農村集落が形成されている。また、江戸後期から昭和前期にかけての近江商人の本宅群や伝統的な農家住宅を見ることが出来る。 |
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河原町・芹町 (彦根市) かわらまち・せりまち (ひこねし) 彦根観光協会 ここだよ★ |
伝建地区:旅館とばや,ひこね街の駅寺子屋力石,ひこね街の駅戦国丸,布屋市兵衛,西川たばこ店,大雲寺,妙源寺 伝建協加盟(商家町) 彦根市河原町芹町地区伝統的建造物群保存地区 (伝建56・ひこねしかわらまちせりまちちく) 平成28年7月25日選定 彦根市は滋賀県の北東部、琵琶湖東岸に位置する。保存地区は、旧の城下町の南東隅に形成されたかつての町人地<ちょうにんち>である。城下町と中山道、さらには東方の農村部及び山間部を結ぶ芹川<せりかわ>北岸の往来に沿った町並みで、北から江戸時代の河原町<かわらまち>、袋町<ふくろまち>、安清町<やすきよちょう>、善利新町<せりしんまち>にあたる。 彦根の城下町は、元和<げんな>期(1615~1624)に三重の堀を巡らす城下の骨格が定まり、寛永<かんえい>期(1624~1644)にかけて城下町も整備されるが、河原町は元和4年(1618)以前、南端の善利新町も寛永18年(1641)には成立したとされる。 保存地区は、ゆるやかにS字を描く幅二間程度の往来に沿った約780mの範囲である。所々に不整形の敷地を見せながら、短冊形<たんざくがた>に割られた敷地が並び、芹川の流路を付け替えて城下町を整備した名残を、現在の地割りによく残す。 この往来に沿って、切妻造<きりづまづくり>、瓦葺<かわらぶき>、二階建とする伝統的な町家が建ち並ぶ。二階をつし二階として虫籠窓<むしこまど>を備えるものが多く、袖うだつを設けるものもある。片側を土間とし、部屋を一列もしくは二列に並べる間取りが大半で、二列の場合には土間側の一列を幅一間とするのが特徴である。 敷地に合わせて不整形に建てる町家や、近代以降も商業地として栄えた様相を伝える銀行等の近代建築、表構えを洋風に改造した町家等が、町並みに変化を与えている。 彦根市河原町芹町地区伝統的建造物群保存地区は、江戸時代前期に河川を付け替えて形成された城下町の特徴ある地割りを良く伝えるとともに、街路に沿って江戸時代から昭和戦前期にかけて建てられた町家等を良く残し、商家町としての歴史的風致を良く示すことから、我が国にとって価値が高い。 (文化庁の報道発表資料より転載。一部加筆) |
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上賀茂 (京都市北区) かみがも (きょうとし) 京都市観光協会 ここだよ★ 保存計画 |
京都府 |
伝建地区:明神川沿いの社家<しゃけ>の町並み(西村家庭園),藤木社<ふじのきのやしろ> 伝建協加盟(社家町) 京都市上賀茂伝統的建造物群保存地区 (伝建57・きょうとしかみがも) 昭和63年12月16日選定 東西約300m、南北約100mの範囲で、明神川に架かる土橋、川沿いの土塀、社家の門、妻入りの社家、土塀越しの庭の緑、これらが一体となって江戸期にできた社家町の貴重な歴史的風致を形成している。 |
産寧坂 (京都市東山区) さんねいざか (きょうとし) 京都市観光協会 ここだよ★ |
伝建地区:法観寺(八坂塔),金剛寺,春光院,円徳院,月真院,三面大黒天,西行院,大雲院,西向院,石塀小路,二年坂,八坂通,ねねの道,清水三年坂美術館 伝建協加盟(門前町) 京都市産寧坂伝統的建造物群保存地区 (伝建58・きょうとしさんねいざか) 昭和51年9月4日選定 東西約200m、南北約600mの範囲で、八坂ノ塔(法観寺)、高台寺などの由緒ある社寺建築物、産寧坂、二年坂の石段と折れ曲がった石畳の坂道、そしてこの道に沿って建ち並ぶ江戸時代末期から大正時代にかけての町家などが一体となってすぐれた歴史的風致を形成している。 |
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祇園新橋 (京都市東山区) ぎおんしんばし (きょうとし) 京都市観光協会 ここだよ★ |
伝建地区:辰巳大明神,新橋 伝建協加盟(茶屋町) 京都市祇園新橋伝統的建造物群保存地区 (伝建59・きょうとしぎおんしんばし) 昭和51年9月4日選定 新橋通りを中心とした東西約160m、南北約100mの範囲で、主として江戸末期から明治初期にかけての質の高い洗練された町家が整然として建ち並び、さらに美しい流れの白川や石畳、樹木などと一体となってすぐれた歴史的風致を形成している。 |
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嵯峨鳥居本 (京都市右京区) さがとりいもと (きょうとし) 京都市観光協会 ここだよ★ |
伝建地区:京都市嵯峨鳥居本町並み保存館 伝建協加盟(門前町) 京都市嵯峨鳥居本伝統的建造物群保存地区 (伝建60・きょうとしさがとりいもと) 昭和54年5月21日選定 嵯峨野の西北愛宕街道に沿った長さ約600mの範囲で、中ほどにある化野念仏寺を境として上地区と下地区に分けると愛宕神社の一の鳥居に近い上地区は主としてかや葺の農家風、下地区は町家風の建物が周囲の美しい自然景観を背景に建ち並び、すぐれた歴史的風致を形成している。 |
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美山町北 (南丹市) 【旧美山町】 みやまちょうきた (なんたんし) かやぶきの里 北村 ここだよ★ |
伝建地区:民俗資料館,小さな藍美術館,かやぶき交流館,普明寺,知井八幡宮,鎌倉社,稲荷社 伝建協加盟(山村集落) 南丹市美山町北伝統的建造物群保存地区 (伝建61・なんたんしみやまちょうきた) 平成5年12月8日選定 由良川の北側河岸段丘地に形成された東西約700m、南北約360mの範囲の山村集落で、全世帯の半数以上が茅葺き民家。敷地南側が石垣で固めた家々が続いている。 |
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伊根浦 (伊根町) いねうら (いねちょう) 伊根町観光協会 ここだよ★ |
伝建地区:伊根の舟屋群,舟家の里公園,日恩寺,大乗寺,海蔵寺,正法寺,八坂神社,慈眼寺,海福寺,七面堂,阿宇根神社,蛭子神社(青島) 伝建協加盟(漁村集落) 伊根町伊根浦伝統的建造物群保存地区 (伝建62・いねちょういねうら) 平成17年7月22日選定 東西約2650m、南北約1700mの範囲で、伊根湾に面する地区と、その背後に広がる魚付林、湾口に位置する青島とそれらに囲まれた伊根湾を含む。海岸沿いに連続して建つ舟家群の舟家は、切妻造妻入で、かつては葦葺だった。海側に船を直接引き入れるための石敷きの斜面を設けている。上部は網を干したり漁具等を格納するために用いられる。 |
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加悦 (与謝野町) 【旧加悦町】 かや (よさのちょう) 与謝野町観光協会 ここだよ★ |
伝建地区:旧尾藤家住宅,杉本家住宅,伊藤医院,旧加悦町役場庁舎,実相寺,吉祥寺,宝厳寺,ちりめん街道 伝建協加盟(製織町) 与謝野町加悦伝統的建造物群保存地区 (伝建63・よさのちょうかや) 平成17年12月27日選定 加悦町は京都府北部の丹後半島の付け根に位置する。古代よりこの地は加悦谷と称され、丹後と畿内を結ぶ交通の要衝であったが、中世にはすでに絹織物の産地として確立していたと考えられる。現在の加悦は、天正8年(1580)に有吉立言<ありよしたつのぶ>が安良城<やすらじょう>を築城した際に、新たな城下町を建設したことに始まる。しかしわずか3年後には城下町としての役割を終え、加悦谷における商工業の中心地としての道を歩むこととなる。享保7年(1722)に京都西陣から縮緬織<ちりめんおり>の技術が伝えられると、丹後縮緬の製織町として発展を遂げていく。現在では縮緬の生産量は最盛期の8分の1まで減少したが、今なお地区の各所で機音<はたおと>を響かせており、絹織物の主生産地としての地位を維持し続けている。 保存地区は東西240m、南北630mの範囲であり、街道がクランク状に折れ曲がる城下町特有の地割をよく残している。街道に面して建てられた主屋<しゅおく>は切妻造平入二階建で、間取りは通り土間と正面側にミセノマ(店の間)とザシキ(座敷)、背面側にダイドコロ(台所)とナンド(納戸)の居室4室を配する。一階正面はかつて織機を設置していたミセノマ(店の間)前面をハタヤマド(機屋窓)と称する腰高窓、あるいは少し高い格子窓とし、ザシキ(座敷)前面は腰の高さほどの間仕切をつける。また、地区内には縮緬工場や織工達の宿舎など縮緬関連施設も各所に残されている。 加悦町加悦伝統的建造物群保存地区は、近世から昭和初期に建てられた主屋や土蔵、縮緬工場などが一体となって丹後縮緬の製織町としての特色ある歴史的風致を今日によく伝え、我が国にとって価値が高い。 (文化庁の報道発表資料より転載。一部加筆) |
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富田林 (富田林市) とんだばやし (とんだばやしし) 富田林市観光協会 富田林・寺内町の探訪 ここだよ★ |
大阪府 | 伝建地区:じないまち交流館,寺内町センター,旧杉山家,仲村家,越井家,奥谷家,佐藤家,田守家,杉田家,葛原家,橋本家,木口家,浄谷寺,妙慶寺,興正寺別院,嶋田家,中内眼科医院,中井家,上野家,勝間家,北野家,松井家,薬師堂,富栄戎,岩永橋跡 浄谷寺,松井春峰堂 伝建協加盟(寺内町) 富田林市富田林伝統的建造物群保存地区 (伝建64・とんだばやししとんだばやし) 平成9年10月31日選定 東西約400m、南北約400mの範囲で、町割りは、六筋七町を整然と区画し、周囲には土塁を巡らし、背割り水路を完備し、汚水は堀へ流していた。街路はほとんどが土塁で止まり、会部からの出入りは、と移動の道筋に当たる4ヶ所の口に限られていた。江戸時代に入ると周辺農村と経済関係を密接に持つ在郷町として発展した。 平成30年8月17日追加選定 富田林市は、大阪府南東部、南河内<みなみかわち>地域に位置し、市域中央に石川が流れる。富田林は、永禄年間の初めに真宗興正派<しんしゅうこうしょうは>興正寺別院を核とする寺内町<じないまち>が、石川左岸の河岸段丘<かがんだんきゅう>上に建設されたことを始まりとする。江戸時代には多様な職種が集まる在郷町<ざいごうまち>として栄え、江戸後期には木綿商<もめんしょう>や酒造業が発達して近江<おうみ>や紀伊、江戸等に販路を広げた。明治以降も郡役所や町役場が置かれるなど南河内の中核であったが、昭和期の市街地拡大に伴い周辺駅の付近に商業施設や公共施設が移ると、住宅地としての性格を強めて今日<こんにち>に至る。 平成9年10月には、旧寺内町のうち西側の一部を除く11ヘクタールが重要伝統的建造物群保存地区に選定された。今回追加選定するのは、既選定保存地区の西側に続く約1.9ヘクタールの範囲で、富田林市が平成25年8月にこの範囲内の都市計画道路を廃止し、平成30年3月に伝統的建造物群保存地区として地区決定したことに伴う。 追加選定後の保存地区には、寺内町の骨格を引き継ぐとされる東西7町・南北6筋の町割が全体として良好に残り、その周囲には地形の特徴を伝える土居<どい>跡や石垣を見せる。規則的に区画された街区には背割水路<せわりすいろ>が随所<ずいしょ>に残り、寺内町の成立と発展を伝える興正寺別院(本堂ほか5棟が重要文化財)、妙慶寺、浄谷寺の3寺院が江戸時代の寺観を表す。江戸時代前期の建築とみられる旧杉山家住宅(主屋<しゅおく>が重要文化財)をはじめとする本瓦葺<ほんがわらぶき>、大壁造<おおかべづくり>の重厚な商家から昭和中期の真壁造<しんかべづくり>の町屋主屋や長屋まで、伝統的な町屋が軒を連ね、時代の特徴を示す近代の建築等が所々で町並み景観に変化を与える。 富田林市富田林伝統的建造物群保存地区は、中世末期に形成された寺内町の骨格を引き継ぎながら、江戸時代には在郷町として、近代には南河内の中核都市として発展した歴史的市街地である。本瓦葺、大壁造の重厚な商家をはじめ、江戸時代から昭和中期までの各時代の特徴を成す町家や寺院等が一体となり、寺内町を起源とする特色ある歴史的風致を良好に伝え、我が国にとって価値が高い。 (文化庁の報道発表資料より転載。一部加筆) |
北野町山本通 (神戸市) きたのちょうやまもとどおり (こうべし) 神戸観光局 異人館ネット ここだよ★ |
兵庫県 | 伝建地区:風見鶏の館,萌黄の館,香りの家オランダ館,本家オランダ館,プラトン装飾美術館(イタリア館),バラスティン邸,旧パナマ領事館,ラインの館,神戸北野美術館,英国館,仏蘭西館,ベンの家,シュウエケ邸,史跡三本松,浄服寺,北野天満神社,桂由美ブライダルミュージアム 伝建協加盟(港町) 神戸市北野町山本通伝統的建造物群保存地区 (伝建65・こうべしきたのちょうやまもとどおり) 昭和55年4月10日選定 東西約800m、南北約120mの範囲で、開港当時、六甲山麓の南斜面に位置する農村だったが、昭和20年代頃、外国人居留地に近かったことから、外国人住宅としての異人館などの洋風建築物が数多く建てられた。 |
出石 (豊岡市) 【旧出石町】 いずし (とよおかし) 豊岡観光協会 但馬國出石観光協会 ここだよ★ 保存計画 |
伝建地区:出石城跡,辰鼓楼<しんころう>,出石史料館,出石明治館,伊藤清永美術館,出石家家老屋敷,桂小五郎潜居跡,如来寺,昌念寺,本高寺,高福寺,西方寺,本覚寺,勝林寺,福成寺,真覚寺,諸杉神社,川下神社,八坂神社,金刀比羅神社 伝建協加盟(城下町) 豊岡市出石伝統的建造物群保存地区 (伝建66・とよおかしいずし) 平成19年12月4日選定 豊岡市は兵庫県の北東部に位置する。市域の南東部にある出石は、出石川と東の山塊から流れ出る谷山川との合流部付近に位置し、有子山<ありこやま>を背にして北に広がっている。 現在の出石は、慶長9年(1604)頃、小出吉英<こいでよしふさ>が出石城を築城するとともに城下町を整備したことにはじまる。明治9年には大火が発生したが程なく復興を遂げるなど、出石は出石郡における行政、商工業の中心として機能し続け、現在に至る。 保存地区は南北約600m、東西約620mの範囲で、近世の出石城跡とその城下町のうち、町人地の大部分と旧武家地の一部を含んだ地域である。出石城をはじめとして、街路や町人地における敷地の間口割も文化7年(1810)の絵図の記載と同じく間口二~三間が多く見られるなど、城を含む城下町全体として近世後期の地割をよく維持している。比較的奥行きの深い短冊状の敷地には、街路に面して主屋<しゅおく>が建てられる。主屋は、切妻造平入で瓦葺き、片側に通り土間を設け、それに沿って表からミセ、ナカノマ、ザシキと並ぶ一列三間取りの平面を基本とする。 豊岡市出石伝統的建造物群保存地区は、出石城跡をはじめとして、近世後期における城下町の町割や敷地の間口割をよく残すとともに、近世から近代に建てられた町家や寺社建築、武家屋敷など、但馬地方における城下町の歴史的風致を今日に良く伝えており、我が国にとって価値が高い。 (文化庁のプレス発表資料より転載。一部加筆) |
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篠山 (丹波篠山市) ささやま (たんばささやまし) 篠山市観光情報 ここだよ★ |
伝建地区:篠山城址,篠山城大書院,お徒士町<おかちまち>武家屋敷群,武家屋敷安間家<あんまけ>史料館,小林家長屋門,丹波古陶館,能楽資料館,河原町妻入商家群,青山神社(城址内),篠山藩校跡,三の丸美術館,真福寺,本経寺,観音寺 伝建協加盟(城下町) 丹波篠山市篠山伝統的建造物群保存地区 (伝建67・たんばささやましささやま) 平成16年12月10日選定 東西約570m、南北約510mの篠山城を中心としてエリアと東に隣接する東西約900mと南北120mの範囲で、武家地や商人地の地割りを残し、武家屋敷や商家、寺院などの城下町の要素も残している。 令和2年12月23日名称変更 (旧名称)篠山市篠山伝統的建造物群保存地区 令和元年5月1日 篠山市→丹波篠山市へ市名変更 |
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福住 (丹波篠山市) ふくすみ (たんばささやまし) 篠山市観光情報 ここだよ★ |
伝建地区:観音寺,阿弥陀寺,住吉神社 伝建協加盟(宿場町・農村集落) 丹波篠山市福住伝統的建造物群保存地区 (伝建68・たんばささやましふくすみ) 平成24年12月28日選定 篠山市は、兵庫県東部の山間部に位置する。当地方は、戦国期には八上城<やがみじょう>に居を構えた波多野氏領であったが、慶長14年(1609)に領主となった松平康重が八上城を廃し、篠山に城を築いた。城下町は、現在の市域のほぼ中央にある篠山盆地に位置し、一部が平成16年に重要伝統的建造物群保存地区に選定されている。 保存地区は、篠山城下の東、篠山から京都に向かう旧西京 街道<さいきょうかいどう>沿いに位置し、福住、川原、安口、西野々の四集落からなる。このうち福住は、江戸時代に宿場町として整備された。一方、川原<かわら>、安口<はだかす>、西野々<にしのの>は宿場町の外で、宿場の機能を補完する農村集落であったと考えられる。 保存地区は、東西約3260m、南北約460mの範囲、東西に流れる籾井川<もみいがわ>南岸に旧西京街道が通り、街道に沿って西から福住、川原、安口、西野々の各集落が形成される。集落は、籾井川に直交する谷付近に形成され、周辺に田園が展開し、谷奥の溜池から籾井川に 水路を設けて灌漑<かんがい>施設としている。 福住では、宿場町のほぼ中央に本陣、西端に脇本陣が配され、旧西京街道に面して町並みが形成される。敷地は街道に沿って短冊形<たんざくじょう>に配される。川原、安口、西野々でも、街道に沿って敷地が並ぶが、福住に比べて、奥行きが浅い。宿場町では街道に面して主屋<しゅおく>が建てられるが、宿場町以外では、街道と主屋の間に庭を設けるものがある。 主屋は、つし二階建、瓦葺、若<も>しくは平屋建、茅葺(現在は鉄板葺)とする。福住の旧西京街道沿いの宿場町では瓦葺とするものが主で、他では瓦葺又は茅葺の建物が混在し、特徴ある町並みを形成している。敷地内には主屋の他に、離れ、納屋、土蔵などが建つ。 篠山市福住伝統的建造物群保存地区は宿場町として発展した町並みと、街道沿いに形成された特徴ある農村に、妻入を主体としたつし二階建瓦葺や平屋建茅葺の伝統的建造物が、周囲の田園及び特徴ある灌漑施設等の環境と一体となって、宿場町と それに隣接する農村集落の歴史的風致を良く伝え、我が国にとって価値が高い。 (文化庁の報道発表資料より転載。一部加筆) 令和2年12月23日名称変更 (旧名称)篠山市福住伝統的建造物群保存地区 令和元年5月1日 篠山市→丹波篠山市へ市名変更 |
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大屋町大杉 (養父市) おおやちょうおおすぎ (やぶし) やぶ市観光協会 ここだよ★ |
伝建地区:大福寺,二ノ宮神社,木彫展示館,但馬古民家の宿大屋大杉,分散ギャラリー養蚕農家 伝建協加盟(山村・養蚕集落) 養父市大屋町大杉伝統的建造物群保存地区 (伝建69・やぶしおおやちょうおおすぎ) 平成29年7月31日選定 大杉は、兵庫県の北部、但馬<たじま>地域屈指の養蚕<ようさん>地帯であった大屋川流域の山村集落である平地が少なく、冬は雪も多い大屋川流域では、古くから養蚕や家内製糸<かないせいし>が副業として営まれた。18世紀後期には生糸<きいと>の品質が向上して丹後<たんご>ちりめんの原料糸となり、横浜港開港後は輸出用生糸としても売られた。群馬県内で考案された養蚕技法が、大屋川流域に広まる明治中期には、但馬地域でも器械製糸が発達して養蚕と製糸の分業が進んだため、大杉でも繭<まゆ>の生産量拡大に力を注ぎ、明治後期から昭和前期にかけて養蚕の最盛期を迎えた。 保存地区は、大杉の集落のうち、大屋川左岸に立地する約5.8ヘクタールの範囲である。大屋川に流れ込む谷川が成<な>す狭小<きょうしょう>な扇状地<せんじょうち>に家を集め、その周辺には耕作地を設け、谷川沿いには棚田<たなだ>を築く。谷川からは水路を引いて、生活用水を配し、各所に洗い場を設ける。 主屋<しゅおく>は二階建又は三階建の切妻造<きりづまづくり>、桟瓦葺<さんがわらぶき>で、江戸後期の茅葺<かやぶき>民家に、明治後期以降、蚕室<さんしつ>とする二階や三階を増築したもの、または、その形式に倣<なら>って新築したものが多い。蚕室は蚕棚<かいこだな>の規模に合わせて造るため、どの建物も、二階と三階の階高<かいだか>がほぼ同じとなる。屋根には越屋根<こしやね>を設け、壁四面に窓を並べて通気性を高める。窓は、蚕室を清潔に保つため、床面まで窓枠<まどわく>を下げた縦長の形状とする。外壁は二階以上を土で塗り籠<ご>める。このような特徴を持つ農家主屋の中でも、特に三階建がまとまって残り、独特の景観を成す。 養父市大屋町大杉伝統的建造物群保存地区は、但馬地域山間部の厳しい自然環境の中で養蚕を発展させるために成立した木造三階建の特色ある農家主屋が、谷川の水を生かした集落の構成を留<とど>めながら、社寺建築<しゃじけんちく>、石垣<いしがき>、水路等と共に地方色豊かな歴史的風致を良く伝え,我が国にとって価値が高い。 (文化庁の報道発表資料より転載。一部加筆) |
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龍野(たつの市) たつの(たつのし) たつの市観光協会 ここだよ★ |
伝建地区:善竜寺,如来寺,本行寺,法雲寺,竜宝寺,円覚寺,圓円寺,源徳寺,光善寺,大師堂,白髭稲荷,うすくち龍野醤油資料館,ヒガシマル醤油,末廣醤油,カネヰ醤油,野村家住宅,旧中川邸,小林家土蔵,旧龍野醤油同業組合事務所 伝建協加盟(商家町・醸造町) たつの市龍野伝統的建造物群保存地区 (伝建70・たつの市たつの) 令和元年12月23日選定 たつの市は兵庫県西南部の西播磨<にしはりま>地方に位置する。たつの市のほぼ中央、古代から西播磨の中心地であった龍野は、戦国時代に赤松氏が揖保川<いぼがわ>西岸にある鶏籠山<けいろうざん>の山頂に城を築いて居城とした。城の南の狭小<きょうしょう>な平野には16世紀末までに町並みが成立していたとみられ、江戸時代になると山裾<やますそ>に城が移され、城下町が形成された。龍野は、江戸時代を通じて西播磨の政治経済の中心地として栄え、17世紀後半に醤油醸造が始まって以降は、醸造業を中心に発展し、近代以降も醤油醸造を主産業として栄えた。 保存地区は、城下町のうち、旧町人地の主要部を含む範囲で、江戸時代から昭和戦前期にかけて建てられた伝統的建造物が良好に残る。敷地の間口いっぱいに建つ主屋は、切妻造<きりつまづくり>、平入<ひらいり>を基本とし、近世はつし2階建の本 瓦葺<ほんがわらぶき>が多く見られるが、近代になると桟瓦葺<さんがわらぶき>が主となり、明治中期以降には本2階建のものが増える。平面は、通り土間に沿って3室を1列に並べるものが主体を占め、間口の大きい家では2列となる。1階は、古くは出格子<でごうし>を構<かま>えるものや、全面を引戸とするものが見られ、大正以降になると、腰壁<こしかべ>を設けて 格子窓<こうしまど>とする形式が多くなり<、同形式への改修も進んだ。2階は大壁<おおかべ>を基本とし、虫籠窓<むしこまで>や出格子窓のほか、金属格子をはめるもの、近代になるとガラス窓なども現れる。主屋以外には、門や敷地の周囲を囲む高塀などもみられる。保存地区には、醤油醸造に伴う長大な土蔵造の建物や洋風建築等の醸造関連施設もみられ、近世から近代にかけて発展した醸造町の歴史的風致を形成する。 たつの市龍野伝統的建造物群保存地区は、16世紀末までに龍野城下に形成され、近世以降、醤油醸造の一大産地に発展した町である。江戸時代に形成された町割<まちわり>を残すと ともに、軒<のき>が低く大壁造の古式な町家や醸造等に関わる重厚な土蔵等がよく残り、中世を起源とする西播磨の城下町としての歴史的風致をよく伝え、我が国にとって価値が高い。 (文化庁の報道発表資料より転載。一部加筆) |
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今井町 (橿原市) いまいちょう (かしはらし) 橿原市観光協会 ここだよ★ |
奈良県 | 伝建地区:今井まちや館,今井まちづくりセンター,今井景観支援センター,中町筋生活広場,南町生活広場,旧北町生活広場,北環濠小公園,今井家住宅,豊田家住宅,中橋家住宅,上田家住宅,音村家住宅,旧米谷家住宅,河合家住宅,高木家住宅,吉村家住宅,山尾家住宅,称念寺,順明寺,旧常福寺,旧環濠,北尊坊門跡,蓮妙寺,西光寺,八幡神社,春日神社,ソブ井 伝建協加盟(寺内町・在郷町) 橿原市今井町伝統的建造物群保存地区 (伝建71・かしはらしいまいちょう) 平成5年12月8日選定 東西約600m、南北約310mの範囲で、旧環濠内には現在760軒の家があるが、そのうち約6割が伝統的な民家や商家となっている。町並みは、軒の線がほぼ揃っていて、本瓦葺又は桟瓦葺の屋根が道路沿いに続いている。街区及び敷地割は、今井町が成立した室町時代後期に形成されたものを残している。中心部の主要道路は東西に通り、各家の主屋<しゅおく>はこの道路に接して建てられている。 |
五條新町 (五條市) ごじょうしんまち (ごじょうし) 五條市観光協会 ここだよ★ |
伝建地区:まちなみ伝承館,木村篤太郎生家(まちや館),栗山邸(国・重要文化財),栗山邸(市・文化財),赤根屋半七宅跡,松倉重政頌徳碑,称念寺,律宗講御堂寺,寶満寺,西方寺,二見神社,御霊神社 伝建協加盟(商家町) 五條市五條新町伝統的建造物群保存地区 (伝建72・ごじょうしごじょうしんまち) 平成22年12月24日選定 五條市は奈良県中西部、大和盆地の南西に位置し、北は大阪府、西は和歌山県に接する。 市街地の大部分は市域北部を西流する吉野川(紀ノ川)北岸に広がる。 この一帯は、古くより大和と紀伊・伊勢を結んだ交通の要衝で、関ヶ原の戦い後は、慶長13年(1608)に松倉重政<まつくらしげまさ>が一万石で入部し、五條二見藩が成立した。 この頃、現在の五條の地では、既に町場が成立していたとみられ、この町場と二見城を結ぶ直線道路に沿って町割が実施されたのが新町である。元和2年(1616)、重政が肥前日之江城へ転封<てんぽう>されると、その後は天領に編入された。 江戸時代を通じて五條と新町は伊勢街道沿いの宿駅として賑わい、五條代官所の設置以降は、金融業等で栄え、南大和<みなみやまと>地域の中心的な商家町として繁栄した。街道沿いには江戸時代を通じて漆喰塗込めの重厚な町家が建てられ、吉野川沿いの敷地背面では、川の氾濫に備えて石垣が築かれた。 保存地区は東西約770m、南北約100mの範囲で、地区内には、慶長12年の重要文化財(建造物)栗山家住宅をはじめ、江戸時代から昭和戦前期に至る各時代の町家が残り、伊勢街道沿いに残る寺社とともにまとまりある町並みを形成している。 町家の主屋<しゅおく>は、切妻造、平入が基本で、本瓦もしくは桟瓦を葺き、江戸時代のものは登り梁を用いた「つし二階建」が多い。外壁は軒裏まで漆喰で塗込めた大壁造とし、両袖に袖壁を持つものもある。吉野川沿いに面した街道南側の敷地では、背面に石垣を築き、町並みを特徴づける川沿いの景観を形成している。 五條市五條新町伝統的建造物群保存地区は、近世前期までに成立した町割を良く残し、江戸時代の重厚な町家が多く建ち並ぶ密度の高い町並みを形成し、南大和地域に栄えた商家町としての歴史的風致を今日に良く伝え、我が国にとって価値が高い。 (文化庁の報道発表資料より転載。一部加筆) |
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松山 (宇陀市) 【旧大宇陀町】 まつやま (うだし) 宇陀松山観光案内 ここだよ★ |
伝建地区:宇陀市大宇陀歴史文化館「薬の館」(旧細川家住宅),松山地区まちづくりセンター「千軒舎」(旧内藤家住宅),大宇陀福祉会館,植田家住宅,旧福田医院,森田家住宅,竹田家住宅,山邊信一家住宅,川尾家住宅,好岡家住宅,山邊義徳家住宅,都司家住宅,黒川本家,林家住宅,森岡家住宅,久保酒造,芳村酒造,慶恩寺,黒門,宇陀恵毘須神社,まちなみギャラリー「石景庵」,神楽岡神社,松山城跡,春日神社,法正寺,長隆寺,森野旧薬園 伝建協加盟(商家町) 宇陀市松山伝統的建造物群保存地区 (伝建73・うだしまつやま) 平成18年7月5日選定 宇陀市は奈良県北東部の宇陀山地に所在し、比較的なだらかな丘陵と山間部からなる。現在の松山は、近世初頭に松山城と宇陀川との間の地域が整備された時の町割をもとにしている。宇陀紙<うだがみ>や吉野葛<よしのくず>といった周辺地域の特産物を販売するとともに、地域経済の中心として栄えた松山には、活発な経済活動を示す町家が数多く建てられた。 保存地区は東西約340m、南北約1470mの範囲で、宇陀川に沿って緩やかなカーブを描いて南北に延びる道筋に建物が連続し、近世初頭に築かれた水路が通る。主屋は、切妻造平入、中2階建あるいは2階建で、間口は3間から5間と比較的規模が大きい。1階正面外観を意匠の凝った格子とし、2階正面に様々な形状の虫籠窓<むしこまど>が穿<うが>たれたものが多い。漆喰<しっくい>仕上げの外壁は、町並みに重厚な印象を与えている。 宇陀市松山伝統的建造物群保存地区は、近世城下における商家町から在郷町として発展し、近世から昭和前期までに建てられた意匠的に優れた町家をはじめ土蔵や寺社などの建築物、石垣や水路などが一体となって歴史的風致を今日によく伝えており、我が国にとって価値が高い。 (文化庁のプレス発表資料より転載。一部加筆) |
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湯浅 (湯浅町) ゆあさ (ゆあさちょう) 湯浅町観光協会 紀州湯浅散歩 ここだよ★ |
和歌山県 | 伝建地区:醤油資料館,麹資料館,ふれあいギャラリー,甚風呂,大仙堀,北恵比須,本勝寺 伝建協加盟(醸造町) 湯浅町湯浅伝統的建造物群保存地区 (伝建74・ゆあさちょうゆあさ) 平成18年12月19日選定 湯浅町は和歌山県紀中<きちゅう>北部に位置し、紀伊水道に臨む。古くは東側の丘陵地が湯浅の中心であったが、室町後半に西方の海側へ広がり、16世紀末頃に熊野街道の西方から浜町あたりまでが開発された。中世に始まった醤油醸造は紀州藩の保護を受けて全国に販路を広げ、代表的な産物となるとともに、漁網や金山寺味噌ほかの製造販売など商工業も盛んで、藩内有数の商工業都市となった。 保存地区は東西約400m、南北約280mの範囲で、16世紀末頃に開発されたと考えられる。主要街路沿いには間口の広い町家や土蔵が並び、小路<しょうじ>沿いには小規模な町家や長屋が建つ。敷地は、基本的に間口に対して奥行の深い矩形<くけい>の敷地が多い。敷地正面に主屋<しゅおく>が建ち、庭を介して離れや土蔵など付属屋が配される。主屋は切妻造平入<きりづまづくりひらいり>で、瓦葺<かわらぶき>とする。江戸から近代初頭の主屋においては、トオリニワ入口に片引大戸<かたびきおおど>、ミセに腰高<こしだか>の格子戸<こうしど>をたて、 庇<ひさし>に幕板<まくいた>を下<さ>げ、2階の大壁<おおかべ>には虫籠窓<むしこまど>を穿<うが>つ。 湯浅町湯浅伝統的建造物群保存地区は、醤油醸造など商工業を中心に発展した町であり、近世期の地割を残すとともに、近世から近代にかけての瓦葺町家と土蔵等で構成される重厚な歴史的風致をよく伝えており、我が国にとって価値が高い。 (文化庁のプレス発表資料より転載。一部加筆) |
打吹玉川 (倉吉市) うつぶきたまがわ (くらよしし) 倉吉観光マイス協会 ここだよ★ |
鳥取県 | 伝建地区:赤瓦一号館(醤油の仕込み蔵),赤瓦二号館(郷土玩具と桐下駄),赤瓦三号館(造り酒屋の蔵),赤瓦五号館(久楽・喫茶店),赤瓦六号館(桑田醤油醸造場),赤瓦七号館(元帥酒造本店),赤瓦十号館(観光案内所),赤瓦十一号館(陶芸館),倉吉ふるさと工芸館,ぎゃらりぃ和(日本産業貯蓄銀行倉吉支店),矢吹屋,高田酒造,まきた旅館,豊田家住宅,光明寺,大蓮寺,出雲神社倉吉分院,倉吉大店会,オークランド,玉川 伝建協加盟(商家町) 倉吉市打吹玉川伝統的建造物群保存地区 (伝建75・くらよししうつぶきたまがわ) 平成10年12月25日選定 東西約300m、南北約160mの範囲で、街路に沿って間口の狭い短冊状の屋敷地割が連なりも主屋<しゅおく>や土蔵などの建造物が残っている。また、玉川沿いには土蔵や醸造蔵に加え、門と通路を備えた裏門蔵などの土蔵群がある。 平成22年12月24日追加選定 倉吉市は鳥取県のほぼ中央部に位置し、市内には国衙や国分寺、国分尼寺の遺跡があり、古代の伯耆国<ほうきのくに>の中心であった。倉吉の地名は戦国時代の天正年間が史料上の初見で、この頃に打吹山城の城下として、町の骨格が形成されたと考えられる。江戸時代には鳥取藩の倉吉陣屋が置かれ、商工業都市として繁栄した。 平成10年12月に重要伝統的建造物群保存地区に選定された区域は、かつての陣屋跡北側の町人地に位置する。本町通りとその北側の新町通り、本町通りの東端で北に折れ曲がる堺町通り沿いに町家の主屋<しゅおく>が全体に密度濃く残り、本町通りと新町通りの間を流れる玉川沿いにも土蔵群や石橋が残る。 前回の保存地区決定の際から、本町通りが続く地区西側にも、伝統的建造物の集積があることが知られていたが、アーケードの架かる商店街であったこともあり、保存地区には含められなかった。平成19年にアーケードが撤去され、改めて見直し調査を行ったところ、現在も伝統的建造物がよく保存されていることが判明し、地区拡大の準備が整った。 今回の拡大によって保存地区は、東西約700m、南北約160mの範囲となり、旧倉吉陣屋周辺の町人地のうち東約3分の1を占めることとなった。既選定地区同様に、拡大される地区でも本町通りに沿って、江戸時代から近代にかけての町家が軒を連ね、本町通り北側を流れる玉川沿いには石橋や石垣が残る。 町家の主屋は、石州瓦の桟瓦葺・平入の形式を基本とし、江戸時代のものは前面二階の柱が一階より半間後退するが、明治期以降は前面柱を通し柱として、腕木庇を取り付ける。 庇前面は出桁の構えとし、腕木は海老虹梁型のものが使われ、意匠上の特徴になっている。 保存地区は、江戸時代から明治・大正期にかけて商工業都市として繁栄し、多様で質の高い意匠を持つ町家が建ち並ぶ本町通りの景観と、土蔵群と石橋が連続する玉川沿いの景観からなり、拡大された地区を含む全体として特色ある歴史的景観を良く伝え、我が国にとって価値が高い。 (文化庁の報道発表資料より転載。一部加筆) |
若桜 (若桜町) わかさ (わかさちょう) 若桜町観光協会 ここだよ★ |
伝建地区 伝建協加盟(商家町) 若桜町若桜伝統的建造物群保存地区 (伝建76・わかさちょうわかさ) 令和3年5月21日選定答申 若桜町は鳥取県南東部の八頭郡<やずぐん>に属し、若桜町のほぼ全域が山岳地帯に属する。町域の 南東から北西に流れる八東川<はっとうがわ>に沿って旧若桜街道と若桜鉄道が並走する。 当地は16世紀末から17世紀初頭にかけて若桜鬼ヶ城<わかさおにがじょう>城下町が整えられたとされるが、若桜が鳥取藩領となると一国一城令により若桜鬼ヶ城は廃城となる。元禄 <げんろく>14 年(1701)に若桜町は若桜宿と改められ、近世を通じて城下町としての骨格を残しつつ若桜街道の宿駅<しゅくえき>として人々の往来が続いた。近代以降も鳥取と姫路とを結ぶ交通の要所にある商業地としての機能を保持する。明治18年(1885)、若桜の町は大火に見舞われ、市街地のほぼ全域が焼失するが、直後に若桜宿外七ヶ村連合会は防火対策を盛り込んだ復興計画を議決し、これにより本通り(旧若桜街道)を直線化し、屋根葺材<やねふきざい>を不燃化する等、若桜の町並が整えられた。 保存地区は、大火を契機として整備された本通り沿いの範囲で、本通りに面して大火直後から昭和30年(1955)頃までに建てられた伝統的な町家が建ち、敷地背面側には土蔵が建ち並ぶ。北側には寺院群が配される。本通り両側と背割線<せわりせん>等に沿って八東川から取水した用水(カワ)が西流し、カワから分岐した水路(スイロ)を土間に通して敷地背面側のカワに排出するものや、正面に水汲<く>み場(イトバ)や貯水槽(ホリ)を整備するものもある。主屋<しゅおく>は二階建、切妻造<きりづまづくり>平入<ひらいり>の瓦葺<かわらぶき>又は鉄板葺<てっぱんぶき>、正面にカリヤと呼ばれる 庇<ひさし> を付す。 若桜町若桜伝統的建造物群保存地区は、若桜鬼ヶ城の城下町を起源とし、旧若桜街道沿いの宿場としての機能を持ちつつ近 郷<きんごう>の物資の集積地として栄えた商家町である。明治 18年(1885)の大火後に建てられた切妻造平入の伝統的な町家や、敷地背面側の土蔵等、防火を考慮 して形成された町並みが自然地形を生かした用水とともに良く残る。大火を経て復興した山陰地方山間部の商家町として歴史的な風致を良く伝える。 (文化庁の報道発表資料より転載。一部加筆) |
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所子 (大山町) ところご (だいせんちょう) 所子伝統的建造物群保存地区 ここだよ★ |
伝建地区:門脇家住宅,南門脇家住宅,美甘家<みかもけ>住宅,賀茂神社 伝建協加盟(農村集落) 大山町市所子伝統的建造物群保存地区 (伝建77・だいせんちょうところご) 平成25年12月27日選定 大山町は鳥取県の西部に位置し、南部には中国地方最高峰の大山<だいせん>が聳<そび>える。 所子の集落は、大山から日本海に注ぐ阿弥陀川河口から約1.7km上流の西にあり、川の水利を利用した田畑を生産基盤として発展した農村集落である。 所子は、中世には京都の加茂御祖神社<かもみおやじんじゃ>(下賀茂神社)の社領と伝えられ、近世には鳥取藩領となる。集落の中央には、坊領道<ぼうりょうみち>と呼ばれる大山への参詣道<さんけいみち>が、北西から南東に縦断する。坊領道に沿って北西と南西に家屋が塊状<かいじょう>になり、前者をシモ、後者をカミと呼ぶ。 保存地区は、東西約650m、南北約700mの範囲で、集落の周辺には圃場<ほじょう>整備されていない田畑が残り、伝統的な農村景観を良く残す。 各屋敷地は基本的に坊領道に面する。通りに面して開く門には、棟門形式<むなもんけいしき>のもののほかに、家畜用の厩舎<きゅうしゃ>や小屋等を建て、その間に入口を設けて長屋門<ながやもん>とするものもあり、特徴ある景観を形成する。 主屋は敷地のほぼ中央に建ち、通りに平行して棟<むね>を置く。主屋は切妻造<きりづまづくり>で、平屋<ひらや>又はつし二階とし、総二階建は少ない。屋根は桟瓦葺<さんがわらぶき>で、赤茶色の石州瓦<せきしゅうがわら>又は黒色の真子瓦<しんじがわら>が用いられる。石の棟を置くのが特徴的である。かつては、茅葺<かやぶき>であったが、現在は重要文化財に指定されている門脇家住宅主屋のみがその名残を残す。 蔵は土蔵造で、二階建とし、置屋根形式<おきやねけいしき>とする。土壁の外側には、カケドと呼ばれる養生<ようじょう>のための板が覆<おお>う。 保存地区は、重要文化財に指定されている門脇家住宅を始めとして近世から昭和初期にかけて建築された伯耆地方<ほうきちほう>の伝統的に形式を良く残す大規模な主屋と附属屋等からなる農家の群として残り、集落内を縦横<じゅうおう>に巡る水路、田畑等と一体となって、伝統的な農村景観を形成し、歴史的風致を良く残し、我が国にとって価値が高い。 (文化庁の報道発表資料より転載。一部加筆) |
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大森銀山 (大田市) おおもりぎんざん (おおだし) 大田市観光協会 ここだよ★ |
島根県 | 伝建地区:石見銀山資料館(代官所跡),向陣屋跡,御銀蔵跡,町並み交流センター,蔵泉寺口番所跡,石見銀山公園,下河原吹屋跡,熊谷家,岡家,青山家,旧河島家,柳原家,三宅家,阿部家,宗岡家,金森家,渡辺家,願龍寺,勝源寺,西性寺,妙蓮寺,観世音寺,妙正寺,西本寺,極楽寺,安養寺,清水寺,城上神社,井戸神社,豊栄神社 伝建協加盟(鉱山町) 大田市大森銀山伝統的建造物群保存地区 (伝建78・おおだしおおもりぎんざん) 昭和62年12月5日選定 東西約200m、南北約3㎞の範囲で、大森地区と銀山地区に分けられる。大森地区には伝統的な建造物が連続していて、史跡に指定されている建物などもある。伝統的建造物は1800年の大火以降の建築が大多数を占め、通りを中心に建物が連続し、町屋と武家が混在して、要所に寺院や神社がある。銀山地区は、近代に至るまで家並みが連なっていたが、鉱山の衰退で減少した。明治時代の建物を中心に伝統的な建造物が部分的に連続する他、旧地割を良く残すと共に寺社や石造遺跡などが多くある。 平成19年12月4日区域追加選定 石見銀山は14世紀初めに発見されたと伝え、16世紀前半に神屋寿禎<かみやじゅてい>が入山してから本格的に操業し、我が国屈指の大銀鉱山となった。江戸時代には周辺の村々を含め幕府直轄地となった。産銀量が最も多かったのは、17世紀の初頭とみられ、その後次第に減少しつつも幕末期まで継続して操業した。近代には民間経営となり、大正12年(1923)に閉山している。 既存の大田市大森銀山伝統的建造物群保存地区は、旧の大森町と銀山町の中心にあたる、山吹城跡の山麓から北の代官所跡周辺に至る約2.8kmの銀山川の谷間に細長く延びる町並みで、約32.8haが昭和62年に重要伝統的建造物群保存地区に選定された。 今回追加しようとする区域は、既選定地区の周辺約129.9haである。大部分は現在、町並み背後の緑豊かな山地となっているが、かつてはその中に農地や寺社、石切場などがあり、保存地区と密接な関わりがあった。また、同様に追加しようとする羅漢寺南東側の上佐摩下<かみさましも>地区は、明治20年代に道路が整備された後に出来た町並みであるが、明治から昭和前半にかけての伝統的様式を持つ町家が残り、既存地区内の羅漢町から連続した景観を有している。これらを併せて保存してゆこうとするものである。 本保存地区は、石見銀山に源を持つ町としてその形態と伝統的建造物群をよく残し、今回拡大しようとする周囲の豊かな自然環境や近代の町並みとともに特色ある歴史的風致を形成しており、我が国にとって価値が高い。 (文化庁のプレス発表資料より転載。一部加筆) 世界遺産 |
温泉津 (大田市) 【旧温泉津町】 ゆのつ (おおだし) 大田市観光協会 ここだよ★ |
伝建地区:旅館街,内藤豪商屋敷,ゆう・ゆう館,西念寺,金剛院,龍澤寺,西楽寺,恵珖寺,愛宕神社,龍御前神社,野口雨情詩碑,浅原才市の銅像 伝建協加盟(港町・温泉町) 大田市温泉津伝統的建造物群保存地区 (伝建79・おおだしゆのつ) 平成16年7月6日選定 東西約870m、南北約520mの範囲で、町並みの前に広がる温泉津湾は、リアス式海岸特有の地形により、港湾に有利な条件を備え、古くから山陰地方の海上交通の要所とされてきた。温泉津の町並みは、湾奥北側の小規模な入江に面し、ここから東に延びる谷筋に沿って形成された。 古代より温泉が湧く場所として知られ、中世から近世にかけて西日本海の物流拠点、毛利水軍の拠点、石見銀山の外港、北前船の寄港地等として町場を発展させてきた。大正7年に現在の山陰本線の温泉津駅が山を隔てた小浜<こはま>地区に設けられると、海運業は急速に衰退し、以後は温泉業と漁業が町の産業の中心となった。 平成16年に選定されたのは、浜地と町場の境を西端とし、谷を約800mたどったところを東端とする集落の範囲と、この周囲の丘陵地を尾根線まで含む区域で、温泉津川、道路、水路による町の構造は、近世の町割りをよく残す。伝統的建造物は、延享<えんきょう>4年(1747)の大火以降のもので、江戸後期から昭和初期までの年代幅がある。切妻造平入りで、赤茶色の石州瓦<せきしゅうがわら>で葺く町屋が多く占め、これらと並んで屋敷型の家屋と漆喰塗土蔵、洋風の住宅、木造の旅館等、町の移り変わりを伝える建築が残る。また、5カ寺4社が各所に配され、変化に富んだ町並みを形成する。 平成21年12月8日範囲追加選定 島根県大田市西部に位置する温泉津湾は、リアス式海岸特有の地形により港湾に有利な条件を備え、古くから山陰地方の海上交通の要所とされてきた。温泉津の町並みは、湾奥北側の小規模な入江に面し、ここから東に延びる谷筋に沿って形成された。 古代より温泉が湧く場所として知られ、中世から近代にかけて西日本海の物流拠点、毛利水軍の拠点、石見銀山の外港、北前船の寄港地等として町場を発展させてきた。大正7年(1918)に現在の山陰本線の温泉津駅が山を隔てた小浜<こはま>地区に設けられると、海運業は急速に衰退し、以後は温泉業と漁業が町の産業の中心となった。 平成16年(2004)に重要伝統的建造物群保存地区に選定されたのは、浜地と町場の境を西端とし、谷を約800m辿<たど>ったところを東端とする集落の範囲と、この周囲の丘陵地を尾根線まで含む区域で、温泉津川、道路、水路による町の構造は、近世の地割りをよく残す。伝統的建造物は、延享4年(1747)の大火以降のもので、江戸後期から昭和初期までの年代幅がある。切妻造平入りで、赤茶色の石州瓦<せきしゅうがわら>で葺<ふ>く町家が多くを占め、これらと並んで屋敷型の家屋と漆喰塗土蔵、洋風の住宅、木造の旅館等、町の移り変わりを伝える建築が残る。また、5カ寺4社が各所に配され、変化に富んだ町並みを形成する。 今回追加する区域は、既選定地区の西に隣接する約2.9haの範囲で、浜地、内港を形成する西側の岬及び海水面を含む。保存地区が海運業で栄える間、岬は風除けとなって繋留<けいりゅう>に適した水域をつくり、艀<はしけ>を浜地につけて荷の積み下ろしが行われた。このことは、廻船問屋の大きな敷地割が港付近に残ることと密接に関係する。また、海上から眺めると、内港と浜地、それらを挟む岬の丘陵が町並みと一体の景観を形成している。 保存地区は、中世より海運業で発展する温泉のある港町である。江戸時代の地割りや、自然地形に対応した土地利用を良く残し、各時代の多様な伝統的建造物が遺存する。今回拡大しようとする範囲は、これらの町並みと一体を成して歴史的風致を形成しており、併せて保存、整備するものである。 (文化庁の報道発表資料より転載。一部加筆) |
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津和野 (津和野町) つわの (つわのちょう) 津和野町観光協会 ここだよ★ |
伝建地区:妙寿寺,藩校養老館(津和野町民俗資料館),葛飾北斎美術館,中村吉蔵記念館,多胡家老門,津和野カトリック教会, 伝建協加盟(武家町・商家町) 津和野町津和野伝統的建造物群保存地区 (伝建80・つわのちょうつわの) 平成25年8月7日選定 津和野町は島根県西部に位置する。町の中心部である旧城下町は、津和野町の南、周囲を山並みに囲まれた南北に細長い盆地にあって、中央に津和野川が流れる。 津和野城は、吉見頼行<よしみよりゆき>による築城で、慶長5年(1600)吉見氏が萩に移ると、翌年には坂崎直盛<さかざきなおもり>が入城したが、その後、断絶する。元和<げんな>3年(1617)に亀井政矩<かめいまさのり>が封<ふう>ぜられ、以後明治維新まで亀井氏が居城した。元禄年間(1688~1704)の絵図には、武家町、商家町、寺町の詳細な敷地割が描かれ、この頃には城下町として完成した。 保存地区は、東西約160m、南北約700mの範囲で、旧城下町の北部に当たり、津和野川と西の山裾<やますそ>に挟まれた旧山陰道<さんいんどう>の両側に形成された武家町及び商家町からなる。 南半の殿町は旧の武家町で、筆頭家老の多胡家<たごけ>をはじめとした上級家臣の居住地であり、江戸末期は東半を藩校養老館の敷地が占めた。近代以降、鉄道の敷設<ふせつ>や道路の整備があったが、水路や土塀<どべい>が続く景観は、武家町の様相をよく伝えている。多胡家や養老館の一部が現在も残り、カトリック教会等の近代建築も町並みの点描となっている。 北半の商家町は、旧山陰道を中心とした各通り沿いに町家が連なる。旧山陰道に面した町家の規模は大きく、背面の通りまで一敷地として通すものもある。町家の主屋<おもや>は、切妻造<きりづまづくり>桟瓦葺<さんがわらぶき>で、平入<ひらいり>とするのが一般的である。屋根は赤茶色の石州瓦<せきしゅうがわら>を特徴とする。 城下町の形成に併<あわ>せて整備された水路は、現在でも地区内の各通り沿いに豊かな水の流れをみせる。 津和野町津和野伝統的建造物群保存地区は、江戸末期までに整備された津和野城下町のうち、上級家臣の居住地であった武家町及び旧山陰道を中心とした商家町からなり、近世からの地割はよく旧態を保持している。武家屋敷の一部や、江戸末期から昭和初期にかけて建築された町家等の伝統的建造物群が、各通りに流れる水路等と一体となって特色ある歴史的風致を形成しており、我が国にとって価値が高い。 (文化庁の報道発表資料より転載。一部加筆) |
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倉敷川畔 (倉敷市) くらしきがわはん (くらしきし) 倉敷観光コンベンションビューロー ここだよ★ |
岡山県 | 伝建地区:大原邸,大原美術館,新渓園,大原美術館分館,井上家,楠戸家住宅,東大橋家,倉敷考古館,倉敷民藝館,日本郷土玩具館,阿智神社,誓願寺,観龍寺,本栄寺,鶴形山公園,倉敷川 伝建協加盟(商家町) 倉敷市倉敷川畔伝統的建造物群保存地区 (伝建81・くらしきしくらしきがわはん) 昭和54年5月21日選定 東西約600m、南北約420mの範囲で、地区内に最も多く残されているのは、主屋<しゅおく>では本瓦葺・塗屋造・白漆喰塗で、蔵では本瓦葺・土蔵造・なまこ瓦張りの外観を持つ建物。また、瓦屋根・腰板張・聖窓<ひじりまど>つきの塀を巡らせている屋敷もある。 |
吹屋 (高梁市) 【旧成羽町】 ふきや (たかはしし) 吹屋ふるさと村 高梁市観光協会 備中高梁観光案内所 ここだよ★ |
伝建地区:吹屋ふるさと村郷土館,ベンガラ資料館,旧片山家住宅,吹屋郵便局,山神社 隣接地:西江邸,広兼邸,天海道大神宮,笹畝坑道,ベンガラ陶芸館,ベンガラ館,吹屋ふるさと村,延命寺,金精神社,高草八幡社 伝建協加盟(鉱山町) 高梁市吹屋伝統的建造物群保存地区 (伝建82・たかはししふきや) 昭和52年5月18日選定 東西約1200m、南北約70mの範囲の細長い町並み。吹屋の銅山の歴史は平安時代まで遡るが、その全盛期は室町時代から明治時代末期で、中国地方随一の産地として隆盛を誇った。後に銅山は衰退したが、町並はかつての繁栄の名残を留め、赤褐色の石州瓦の屋根、弁柄入りの土壁、弁柄格子を持つ妻入及び平入の堂々とした独特の建物が、街道の両側に軒を連ねている。 |
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城東 (津山市) じょうとう (つやまし) 津山市観光協会 ここだよ★ |
伝建地区:河野美術館,作州城東屋敷,箕作阮甫<みつくりげんぽ>住宅,城東むかし町家(旧梶村家住宅) 伝建協加盟(商家町) 津山市城東伝統的建造物群保存地区 (伝建83・つやましじょうとう) 平成25年8月7日選定 津山市は岡山県北東部に位置する。慶長8年(1603)に美作国<みまさかのくに>に封<ふう>ぜられた森忠政<もりただまさ>が津山城を築き、城下町を整備した。城の周囲に武家地、城下町の南半部を東西に通る出雲往来<いずもおうらい>に沿って町人地が形成された。城の東を流れる宮川の東側にも城下町が形成され、出雲往来に沿った町人地が保存地区に当たる。地区の東部には、国指定史跡箕作阮甫<みつくりげんぽ>旧宅がある。 保存地区は、東西約1050m、南北約480mの範囲である。出雲往来には、道路が折れ曲がる枡形<ますがた>が2か所あり、東西端と中程に関貫<かんぬき>(木戸)が設けられた。屋敷地は、往来に沿って間口2間<けん>から4間程の幅で割り付けられ、敷地背面には背割溝<せわりみぞ>が通され、現在でもこの溝が残っている。 各敷地では、往来に面して主屋<しゅおく>が建てられ、その背後に附属屋や土蔵が建つ。江戸時代から明治に建築された二階部分が低い厨子二階建て<つしにかいだて>の主屋が数多く残り、一階の屋根には本瓦<ほんがわら>を使用しており、低く重厚な軒<のき>が連なる特徴ある町並みを形成している。主屋の一階、二階ともに、窓に様々な意匠<いしょう>の出格子<でごうし>が使用される。二階では、むしこ窓もみられ、腰になまこ壁を使用するものや、意匠を凝らした袖壁<そでかべ>をもつものも多い。角地では、屋根を入母屋造<いりもやづくり>としたり、往来に直交する小路に面する壁面にも様々な意匠を凝らしており、小路の景観も特徴的である。 津山市城東伝統的建造物群保存地区は、城下町の商家町として発展した町並みで、江戸時代に形成された町割を良く残し、江戸時代の町家を主体として昭和戦前期までに建築された、出格子窓、むしこ窓、なまこ壁、袖壁などを使用し、意匠的に優れた伝統的建造物が密度高く建ち並び、城下町に形成された商家町の歴史的風致を良く伝え、我が国にとって価値が高い。 (文化庁の報道発表資料より転載。一部加筆) |
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城西 (津山市) じょうさい (つやまし) 津山市観光協会 ここだよ G |
伝建地区:本源禅寺,大圓寺,愛染寺,壽光寺,妙法寺,本行寺,妙勝寺,長安禅寺,福泉寺,大雄禅寺,光厳寺,泰安寺,成道寺,徳守稲荷,作州民芸館,作州絣<かすり>工芸館,塩山醤油味噌,岡本商店,山手屋,ニシイマ25 伝建協加盟(寺町・商家町) 津山市城西伝統的建造物群保存地区 (伝建84・つやましじょうさい) 令和2年12月23日選定 津山市は岡山県北東部の美作<みまさか>地方に位置する。津山は古代から美作地方の中心地で、慶長8年(1603)に森 忠政<もりただまさ>が城と城下を築いた。城下町は、城を中心に南寄りを東西に通る出雲往来<いずもおうらい>に沿って広がり、武家地は城の近辺に、町人地は出雲往来沿いに、寺町は町人地外側に設けられた。近代には、鉄道の開通により旧城下町の南西に駅が開業し、旧城下町西部は「津山銀座」と呼ばれ賑<にぎ>わいをみせ、現在も出雲往来沿いを中心に伝統的な建造物が多く残る。 保存地区は、旧城下町西部の寺町<てらまち>と、出雲往来沿いの商家町<しょうかまち>からなり、往来沿いには大規模な寺院や伝統的な町家が建ち並ぶ。寺町は江戸時代の町割を良く残し、寺院は出雲往来及び南北街路に面して寺地を占め、保存地区内には築城以来17世紀半ばまでに所在した15箇寺<かじ>中13箇寺が残る。境内<けいだい>は周囲を塀で囲み、街路に面して楼門<ろうもん>等を構える。寺院本堂は、17世紀前期から近代に至る各時代、各宗派のものが良く残り、藩主<はんしゅ>の菩提寺<ぼだいじ>をはじめ、境内全体として江戸時代の様相を良く伝える。商家町は往来沿いの短冊形<たんざくがた>の敷地に、 切妻造平入<きりづまづくりひいり>、桟瓦葺<さんがわらぶき、二階建てで、二階袖壁<そでかべ>を設けた主屋<しゅおく>等、江戸時代後期から昭和30年代までに建てられた伝統的建造物が多く残り、近代の銀行建築である作州<さくしゅう>民芸館(旧土居<どい>銀行津山支店)とともに近代の繁栄を見ることができる。 津山市城西伝統的建造物群保存地区は、津山城下町の西部に成立,発展した寺町及び商家町である。出雲往来を軸とした江戸時代以来の地割の姿を良く保持し,寺町は、藩主の菩提寺をはじめ、江戸時代の様相を伝える伽藍<がらん>とともに、17世紀以降各時代、各宗派の寺院建築が良く残る。また、商家町は、往来沿いに近代の発展を示す伝統的な町家が連続して残る。江戸時代から近代にかけて旧城下町に発展した寺町,商家町の歴史的風致を良く伝える。 (文化庁の報道発表資料より転載。一部加筆) |
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矢掛宿 (矢掛町) やかげじゅく (やかげちょう) やかげ観光NET ここだよ G |
伝建地区:旧矢掛本陣石井家住宅,旧矢掛脇本陣高草家,遊び心の美術館古意庵,観音寺,矢掛屋本館,ポン・ムヴァン,やかげ町家交流館,神田ラジオ 伝建協加盟(宿場町) 矢掛町矢掛宿伝統的建造物群保存地区 (伝建85・やかげちょうやかげじゅく) 令和2年12月23日選定 矢掛町は、岡山県の南西部、瀬戸内海よりやや内陸の盆地に位置し、保存地区は小田川<おだがわ>の北岸に位置する。この地域一帯は、備中<びっちゅう>南西部における古くからの交通の要所で、戦国期末期には毛利氏<もうりし>治<おさ>めた。江戸時代には幕府領となるが、領主は度々代わり、元禄<げんろく>12年(1699)以降は庭瀬藩<にわせはん>となり板倉氏<いたくらし>の所領となった。 矢掛宿は幕府の宿駅整備に伴い、山陽道の敷設<ふせつ>とともに遅くとも寛永10年(1633)までには新たな宿場として設置されたと考えられる。江戸時代の矢掛宿は、北と東を水路で限り、東町,中町,西町に区分され、山陽道に沿って整然とした町並みが形成されていた。近代に入り山陽本線の開通により山陽道の交通量は徐々に減少したが、大正10年には西方に駅が開業し、備中南西部の中心的な商業地として繁栄した。昭和40年代に河川沿いにバイパスが通されたが、これ以外に大きな改変はなく、江戸時代後期の地割を良く残す。 保存地区内には重要文化財に指定されている旧矢掛本陣石井家住宅及び旧矢掛脇本陣高草家<たかくさけ>住宅とともに、軒裏まで漆喰<しっくい>で塗込められた重厚な町家が良く残る。主屋<しゅおく>は、妻入<つまいり>と平入<ひらいり>が混在し、間口が三間<さんけん>以下は入母屋造<いりもやづくり>妻入、三間を超えると切妻造平入が多く、入母屋造<いりもやづくり>平入もみられ、変化ある屋並みをつくる。つし二階建てまたは二階建てで屋根を本瓦葺<ほんがわらぶき>とし、昭和期以降は桟瓦葺<さんがわらぶき>とする。また、主屋の奥には付属屋や土蔵も密度高く残り、洋風建築や正面を洋風意匠とするいわゆる看板建築も残る。 矢掛町矢掛宿伝統的建造物群保存地区は、江戸時代初期に設置された山陽道の宿場町で、直線的な街道に沿って、江戸時代後期までに形成された地割の姿をよく留めている。町並みには妻入と平入の町家が混在して多様な屋並みをつくり、漆喰塗込の重厚な町家など、江戸時代から近代に建てられた伝統的建造物群が良く残る。全国でも重要文化財の旧本陣と旧脇本陣が揃って残る唯一の町並みで、山陽道の宿場町の歴史的風致を形成する。 (文化庁の報道発表資料より転載。一部加筆) |
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竹原地区 (竹原市) たけはらちく (たけはらし) 竹原市観光協会 ここだよ★ |
広島県 | 伝建地区:歴史民俗資料館,小笹屋酒の資料館,春風館,復古館,町並み保存センター,まちなみ竹工房,吉井邸,松阪邸,光本邸,亀田邸,城原邸,上吉井邸,二宮邸,頼推清<らいこれすが>旧宅,照蓮寺,胡堂<えびすどう>,おかかえ地蔵,西方寺,普明閣,地蔵堂,修景広場,憧憬の広場 伝建協加盟(製塩町) 竹原市竹原地区伝統的建造物群保存地区 (伝建86・たけはらしたけはらちく) 昭和57年12月16日選定 東西約150m、南北約450mの範囲で、江戸初期に本町通り沿いに形成された町。建物は、2階建て,切妻造,瓦葺の塗屋造りの町屋で、大半が江戸中期から明治時代に建てられた。 |
御手洗 (呉市) 【旧豊町】 みたらい (くれし) 呉観光協会 ここだよ★ |
伝建地区:豊町歴史民俗資料館,江戸みなと展示館,潮待ち館観光交流センター,七卿館,若胡子屋<わかえびすや>跡,金子邸,三軒長屋,千砂子波止,高燈籠,満舟寺,大東寺,石造りのたいこ橋,恵比須神社,天満神社,住吉神社 伝建協加盟(港町) 呉市豊町御手洗伝統的建造物群保存地区 (伝建87・くれしゆたかまちみたらい) 平成6年7月4日選定 南北約430m、東西約250mの範囲で、地区内の建造物は、18世紀後半から昭和初期にかけての、伝統的な瀬戸内の島々の港町における各時代の建物で、比較的間口が狭く奥行きの長い妻入の町屋と棟割長屋に代表されるような平入の町屋が多い。町並みは、風待ち、潮待ちの港町としての繁栄とともに変遷し、大小の商家、茶屋、船宿、住宅、神社、寺院などが混在し、道が網の目のような巡っている。 |
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鞆町 (福山市) ともちょう (ふくやまし) 福山観光コンベンション協会 ここだよ★ |
伝建地区:鞆城跡,鞆の浦歴史民俗資料館,いろは丸展示館,龍馬宿泊所跡,岡本家長屋門,鞆の津の商家,太田家住宅,鞆七卿落遺跡,常夜燈,平賀源内生祠,対仙酔楼,浄泉寺,対潮楼・福禅寺,地蔵院,住吉神社,早毛利稲荷神社,胡神社 伝建協加盟(港町) 福山市鞆町伝統的建造物群保存地区 (伝建88・ふくやましともちょう) 平成29年11月28日選定 広島県福山市鞆町は、瀬戸内海に突き出た沼隈<ぬまくま>半島南東部の港町で、その中心の鞆は、江戸時代の町人地を引き継ぐ。潮待ちの港としての好条件を備え、古来より海上交通の要衝として栄えた。周辺の島々と共に成す景勝は、「鞆の浦」として万葉集にも歌われている。 室町時代後期には、すでに相当の町場が形成されており、慶 長5年(1600)に安芸<あき>・備後<びんご>両国を領した福島正則が、海を見渡す小丘の鞆城を中心に城下町としての整備を行い、鞆城北麓は武家地、南麓から東麓にかけては町人地とされた。元和<げんな>5年(1619)から元禄<げんろく>11年(1698)までの水野氏の時代には、福山に城下町が整備されて、鞆には奉行所<ぶぎょうしょ>や船番所<ふなばんしょ>などが置かれ、港町としての性格を強めていった。この頃までに町人地は7町に区分され、18世紀初頭には現在の市街地の基礎が整った。江戸中期の7町の人口は、5,800人規模である。 保存地区は、江戸時代の町人地のうち、廻船業<かいせんぎょう>の中核を成し、近代以降の地割の変化が少なく、江戸時代の町家主屋<まちやしゅおく>が良く残る区域である。2間を標準とする狭い間口の敷地が集積する一方、隣接地を買い取りながら敷地を拡大した商家も見られ、その代表例として重要文化財太田家住宅及び太田家住宅朝宗亭<ちょうそうてい>がある。町家主屋は、切妻造<きりづまづくり>、平入<ひらいり>、2階建を基本とする。正面に「オダレ」と呼ぶ下屋<げや>を設け、本瓦葺<ほんがわらぶき>とするのが江戸時代から明治時代に続く古い形式で、庇<ひさし>が連なる景観を特徴の一つとする。 寺社の境内<けいだい>には建物と共に石垣<いしがき>や燈籠<とうろう>、石碑<せきひ>等の石造物が残り、福禅寺本堂及び客殿対潮楼<たいちょうろう>は史跡「朝鮮通信使遺跡」として知られる。港には、江戸後期から明治前期までに整備された、雁木<がんぎ>や船繋石<ふなつなぎいし>、常夜燈<じょうやとう>、浜蔵<はまぐら>が残る。 福山市鞆町伝統的建造物群保存地区には、中世の骨格を引き継ぎながら江戸中期までに整えられた地割に、江戸時代からの伝統的な町家や寺社、石垣等の石造物、港湾施設などが一体となって良好に残る。瀬戸内の港町としての歴史的風致を良く伝え、我が国にとって価値が高い。 (文化庁の報道発表資料より転載。一部加筆) |
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宮島町 (廿日市市) みやじまちょう (はつかいちし) 宮島観光協会 ここだよ★ |
伝建地区 伝建協加盟(門前町) 廿日市市宮島町伝統的建造物群保存地区 (伝建89・はつかいちしみやじまちょう) 令和3年5月21日選定答申 廿日市市は広島県西部に位置し、宮島町は廿日市市の南端、広島湾に浮かぶ厳島<いつくしま>に所在する。厳島は安芸<あき>の宮島とも呼ばれ、中央に弥山<みせん>がそびえ、島の北西部の州浜<すはま>に厳島神社が海に面して鎮座する。宮島町は厳島神社の周囲に形成された門前町で、塔之岡<とうのおか>と呼ばれる五重塔が建つ丘陵を挟んで西町と東町からなる。 厳島神社は、平安末期に平清盛<たいらのきよもり>の庇護<ひ ご>の下<もと>、大きく発展した。弘治元年(1555)の厳 島の戦い以降は毛利氏が厳島神社を庇護し、この頃には、神社の南西側に大聖院<だいしょういん>と大願寺<だいがんじ>の門前の町場として西町が成立した。大聖院の門前から水際に向かう小路沿いに町並みを形成し、上層社家<しゃけ>の屋敷や僧坊<そうぼう>が並ぶ。元和<げんな>5年(1619)、宮島は浅野氏の所領になり、この頃までには塔之岡東側の沿岸部が埋立てられ、水際と平行に街路が通されて東町が成立した。江戸時代を通じて両町は参詣者<さんけいしゃ>により活況<かっせきょう>を呈<てい>し、明治中期以降は観光業が発展し、山麓には旅館や別荘が建てられたが、旧来の町並みの骨格に大きな改変は少なく、戦国時代に由来する町割を継承しつつ、江戸後期の地割の姿を良く伝える。 保存地区は西町と東町からなる。地区内には江戸前期から昭和20年代までの町家をはじめとし、中世以来の寺院、上層社家の住宅が一体となって門前町の歴史的風致を形成する。町家の主屋<しゅおく>は切妻造<きりづまづくり>平入<ひらいり> 、真壁造<しんかべづくり>、桟瓦葺<さんがわらぶき>で、二階は平格子<ひらごうし>又は出格子<でごうし>とする。このほか、道に面して連なる石垣や石段が、狭隘<きょうあい>な傾斜地に形成された町並みの特徴をよく示す。近代期の旅館や別荘などの和風住宅も点在し、近代以降も観光業で栄えた門前町の歴史を伝える。 廿日市市宮島町伝統的建造物群保存地区は厳島神社の門前町で、弥山が海に迫る海岸の狭隘地に形成された西町と東町には、戦国時代に由来しつつ、江戸後期までに形成された 特徴ある地割が良く残る。江戸時代から昭和20年代に至る伝統的な町家や和風住宅が、山麓に位置する寺社建築や社家住宅と一体となって、厳島神社の周囲に栄えた門前町の歴史的風致を良く伝える。 (文化庁の報道発表資料より転載。一部加筆) |
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堀内地区 (萩市) ほりうちちく (はぎし) 萩市観光協会 ここだよ★ |
山口県 | 伝建地区:萩博物館,問田ますだ氏旧宅土塀,旧周布家長屋門,旧益田家物見矢倉,旧繁沢家長屋門,旧児玉家長屋門,口羽家住宅,品川家家屋・門,旧椙杜家家屋・門,旧梨葉家書院,旧祖式家長屋,旧二宮家長屋門,長屋家家屋・門,毛利別邸表門 伝建協加盟(武家町) 萩市堀内地区伝統的建造物群保存地区 (伝建90・はぎしほりうちちく) 昭和51年9月4日選定 東西約990m、南北約660mの範囲で、江戸時代、藩の役所や毛利一門、永代家老、寄組といった重臣たちの邸宅が建ち並んでいたが、現在もそれらが残っている。明治以降、士族救済の為に広大な屋敷地に植栽された夏みかんの木が、長屋門や土塀と一体となった風情を見せている。 |
平安古地区 (萩市) ひやこちく (はぎし) 萩市観光協会 ここだよ★ |
伝建地区:旧坪井家主屋・長屋門・土蔵,旧粟屋家土蔵,旧田中家長屋,旧田中家家屋・門・土蔵・鎮守,旧田中家長屋,瀧口家主屋・門・米蔵 伝建協加盟(武家町) 萩市平安古地区伝統的建造物群保存地区 (伝建91・はぎしひやこちく) 昭和51年9月4日選定 東西約150m、南北約300mの範囲で、藩政時代の町割を良く残している。開墾によってこの地区にも武家屋敷が建てられた。左右を高い土塀で囲み、見通しのきかない「鍵曲」(かいまわり)と呼ばれる鍵手(クランク状)の道路が残っている。 |
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浜崎 (萩市) はまさき (はぎし) 萩市観光協会 ここだよ★ |
伝建地区:旧萩藩御船倉,藤井家,斉藤家,池部家,中村船具店,旧山中家住宅,須子家,田中家,梅屋七兵衛旧宅,林家,大嶋家,藤山家,おふなぐら公園,泉福寺,住吉神社 伝建協加盟(港町) 萩市浜崎伝統的建造物群保存地区 (伝建92・はぎしはまさき) 平成13年11月14日選定 東西約320m、南北約530mの範囲で、江戸時代以来の街路構成及び敷地割が残る。江戸から昭和初期に建てられた建物が100軒以上現存し、江戸時代のものと思われる主屋<しゅおく>や土蔵等も44棟にのぼる。 |
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佐々並 (萩市) ささなみ (はぎし) 萩市観光協会 ここだよ★ |
伝建地区:西岸寺,菅原神社,小松川への石畳,荒神堂,佐々並市頭一里塚 伝建協加盟(宿場町) 萩市佐々並市伝統的建造物群保存地区 (伝建93・はぎしささなみいち) 平成23年6月20日選定 萩市は山口県北部、日本海側に位置する。佐々並市<ささなみいち>の集落は、萩市街から南東へ約15㎞離れた旧阿武郡旭村<あぶぐん・あさひそん>にあり、中国山地の山間を流れる佐々並川の南北両岸に広がる。 慶長9年(1604)、萩へ入城した毛利輝元<もうりてるもと>は、萩藩内の主要街道として、萩と瀬戸内海側の三田尻(現在の山口県防府市)を結ぶ萩往還<はぎおうかん>を整備した。佐々並市はこの時設置された宿駅<しゅくえき>の一つで、慶長年中には藩主が休泊する御茶屋<おちゃや>を起点に町並みが成立していたとみられる。 江戸時代の佐々並市は、往還沿いに茅葺の主屋<しゅおく>が建ち並び、周辺には田畑が広がっていた。町並みには御茶屋とともに、上級藩士などが宿泊する御客屋<おきゃくや>や人馬継立てをおこなう目代所<もくだいしょ>があり、江戸時代を通じて、萩藩の宿場町として維持された。 保存地区は、東西約850m、南北約1420mの範囲で、江戸時代の佐々並市全域と国史跡萩往還に沿った棚田を含む。 地区内には、幕末から近代にかけての茅葺や赤い石州瓦<せきしゅうがわら>で葺<ふ>いた主屋が残り、萩往還に沿ってまとまりのある町並みを形成している。町並みへ下る往還沿いには棚田の石垣が多く残り、山から集落に引かれた水路とともに、山間に立地する集落の独特の景観を形成している 萩市佐々並市伝統的建造物群保存地区は、江戸時代の宿駅施設等が失われているものの、近世前期に御茶屋を起点として成立した町割が良く残り、往還沿いに混在して残る茅葺や桟瓦葺<さんかわらぶき>の主屋が周囲の棚田等と一体となって、萩藩の主要街道であった萩往還の宿場町としての歴史的風致を今日に良く伝え、我が国にとって価値が高い。 (文化庁の報道発表資料より転載。一部加筆) |
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古市金屋 (柳井市) ふるいちかなや (やないし) 柳井市観光協会 ここだよ★ |
伝建地区:しらかべ学遊館,国森家住宅,佐川醤油店,重枝醤油店 伝建協加盟(商家町) 柳井市古市金屋伝統的建造物群保存地区 (伝建94・やないしふるいちかなや) 昭和59年12月10日選定 東西約200m、南北約100mの範囲で、本町通りとその中央から南側に向けて柳井川に連なる掛屋小路の両側に形成された商家町。江戸時代から昭和初期にかけて建てられた妻入入母屋、妻入切妻、平入の本瓦葺屋根を持ち白壁の漆喰土蔵造りの外観を持つ商家が建ち並んでいる。 |
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脇町南町 (美馬市) 【旧脇町】 わきまちみなみまち (みまし) 美馬市観光協会 ここだよ★ |
徳島県 | 伝建地区:美馬市観光文化資料館,藍染めの体験学習ふれあい館,吉田家住宅,平田家,国見家,正木家,田村家 伝建協加盟(商家町) 美馬市脇町南町伝統的建造物群保存地区 (伝建95・みましわきまちみなみまち) 昭和63年12月16日選定 東西約400m、南北約150mの範囲で、江戸時代から明治時代かけて建てられた町屋群が残っていて、通りに面して建物が建ち並んでいる。通りに面した建物の屋根は、本瓦葺きで、2階の窓は防火に重点をおいた「虫籠窓」<むしこまど>となっていて、屋根の両端に漆喰塗りの「うだつ」が設けてある。 |
東祖谷山村落合 (三好市) 【旧東祖谷山村】 ひがしいややまそんおちあい (みよしし) 大歩危祖谷ナビ ここだよ★ |
伝建地区:三所神社,落合薬師堂,栗山観音堂,里道,屋敷地石垣,水田石垣・畑地石垣,家の墓,ハデ・コエグロ 伝建協加盟(山村集落) 三好市東祖谷山村落合伝統的建造物群保存地区 (伝建96・みよししびがしいややまそんおちあい) 平成17年12月27日選定 東祖谷山村は徳島県西部、四国山地の山間に位置し、村域の約95%を山林が占め、西へ流れる祖谷川両岸の山腹に集落が点在する。落合は東祖谷山村のほぼ中央、祖谷川と落合川の合流地点より山の斜面に沿って広がる集落である。落合集落の起源は明らかではないが、祖谷地方には平家の落人伝説などが残る。南北朝時代には落合氏ほかが南朝方として戦ったことが確認され、中世には集落が形成されていたと考えられる。近世に入ると煙草や馬鈴薯などが栽培され、昭和40~50年頃まで葉煙草や各種麦、水陸稲の生産や養蚕を行う山村として維持された。 保存地区は東西約750m、南北約850mの範囲であり、地区内の高低差は約250mに及ぶ。屋敷地や耕作地は、石垣によって造らた細長い形状の平坦地に設けられる。各屋敷地には主屋<しゅおく>と納屋、隠居屋などが谷側を正面にして並んで建つ。主屋は平入で、台所兼居間であるウチと客間であるオモテの2室を正面から見て左右に並べる例や、ウチとオモテの間にナカノマ(中の間)とネマ(寝間)を前後に置く例など、いずれも山村民家にみられる特徴的な間取りとする。ウチの一部を土間とし、オモテには神棚と仏壇、押入を背面に接して構える。多くの主屋では当初、正面中央に便所を付設し、また屋根は茅葺がほとんどであった。開口部以外はいずれも土壁で、その外側にひしゃぎ竹と称する割竹によって覆い、独特の仕上げとする。 保存地区は、山の中腹から麓にかけて立地する山村集落であり、江戸中・後期に建てられた主屋等を多く残し、石垣など周辺環境とともに一体となった歴史的風致をよく伝えており、我が国にとって価値が高い。 (文化庁の報道発表資料より転載。一部加筆) |
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出羽島 (牟岐町) でばじま (むぎちょう) 出羽島おいでてっぱ ここだよ★ |
伝建地区:出羽神社、蛭子神社、観栄寺、野口雨情の歌碑、阿波沚<あわはえ>発見者功績の碑、ミセ造りりある家々、出羽島帆布工房、共同井戸 伝建協加盟(山村集落) 牟岐町出羽島伝統的建造物群保存地区 (伝建97・むぎちょうでばじま) 平成29年2月23日選定答申 徳島県南東部に位置する牟岐町の沖合に浮かぶ出羽島の北部の入江に形成された漁村集落である。 出羽島では、入江周りから西北部の山裾<やますそ>にかけて宅地が集中し、その背後の斜面に畑地が階段状に作られる。道は地形に合わせて湾曲しながら宅地と畑地を結び、アワエと呼ばれる小路が分岐して、宅地と海を繋<つな>いでいる。 保存地区は、面積約3.7ヘクタールの範囲で、天保11年(1840)を最古として、江戸末期から昭和前期にかけての伝統的な主屋が良く残る。その大半が、間口3~4間規模の切妻造<きりづまづくり>、瓦葺<かわらぶき>、平入<ひらいり>、平屋又は二階建である。間取りは、通り土間に面して2列4室とし、正面外観は、蔀<しとみ>と床几<しょうぎ>から成る揚げ見世<あげみせ>と出格子<でごうし>を特徴とする。 牟岐町出羽島伝統的建造物群保存地区は、徳島藩の移住奨励によって形成され、江戸後期から昭和前期まで、鰹漁の隆盛に伴って拡大した漁村集落である。組頭庄屋<くみがしらしょうや>を勤めた青木家による土地所有の下、規模や形式が揃った漁家の主屋が建ち並ぶ集落景観が発達し、我が国にとって価値が高い。 (文化庁の報道発表資料より転載。一部加筆) |
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塩飽本島町笠島 (丸亀市) しわくほんじまちょうかさじま (まるがめし) 丸亀市観光協会 ここだよ★ |
香川県 | 伝建地区:笠島まち並み保存センター(真木邸),旧真木邸,ふれあいの館(小栗邸),文書館(藤井邸),専称寺,尾上神社,吉田彦右衛門の墓,笠島城跡,旧海岸線・蓼場跡 伝建協加盟(港町) 丸亀市塩飽本島町笠島伝統的建造物群保存地区 (伝建98・まるがめししわくほんじまちょうかさしま) 昭和60年4月13日選定 東西約450m、南北約350mの範囲で、北側に港が築かれ、他の三方は山で囲まれている。道路は、南北に通る東小路、海岸線に平行して弓なりに曲がる東西道路のマッチョ通りを主道路として、東西道路は両端で枡形となり、櫛状に海岸に向って枝道が設けられている。東小路とマッチョ通りの主要道路沿いには、江戸時代末期から大正時代にかけて建てられた切妻造、片入母屋造、入母屋造、本瓦葺、平入形式のつし二階造りで、上階を塗屋造りとし、虫籠窓、格子窓を設け、下階は、腰格子付雨戸構えと、出格子、窓出格子を組み合わせた建物が建ち並んでいる。 |
八日市護国 (内子町) ようかいちごごく (うちこちょう) 内子町観光協会 ここだよ★ |
愛媛県 | 伝建地区:八日市護国街並保存センター,町家資料館,木蝋<もくろう>資料館 上芳我邸,本芳我邸,大村邸,旧銀行頭取別邸中芳邸 伝建協加盟(製蝋町) 内子町八日市護国伝統的建造物群保存地区 (伝建99・うちこちょうようかいちごこく) 昭和57年4月17日選定 東西約130m、南北約530mの範囲で、かつての四国遍路と金毘羅旧街道の坂道で、商家や製蝋業家、住宅などが建っている。江戸中期から明治時代にかけて、外壁ほ土壁を塗込にした町屋が建てられた。なかでも明治中期になると、外部の漆喰壁にさまざまな彫刻を施して、腰に瓦を張った豪華な造りの家が多く建てられた。 |
宇和町卯之町 (西予市) うわちょううのまち (せいよし) 西予市観光協会 ここだよ★ |
伝建地区:宇和歴史民俗資料館,宇和先哲記念館,宇和民具館,開明学校,高野長英の隠れ家,宇和ヤマミ醤油,最進酒造,松屋旅館,中村屋旅館,卯之町三区公会堂,光教寺,卯之町教会(卯之町幼稚園) 伝建協加盟(在郷町) 西予市宇和町卯之町伝統的建造物群保存地区 (伝建100・せいよしうわちょううのまち) 平成21年12月8日選定 卯之町は伊予西園寺<さいおんじ>氏の松葉城下町に起源を持つ。江戸時代を通じて宇和島藩に属し、宇和盆地の農産物や宇和檜<ひのき>の集散地として、また、宇和島街道の宿駅や、四国霊場第四三番札所、源光山明石寺の門前として賑わった。 江戸時代の卯之町は宇和島街道に沿って町場が形成されていた。大洲から宇和盆地に入る宇和島街道は、この辺りでは肱川<ひじかわ>に平行に西北から東南に通る。西北側から卯之町に入ったところが新地で、新地から枡形<ますがた>を越えると卯之町の中心の中町<なかのちょう>となる。中町東南端で街道は西南方向に折れ、下町<しものちょう>を下って卯之町を抜け、肱川を渡って宇和島方面に続く。 明治35年頃に中町を通る宇和島街道の南側に、これと平行して県道が開通すると、商業や行政などの都市機能は徐々に南方に移ることとなった。さらに、昭和16年には現在の予讃線の卯之町駅が県道の南側に設置され、昭和36年には県道と鉄道の間に国道が開通し、かつての街道沿いは醸造業等の産業が存続したことを除き、静かな住宅地となっていった。 保存地区は東西約450m、南北約220mの範囲で、宇和島街道に面した卯之町の町場のうち、県道以北、中町南裏の横町<よこまち>、北裏の字大念寺<あざだいねんじ>を含む4.9haである。近世の地割りが良く残り、宇和島街道沿いに、開口部以外を塗籠<ぬりこ>める桟瓦葺<さんがわらぶき>の重厚な町家が良く残る。町家は、屋根の妻を正面に向ける妻入りと、平<ひら>を正面に向ける平入りが混在し、格子や持ち送り、飾り瓦等の意匠に特徴がある。 (文化庁の報道発表資料より転載。一部加筆) |
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吉良川町 (室戸市) きらがわちょう (むろとし) 室戸市観光協会 ここだよ★ |
高知県 | 伝建地区:町並み館,お祭り館,細木隆昌家住宅,細木和家住宅,熊懐家住宅(旧郵便局),黒岩家住宅,木下家住宅,松本家住宅,武井家住宅,仙頭家住宅,池田家住宅,御田八幡宮,いしぐろに囲まれた民家,いしぐろの見える道,上町の井戸,丘地区の井戸 伝建協加盟(在郷町) 室戸市吉良川町伝統的建造物群保存地区 (伝建101・むろとしきらがわちょう) 平成9年10月31日選定 東西約750m、南北約250mの範囲で、旧土佐街道に沿う浜地区とその北側の丘地区からなる。それぞれの地区は、道の構成、敷地割、屋敷内の配置構成、建築類型の点で大きな違いがある。町並みで目にする漆喰塗込めで妻壁に水切り瓦を何段も取り付けた建物は明治時代中期から後期にかけて建てられた。 |
土居 (安芸市) どい (あきし) 安芸市観光協会 ここだよ★ |
伝建地区:安芸市立書道美術館,安芸市立民俗資料館,安芸城跡,城山,野村家住宅,土居廓中武家屋敷 伝建協加盟(武家町) 安芸市土居廓中伝統的建造物群保存地区 (伝建102・あきしどいかちゅう) 平成24年7月9日選定 安芸市は、高知県東部に位置する。保存地区である土居廓中は、海岸部から北に約2㎞離れた安芸平野中央部、安芸川の西岸に位置する。 慶長<けいちょう>5年(1600)、土佐に入封<にゅうほう>した山内一豊<やまうちかずとよ>は、重臣の五藤為重<ごとうためしげ>を安芸に配し、土佐藩東部の政治拠点とした。 五藤氏は堀に囲まれた土居に屋敷を配し、その東西南面に家臣の武家地を配した。武家地の町割は、戦国期のものに由来しつつ、遅くとも正徳<しょうとく>4年(1714)までに成立していたと考えられる。延享<えんきょう>2年(1745)に地割が再編され、南町に上級家臣の大規模な屋敷、西町、四ツ辻通、北町南半がこれに次ぎ、北町北半では小規模な屋敷が配された。 明治2年に土居が廃止されると、この頃より土居と武家地を合わせた範囲が、土居廓中と称され始めたとみられる。家臣団の転出による武家屋敷の除却<じょきゃく>も一部あったが、武家地の地割は保たれている。 安芸市土居廓中伝統的建造物群保存地区は、東西約410m、南北約360mの範囲で、江戸時代の土居と武家地の全域を含む。 地割は、大手から離れるに従って小規模になり、間口が広いものは方形、狭いものは短冊形<たんざくがた>となる。敷地への出入口は、通りに面した敷地辺の中央に開き、間口の狭いものは端に寄せて開く。通り沿いには、生垣や塀を巡<めぐ>らし、出入口には薬医門<やくいもん>や腕木門<うでぎもん>を建てるが、門を建てずに生垣の切目を出入口とするものもある。生垣には主にドヨウダケやウバメガシ等が植えられ、四ツ辻周辺では、往時の石溝が残る狭い通りに沿って生垣が連続し、藩政期の武家地の景観を良く伝えている。 安芸市土居廓中伝統的建造物群保存地区は、武家屋敷が整然と並ぶ町割とともに、江戸時代末期から昭和戦前期にかけての主屋や附属屋が残り、狭い通りに沿って生垣や塀等が連なる武家地特有の歴史的風致を今日に良く伝え、我が国にとって価値が高い。 (文化庁の報道発表資料より転載。一部加筆) |
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秋月 (朝倉市) 【旧甘木市】 あきづき (あさくらし) あさくら観光協会 ここだよ★ |
福岡県 | 伝建地区:秋月資料館,秋月美術館,秋月城跡,久野家,石田家,長屋門,黒門,西念寺,本證寺,日照院,古心寺,浄覚寺,大涼寺,長生寺,鳴渡観音,日限地蔵院,須賀神社,田中天満宮,宮地嶽神社,垂裕神社,秋月目鏡橋 伝建協加盟(城下町) 朝倉市秋月伝統的建造物群保存地区 (伝建103・あさくらしあきづき) 平成10年4月17日選定 東西約900m、南北約950mの範囲で、地割をはじめとする城下の構造がよく維持されていて、武家屋敷や町家及び社寺建築、小路、石積、土塀、生垣が残っている。 |
筑後吉井 (うきは市) 【旧吉井町】 ちくごよしい (うきはし) うきは市観光協会 ここだよ★ |
伝建地区:歴史民俗資料館,町並み交流館「商家」,菊竹六皷記念館,金子文夫資料館,鏡田屋敷,居蔵の館,旧田代大庄屋,碓井家,旧天国酒造,宝琳寺,清光禅寺,光琳寺,浄満寺,円応寺,素戔鳴神社,水神社,妙見神社,高橋神社,札ノ辻の庚申塔,恵比須さん 伝建協加盟(在郷町) うきは市筑後吉井伝統的建造物群保存地区 (伝建104・うきはしちくごよしい) 平成8年12月10日選定 東西約1000m、南北約550mの範囲で、町並みには土蔵造りの町屋建築群の他、多様な様式の伝統的建造物などがある。伝統的建造物は、町屋型建築と屋敷型建築及び寺社建築に分けられる。町屋型建築は土蔵造りのもの主で中心市街地に多く、屋敷型建築は、明治時代以降に市街化した周辺地域に見られる。 |
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浮羽町新川 浮羽町田篭 (うきは市) うきはまちにいかわ うきはまちたごもり (うきはし) うきは市観光協会 ここだよ★ |
伝建地区: 新川地区 本村<もとむら>:高御魂神社<たかみむすびじんじゃ>,本村集落 分田<ぶんだ>:分田集落,棚田,隈上川<くまのうえがわ>と旧往還道 田篭地区 馬場<ばば>:諏訪神社,隈上川と旧往還道 日森園<ひもりぞの>:平川家住宅,日森園集落 中村<なかむら>:中村集落にある井戸 注連原<しめばる>:注連原集落のお堂 伝建協加盟(山村集落) うきは市新川田篭伝統的建造物群保存地区 (伝建105・うきはしにいかわたごもり) 平成24年7月9日選定 うきは市は、福岡県南東部に位置する。市域北端部には、筑後川<ちくごがわ>が蛇行<だこう>しながら東から西へと流れ、その流域に筑紫平野<つくしへいや>が広がる。筑後川の支流のひとつである隈上川<くまのうえがわ>は、うきは市南東部から市域を二分するように北西に向かって流れる。隈上川上流側は田篭地区、その下流側は新川地区とし、河川に沿って集落が分布する。 新川地区及び田篭地区は、近世の新川村及び田籠村にあたり、元和<げんな>6年(1620)から江戸時代末期までは久留米藩の統治下にあった。当地では、江戸時代には灌漑施設<かんがいしせつ>が整備され、農地の開拓が進められ、こうした開拓は昭和30年代まで続く。 うきは市新川田篭伝統的建造物群保存地区は、新川地区の本村<もとむら>及び分田<ぶんだ>並びに田篭地区馬場、日森園<ひもりぞの>、中村及び注連原<しめばる>の六集落にまたがる隈上川両岸の延長約5800mの区域に、同じ谷筋にある田篭地区の美住<びじゅう>を加えた面積約71.2haの範囲で、河川、道、宅地、水田、井手を中心に構成される。 保存地区では、灌漑施設として隈上川に堰<せき>を設けて取水する井手が各所でみられ、細長い形状の棚田<たなだ>と10軒から30軒程度にまとまった集落が分布する。水田や宅地は石垣で築かれ、これらの石垣が川に沿って階段状になっているのが特徴的である。 主屋は基本的に南向きに建ち、主屋前面は農作業のためのツボ(前庭)とされる。このほか納屋<なや>、土蔵、小屋などが建つ。 うきは市新川田篭伝統的建造物群保存地区には、耳納山系<みのうさんけい>の山間部、隈上川沿いの谷筋に、井手を利用して稲作を営んでいる集落が分布する。近世以降の寄棟造<よせむねづくり>の茅葺<かやぶき>の主屋や、明治時代以降に普及した入母屋造<いりもやづくり>の瓦葺の主屋が良好に残り、宅地や棚田をなす石垣、社殿、辻堂<つじどう>、石造物、樹木、河川等と一体となって特徴的な歴史的風致を形成しており、我が国にとって価値が高い。 (文化庁の報道発表資料より転載。一部加筆) |
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八女福島 (八女市) やめふくしま (やめし) 八女市茶のくに観光案内所 ここだよ★ |
伝建地区:横町町屋交流館,田中義博家(朝日商事),松延新家,若菜静子家(御里),高橋真紀子家(ひるよけ),許斐<このみ>円児家(許斐本家),平井朋吉家,今里亨家(房屋),鶴辰徳家(堂島屋),喜多屋,堺屋,夢中落花文庫,福島酒造,正福寺,無量寿院,般若院,明永寺,西勝寺,祇園社,福島八幡宮,平田稲荷,恵比寿石祠・神像 伝建協加盟(商家町) 八女市八女福島伝統的建造物群保存地区 (伝建106・やめしやめふくしま) 平成14年5月23日選定 福島城の外堀と内堀に挟まれた東西約150m、南北約450m及び東西約650m、南北約200mのL字形の範囲で、屈折した道路や京町に残る枡形などに、城下町としての道路構造を残している。また、かつての中堀や外堀は農業用水路や公共水路として残っている。 |
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黒木 (八女市) くろぎ (やめし) 黒木町観光協会 ここだよ★ |
伝建地区:松木家,横溝家,覺法寺,津江神社,素盞鳴<すさのお>神社,中町弘法堂,黒木堰,三ヶ根廻水路,黒木廻水路,南仙橋 伝建協加盟(在方町) 八女市黒木伝統的建造物群保存地区 (伝建107・やめしくろぎ) 平成21年6月30日選定 平成22年12月24日名称変更(官報告示・平成23年1月1日より適用) 黒木町は、福岡県筑後地方の南部、矢部川と笠原川の合流点の北西に形成された。中世の猫尾城<ねこおじょう>の城下を起源とし、猫尾城の廃城後、元和<げんな>6年(1620)に筑後国が久留米藩、柳川藩に分割されると、矢部川がその境界となり、黒木の町は久留米藩の在郷町となった。 黒木は、天正15年(1587)に現在の下町が、次いで慶長年間に東に続き一旦北にクランクする形で道を通し、中町、上町が町立てされたと推定される。その際に中井手用水が、次いで正徳4年(1714)に黒木廻水路が整備されて現在の町並みや水路の基礎ができ、以後、江戸時代を通じて栄えた。 文政4年(1821)に上町、明治13年(1880)には上町、中町、下町の一部を焼く火事が起こり、町家の主屋は茅葺から居蔵造<いぐらづくり>への変化が促されたと考えられる。居蔵造は入母屋造妻入、桟瓦葺で正面と両側面に庇<ひさし>をつけ、外壁を塗り込め、二階正面は縦長窓を数か所穿<うが>つ。外壁下部の雨掛かりには近在で産出する巨大な青石を貼<は>るものもある。 保存地区は東西約1100m、南北約400mの範囲で、矢部川右岸の黒木町、矢部川の水面及び矢部川左岸に広がる農地を含む。 保存地区は、高度な水利技術で知られる矢部川の中流域に近世前期に成立した在郷町を中心とする。表通りの一部は近代に拡幅されたものの、近世後期以降の居蔵造の重厚な町家が残るとともに、矢部川の堰や木橋、町中を流れる水路、矢部川対岸の棚田など水利にまつわる歴史的風致を良く残し、我が国にとって価値が高い。 (文化庁の報道発表資料より転載。一部加筆) |
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有田内山 (有田町) ありたうちやま (ありたまち) 有田観光協会 ここだよ★ |
佐賀県 | 伝建地区:有田陶磁美術館,今右衛門古陶磁美術館,本陣,異人館,山口和代家,辻常喜家,法元寺,桂雲寺,八坂神社,弁財天神社,ドンバイ塀,大公孫樹<おおいちょう> 伝建協加盟(製磁町) 有田町有田内山伝統的建造物群保存地区 (伝建108・ありたまちありたうちやま) 平成3年4月30日選定 東西約1800m、南北約100mの通りに面した細長い町並みで、商家,窯元の屋敷,洋館,寺社建築など、江戸から昭和の各時代の建物が連なっている。 |
塩田津 (嬉野市) 【旧塩田町】 しおたつ (うれしのし) ここだよ★ |
伝建地区:長崎街道塩田宿レトロ館,職人館つるや,西岡家住宅,杉光陶器店,井上家,江口家,旧塩田郵便局,塩田検量所跡,塩田津荷揚げ場跡,立伝寺,生蓮寺,本応寺,常在寺,上福天神,塩田大明神,丹生神社二宮社,丹生神社下社 伝建協加盟(商家町) 嬉野市塩田津伝統的建造物群保存地区 (伝建109・うれしのししおたつ) 平成17年12月27日選定 塩田町は佐賀県南西部に位置し、町の中央を流れ有明海に注ぐ塩田川とその支流のつくりだした沖積平野にある。町のほぼ中央にある塩田津は、大きく蛇行する塩田川の旧河川西岸に沿って広がり、旧河川と並行する表通り(旧長崎街道)の両側に町家が並ぶ。天正期(1573~92)末までに町場として成立していたとみられ、寛永16年(1639)には佐賀藩の支藩である蓮池藩の行政拠点のひとつとなった。同時に有明海の干満の差を利用した川港として、米や陶磁器、その原料である天草陶石などの積卸しを行い、経済の中心地として栄えた。川港としての繁栄は戦後まで続いたが、次第に鉄道輸送に移行し、水害対策のために河川改修が行われた昭和52年(1977)に川港としての役割を終えた。また、表通りは明治37年(1904)に武雄から祐徳稲荷神社に至る馬車軌道が敷設され、これにともなって町家は曳き家され道幅が拡げられている。 保存地区は東西約360m、南北約700mの範囲で、寛政元年(1789)の大火後に普及した「居蔵家」<いぐらや>と称する形式の町家が表通りを中心に残る。居蔵家は瓦葺大壁造で、入母屋造妻入が多い。室内は通り土間に沿って表からミセ(店)、チャノマ(茶の間)、ザシキ(座敷)の3室が並ぶ平面を基本とし、これを拡大した平面もみられる。また、川側に高く築いた石垣には、川に降りる石段や洗い場が設けられ、川港である塩田津特有の景観をつくり出している。 保存地区は川港を中心に発展した商家町で、江戸時代の地割を残し、江戸後期以降に建設された居蔵造の町家が特徴的な町並みを形成するなど、歴史的風致をよく今日に伝え、我が国にとって価値が高い。 (文化庁の報道発表資料より転載。一部加筆) |
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浜庄津町 浜金屋町 (鹿島市) はましょうづまち はまかなやまち (かしまし) 鹿島市観光協会 ここだよ★ |
伝建地区:浄立寺,夷<えびす>三郎の祠,南舟津の町並み,庄金(庄津町・金屋町)の町並み 伝建協加盟(港町・在郷町) 鹿島市浜庄津町浜金屋町伝統的建造物群保存地区 (伝建110・かしましはましょうづまちはまかなやまち) 平成18年7月5日選定 鹿島市は佐賀県南西部、有明海の西に位置する。浜庄津町浜金屋町地区は浜川河口の右岸に位置し、長崎街道のひとつ多良海道<たらかいどう>が町の中央を通る。自然地形や職種に由来する地名があることなどから、浜川河口付近は比較的早くに陸地化し、中世には成立していたと考えられる。近世に鹿島藩の港町として発展し、浜庄津町は商人や船乗りなどが居住し、浜金屋町は鍛冶屋<かじや>や大工などが住む職人町であった。 保存地区は東西約220m、南北約160mの範囲である。緩やかに曲がる多良海道と小路が町のフレームを形成し、道沿いや敷地背後に水路が通る。敷地は短冊状のやや小規模なもので、主要な道の両側に真壁造の茅葺<かやぶき>や桟瓦葺<さんかわらぶき>町家が建ち並ぶ。主屋のうち桟瓦葺町家は入母屋造妻入が多く、茅葺町家は寄棟造で直屋<すごや>を基本に、矩折れ<かなおれ>やコの字型に棟を造るものもある。正面は土間口を大戸建てとし、床上には摺<す>り上げ戸を落とし込み、2階を開放的な連窓形式とする。 保存地区は、河港を背景として成立した在郷町であり、近世の地割をよく残すとともに、近世末から近代にかけて建築された茅葺町家と桟瓦葺町家が混在する特色ある歴史的風致を今日によく伝え、我が国にとって価値が高い。 (文化庁のプレス発表資料より転載。一部加筆) |
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浜中町 八本木宿 (鹿島市) はまなかまち はちほんぎしゅく (かしまし) 鹿島市観光協会 ここだよ★ |
伝建地区:旧乗田家住宅,浜郵便局跡,旧魚市場,継場,知恩寺,若宮神社,天満宮,恵比寿祠,山口醤油屋,光武酒造,呉竹酒造,峰松酒造,飯盛酒造,中島酒造 伝建協加盟(醸造町) 鹿島市浜中町八本木宿伝統的建造物群保存地区 (伝建111・かしましはまなかまちはちほんぎしゅく) 平成18年7月5日選定 鹿島市は佐賀県南西部、有明海の西に位置する。浜中町八本木宿地区は浜川左岸に位置し、長崎街道のひとつ多良海道<たらかいどう>が町の中央を通る。江戸中期頃から酒造が次第に盛んになり、江戸後期には十数軒の酒屋があった。近世を通じて大火が度重なり、文政11年(1828)の大火以降、居蔵造<いぐらづくり>の町家が建設されはじめた。 保存地区は東西約600m、南北約150mの範囲である。浜川に並行する多良海道を主軸とする街路と、水路が骨格を形成し、多良海道を中心に両側町をつくる。近世後期から昭和に至る様々な時代の多様な建築が残り、豊かな町並みを創り出している。居蔵造の主屋は、比較的規模が大きく、通り土間と床上からなる平面を基本に、さらに角座敷<つのざしき>を設け中庭を造る主屋などもある。酒蔵は、切妻造妻入で土蔵造2階建の大型のものが十数棟残る。 保存地区は、近世の宿場町から酒造など醸造業を中心に発展した町で、街路と水路を基本とする市街地形態がよく残り、居蔵造町家や茅葺町家<かやぶきまちや>、桟瓦葺真壁造町家<さんかわらぶきまかべづくりまちや>、土蔵造の酒蔵、武家住宅、洋風建築など、質の高い建築が豊かな町並みを創出し、特色ある歴史的風致を今日によく伝え、我が国にとって価値が高い。 (文化庁のプレス発表資料より転載。一部加筆) |
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東山手 (長崎市) ひがしやまて (ながさきし) 長崎国際観光 コンベンション協会 ここだよ★ |
長崎県 | 伝建地区:東山手地区町並み保存センター,野口彌太郎記念美術館(旧長崎英国領事館),東山手十二番館(長崎市旧居留地私学歴史資料館),古写真資料館・埋蔵資料館,オランダ坂,東山手洋風住宅群 伝建協加盟(港町) 長崎市東山手伝統的建造物群保存地区 (伝建112・ながさきしひがしやまて) 平成3年4月30日選定 東西約140m、南北約460mの範囲で、山手十二番館や東山手洋風住宅といった洋風建築物の他、活水女学院、旧英国領事館など木造、レンガ、コンクリート造りの建築物が点在する。また、オランダ坂の石畳の道や石溝、石標類なども残っている。 |
南山手 (長崎市) みなみやまて (ながさきし) 長崎国際観光 コンベンション協会 ここだよ★ |
伝建地区:南山手地区町並み保存センター,旧香港上海銀行長崎支店記念館,長崎市べっ甲工芸館(旧長崎税関下り松派出所),祈りの丘絵本美術館,大浦天主堂,グラバー園(旧グラバー住宅・旧自由亭・旧ウォーカー住宅・旧リンガー住宅・旧オルト住宅・旧長崎地方裁判所長官舎・旧三菱第2ドックハウス・長崎伝統芸能館,旧スチイル記念学校),須加五々道<すかごごどう>美術館 伝建協加盟(港町) 長崎市南山手伝統的建造物群保存地区 (伝建113・ながさきしみなみやまて) 平成3年4月30日選定 東西約270m、南北約800mの範囲で、東山手の南西側に位置し、幕末から明治時代頃に建てられた洋風住宅や宗教建築物、銀行建築物などが残っている。 |
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大島村神浦 (平戸市) おおしまむらこうのうら (ひらどし) 平戸観光協会 ここだよ★ |
伝建地区:城山公園,真教寺,金剛院,西福寺,天降神社,和多津見神社,事代神社 伝建協加盟(港町) 平戸市大島村神浦伝統的建造物群保存地区 (伝建114・ひらどしおおしまむらこうのうら) 平成20年6月9日選定 平戸市は、長崎県の西北部に位置し、平戸市大島村のある的山大島<あづちおおしま>は、平戸市街の北方約15kmの玄界灘に浮かぶ島で、神浦は大島の南東部に位置する。的山大島は遣明船の寄港地として知られ、中世末には既に神浦に集落が成立していたと見られる。寛永年間(1624~44)から平戸藩政務役として支配した井元<いのもと>氏が寛文年間(1661~73)に鯨組を組織し、その本拠地を神浦に置いた。このとき湾が埋め立てられ、組網工場等の施設が作られた。享保年間(1716~35)の鯨組廃業後、これら施設の跡地等にも町家が建てられて現在見る町並みの骨格ができ、その後は大きく変化することなく維持されてきた。 保存地区は、東西約700m、南北約650mの範囲で、神浦の集落と海、河川の水面、周辺部の高台に建つ社寺や旧耕作地等を含む範囲である。江戸時代中期から昭和前期の町家が建ち並び、離島の港町の景観を色濃く伝えている。街路の山側は旧来の敷地で奥行きが浅いのに対し、海側は敷地奥行きが深く、鯨組創業による埋め立てによって陸地となり、享保の廃業によって町家が建てられていった敷地と考えられ、集落形成の過程を知ることができる。町家は、切妻造平入、桟瓦葺<さんかわらぶき>で、街路の屈曲に合わせて台形の平面が多いのが特徴である。 保存地区は、近世から近代にかけての離島の港町の歴史的風致を残すとともに、中世末期から近世初期にかけて成立した漁村集落が鯨組の創業と廃業という出来事を経て近世的な港町に変容していった姿を今日に良く伝えており、我が国にとって価値が高い。 (文化庁のプレス発表資料より転載。一部加筆) |
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神代小路 (雲仙市) 【旧国見町】 こうじろくうじ (うんぜんし) ここだよ★ |
伝建地区:鍋島邸宅,みのつる資料館,神代小路歴史民俗資料館,永松邸,帆足邸 伝建協加盟(武家町) 雲仙市神代小路伝統的建造物群保存地区 (伝建115・うんぜんしこうじろくうじ) 平成17年7月22日選定 東西約250m、南北約450mの範囲で、南北二本の小路や当時の地割などの特徴をよく残す。小路脇には水路を通し、切石または玉石積の石垣や生垣が並ぶ。敷地内には江戸時代の主屋や長屋門などの建物を良く残し、水路から取水して池泉式庭園等が造られている。 |
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豆田町 (日田市) まめだまち (ひたし) 日田市観光協会 ここだよ★ |
大分県 | 伝建地区:豆田町文化交流館,旧豆田検番資料館,天領日田資料館,広瀬資料館,市山亭懐古館,日本丸館(岩尾薬舗),薫長酒蔵資料館,天領ひな陣屋,旭饅頭,諌山家,石橋家,諌山文光堂,いわし倶楽部,木茂麗日工房,旧古賀病院,草野本家,横山家,日田醤油,水田金物店,長福寺,豆田八阪神社,六地蔵,源兵衛稲荷 伝建協加盟(商家町) 日田市豆田町伝統的建造物群保存地区 (伝建116・ひたしまめだまち) 平成16年12月10日選定 東西約250m、南北約400mの範囲で、城下町築造時及びその後の拡張時の整然とした町割や江戸前期に建設された水路が残っている。江戸初期から昭和初期にかけての各時代の建築様式の町家や特色ある建造物が残っている。 |
北台南台 (杵築市) きただいみなみだい (きつきし) 杵築市観光協会 ここだよ★ |
伝建地区: 北台:北台武家屋敷(大原邸,能見邸,磯矢邸),藩校学習館跡,藩校の門,酢屋の坂,勘定場の坂,岩鼻の坂,番所の坂 南台:南台武家屋敷,きつき城下町資料館,一松邸,中根邸,元田塾跡,塩屋の坂,飴屋の坂 伝建協加盟(武家町) 杵築市北台南台伝統的建造物群保存地区 (伝建117・きつきしきただいみなみだい) 平成29年11月28日選定 国東半島<くにさきはんとう>南部に位置する大分県杵築市の中心市街地は、杵築藩の城下町を引き継ぐ。杵築は大友氏配下の木付<きづき>氏の本拠であったが、文禄<ぶんろく>2年(1593)に豊臣秀吉の蔵入地<くらいりち>となり、慶長5年(1600)には細川忠興<ほそかわただおき>の支配下に入った。正保<しょうほう>2年(1645)に松平英親<まつだいらひでちか>が入封<にゅうほう>した後は、幕末まで松平氏が藩を治めた。小藩ながらも17世紀後期より七島藺<しちとうい>の生産で経済基盤を築き、教育が盛んで、多くの文人を輩出している。 城下町は、細川忠興家臣で城代の松井康之が慶長期に縄張りをし、17世紀半ば、松平英親の時代に地割が概<おおむ>ね整った。守江湾<もりえわん>に突き出す丘陵北麓に藩主の居館<きょかん>が置かれ、その西方の海蝕崖<かいしょくがい>で囲まれた台地は武家地、台地を囲む低地は町人地とされた。台地は谷で南北に分けられ、北部は北台、南部は南台と呼ばれる。南台の西端には寺地が配された。 町人地は戦後に道路拡幅がなされたものの、北台と南台の武家地は住宅地として今日<こんにち>に至り、正保以来の藩政期の地割を良好に留めている。 保存地区は、北台及び南台の旧武家地から成る。両台とも江戸時代に数度の大火があったが、その都度再建され、江戸末期の武家屋敷を良く残す。 北台と南台の周縁<しゅうえん>には要所に坂が切り通され、台地上には家老丁、本丁、裏丁等の区画がなされて、主に高禄<こうろく>の家臣の屋敷地が配された。敷地は石垣で造成して土塀<どべい>などで囲い、通りに面して長屋門<ながやもん>や薬医門<やくいもん>で門口<かどくぢ>を開く。武家住宅の主屋<しゅおく>は茅葺<かやぶき>や瓦葺<かわらぶき>で、式台を構えて格式を示し、主屋と門の間には前庭を配してソテツやマツを植える。 杵築市北台南台伝統的建造物群保存地区は、南北台地上に区画された杵築城下の武家地で、藩政期の地割を踏襲<とうしゅう>し、近世武家住宅の主屋と門及び、その形式を受け継いだ近代の住宅主屋を伝統的建造物として良く残す。高低差のある地形を生かして天然の要害<ようがい>を成し、坂を巧<たく>みに配して武家地を結節する縄張りは、石垣や石段、土塀などによって雄大な景観として表われ、その独特な歴史的風致は我が国にとって価値が高い。 (文化庁の報道発表資料より転載。一部加筆) |
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飫肥 (日南市) おび (にちなんし) 日南市観光協会 ここだよ★ |
宮崎県 | 伝建地区:飫肥城(大手門・旧本丸跡・松尾の丸・歴史資料館),国際交流センター小林記念館,豫章館,藩校振徳堂,旧伊東伝左衛門家,旧山本猪平家,斉藤家,稲沢家,郡司家,安藤家,梅村邸,合屋家,小鹿倉家 伝建協加盟(武家町) 日南市飫肥伝統的建造物群保存地区 (伝建118・にちなんしおび) 昭和52年5月18日選定 東西約450m、南北約300m及び南隣の後町通りを中心とした東西約400m、南北約70mと大手門通りと国道222号線が交わる交差点を中心とした東西約40m、南北約100m、更に前鶴通りを中心とした東西約370m、南北約80mが範囲で、江戸初期に完成して以来、小規模な城下町として侍町と町人町が城を中心に小さくまとまっている。石垣は町の随所に見られる。 |
美々津 (日向市) みみつ (ひゅうがし) 日向市観光協会 ここだよ★ |
伝建地区:日向市歴史民俗資料館,美々津まちなみセンター,美々津軒,矢野家,岡部家,橋口氏庭園,旧美々津郵便局,正覚寺,立磐神社,愛宕神社,美々津県庁跡,高札場,海軍発祥之地記念碑,ツキヌケと呼ばれる防火用の石畳の路地 伝建協加盟(港町) 日向市美々津伝統的建造物群保存地区 (伝建119・ひゅうがしみみつ) 昭和61年12月8日選定 東西約330m、南北約350mの範囲で、上町、中町、下町の三町がある。上町は、耳川の渡舟場に直接通じ江戸時代には藩蔵、役人の屋敷、高札場があった。中町は、廻船業者の商家が数多く建ち並び、船員や船大工なども居住していた。下町にも船員や船大工が多く居住していた。 道路は、いずれも直線的で、ツキヌケと呼ばれる支道路は火災発生時の延焼防止を主目的として設けられたと言われている。 |
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十根川 (椎葉村) とねがわ (しいばそん) 椎葉村観光協会 ここだよ★ |
伝建地区:十根川神社(八村杉),椎葉村特有の民家群 伝建協加盟(村落) 椎葉村十根川伝統的建造物群保存地区 (伝建120・しいばそんとねがわ) 平成10年12月25日選定 東西約1000m、南北約700mの範囲で、集落は深い渓谷の斜面に張り付くように点在している。険しい山に囲まれた谷間の段丘地に、石垣で段状に敷地を造成し、耕作地や屋敷地としている。民家は3~4室の広い部屋が一列に並ぶ細長い建物。また、馬屋や倉、石垣、石段などが残っている。 |
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出水麓 (出水市) いずみふもと (いずみし) 出水市観光協会 ここだよ★ |
鹿児島県 | 伝建地区:竹添邸,武宮邸,税所<さいしょ>邸,西照寺,諏訪神社,威徳神社,護国神社,御仮屋門(出水小学校),出水カトリック協会,日本一のお地蔵さん 伝建協加盟(武家町) 出水市出水麓伝統的建造物群保存地区 (伝建121・いずみしいずみふもと) 平成7年12月26日選定 東西約650m、南北約670mの範囲で、麓建設時の街路や屋敷地割が良く残っている。地区内には5本の南北街路と4本の東西街路が通じ、大きな街区を形成している。いずれも道に面して石垣を築き、その上生垣を設けている。各武家屋敷では、街路に面して門を開き、敷地の街路側は前庭となり、街路から後退した位置には主屋を始め蔵や納屋、社などの附属家が建てられている。 |
入来麓 (薩摩川内市) 【旧入来町】 いりきふもと (さつませんだいし) 薩摩川内市観光物産協会 ここだよ★ |
伝建地区:入来郷土館,入来院家(茅葺門),田中家(漆喰壁土蔵),赤城神社,三十三観音塔,お仮屋馬場<おかいやんばば>,尾迫馬場<おさこんばば>,中ノ馬場<なかんばば>,船瀬殿墓,石敢當<せっかんとう> 伝建協加盟(武家町) 薩摩川内市入来麓伝統的建造物群保存地区 (伝建122・さつませんだいしいりきふもと) 平成15年12月25日選定 東西約700m、南北約450mの範囲で、北半分は緩やかに湾曲する街区に沿って不整形に屋敷割りされているのに対して、南半分は東西路4本と南北路2本を骨格として整った街路構成になっていて、それに沿って屋敷割されている。江戸末期の武家屋敷の主屋やその後昭和初期頃までに建てられてた主屋、表門及び石垣などが残っている。 |
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知覧 (南九州市) 【旧知覧町】 ちらん (みなみきゅうしゅうし) 南九州市知覧観光協会 ここだよ★ |
伝建地区:旧高城家,森重堅邸庭園,佐多直忠邸庭園,佐多民子邸庭園,佐多美舟邸庭園,平山亮一邸庭園,西郷恵一郎邸庭園,平山克己邸庭園,知覧型二ツ家,稽古所跡,御仮所跡,亀甲城跡,胥傚館<しょうこかん>,知覧忠世の彰忠碑 伝建協加盟(武家町) 南九州市知覧町知覧伝統的建造物群保存地区 (伝建123・みなみきゅうしゅうしちらんちょうちらん) 昭和56年11月30日選定 平成20年12月2日名称等変更(官報告示・平成21年1月1日より適用) 東西約940m、南北約170mの範囲で、上郡地区り整然とした道路は、江戸中期に整備されたものといわれ、街区は防備を兼ねた城塁式の区画となる。道路割りは領主の居宅を中心として行なわれ、道路の両側には武家の石垣を築き、石垣の上にイヌマキの生垣が作られている。 |
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加世田麓 (南さつま市) かせだふもと (みなみさつまし) 南さつま市観光協会 ここだよ★ |
伝建地区:日新寺跡,佐岐比佐神社,護国神社,竹田神社,別府城跡,旧鰺坂正一郎邸庭園 伝建協加盟(武家町) 南さつま市加世田麓伝統的建造物群保存地区 (伝建124・みなみさつましかせだふもと) 令和元年12月23日選定答申 薩摩半島の南西端に位置し、加世田麓は、市域の北部、加世田川西岸の独立丘陵と台地に挟まれた南北に細長い平たん地に位置する。江戸時代、鹿児島藩は領内に外城<とじょう>と呼ぶ行政区画を設けて統治し、外城には家臣団<かしんだん>の居住域である麓に、地頭仮屋<じとうかりや>と称する行政庁を置いた。12世紀後期に別府氏が加世田川西岸の独立丘陵に別府城を築いたが、15世紀中期以降は島津家が加世田を領有し、江戸時代には加世田も外城の一つとなった。別府城の周辺に広がりをみせていた武家地は、18世紀中頃に益山<ますやま>用水が開削<かいさく>されるなど、この頃、地割が整備されたと考えられる。近代以降も南薩<なんさつ>地域の政治経済の拠点として発展するが、市街地の中心は麓の北方へと移り、旧武家地の地割は残された。 保存地区は、加世田麓のうち、加世田川西岸の区域とその南の竹田神社を含む範囲である。自然地形に沿って緩<ゆる>やかに曲がる大きな2本の街路と、台地裾野<すその>の湧水地<ゆうすうち>から延びる水路に沿う数本の小路<しょうじ>は、近世末期の旧態をよく留める。屋敷地の周囲には石垣<いしがき>と生垣<いけがき>を設け、敷地境から若干後退させて腕木門<うでぎもん>を開く。街路との間には庭を設けて、主屋<しゅおく>をやや奥に配し、その周囲に附属屋を建てる。主屋<おもや>は、入母屋造<いりもやづくり>、平入桟瓦葺<ひらいりさんがわらぶき>、平屋建<ひらやだて>を基本とする。縁<えん>を介<かい>してザシキが庭に面する平面形式は、昭和初期になっても継承される。 南さつま市加世田麓伝統的建造物群保存地区は、中世以来の山城周辺に形成された武家地を起源とする麓であり、自然地形に沿って曲線を描く街路や地割は近世以来の姿をよく留める。近世の武家住宅やその形式を引き継ぐ主屋をはじめ、益山用水とそこに架かる石橋、敷地を画する石垣や生垣、腕木門などとともに、地形を巧みに活かして形成された麓の独特な歴史的風致をよく伝えており,我が国にとって価値が高い。 (文化庁の報道発表資料より転載。一部加筆) |
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渡名喜島 (渡名喜村) となきじま (となきそん) ここだよ★ |
沖縄県 | 伝建地区:渡名喜村立歴史民俗資料館,旧家上門家<ウィジョーヤー>,渡名喜里遺跡,フグキ(樹木)群 伝建協加盟(島の農村集落) 渡名喜村渡名喜島伝統的建造物群保存地区 (伝建125・となきそんとなきじま) 平成12年5月25日選定 東西約570m、南北約480mの範囲で、渡名喜島の集落全てが保存地区に指定されている。家屋は道路より1m程低くした土地に建て、敷地と道路の境は石垣などで囲んでいる。また、石垣の内側には屋敷林を植えて台風などの災害に備えている。 |
竹富島 (竹富町) たけとみじま (たけとみちょう) 竹富町観光協会 ここだよ★ |
伝建地区:喜宝院蒐集館<しゅうしゅうかん>,竹富民藝館,なごみの塔,ンブフル展望台,安里屋クヤマ生誕の家,仲筋井戸<ナージーカー>,水牛車観光 伝建協加盟(島の農村集落) 竹富町竹富島伝統的建造物群保存地区 (伝建126・たけとみちょうたけとみじま) 昭和62年4月28日選定 東西約400m、南北約880mの範囲で、竹富島の3つの集落(東・西・中筋)全域を含み、集落内の敷地は、ほとんど南に入り口を構え、敷地一列ごとに東西の道が通るので、集落内の道は密で整然としていて、白砂が敷き詰められている。各屋敷は、周囲にサンゴ石灰石の石垣を1.5m前後の高さに積んで区画し、主屋が敷地のほぼ中央に建っている。島の家屋の屋根は以前は茅葺きだったが、現在はほとんどが、赤瓦葺きとなっている。 |
★解説文は、「文化庁」のHP、全国伝統的建造物群保存地区協議会発行の「歴史の町並」、各市町村がまとめた保存計画などの文章から抜粋しました。
小京都・小江戸リストなどに入っている重要伝統的建造物群保存地区指定地もこちらに掲載しました。
伝建協=全国伝統的建造物群保存地区協議会
加盟地区の詳細については、全国伝統的建造物群保存地区協議会のホームページをご覧下さい。
◆資料送付に協力してくださった各市町村の観光担当及び教育委員会の方々には、心より感謝申し上げます。